4.アルコイリスの背
アルコイリスと約束をした翌朝、スティーブンは王宮にいた頃と同じ時間に起きてしまった。まだ外は薄暗く使用人たちでさえ、完全には動き出していない時間だ。人の気配も少なく、さすがにこの時間から自分が動き出しては使用人たちが困るだろうと、窓の外を眺めた。
離宮に来た時は、もう、全てどうでもよくなっていたのだ。自身ではどうにもならないと、ならばどうなってもいいと本気でそう思った。それがどうだろう。今の気持ちを言い表すに相応しい表現がなくて、スティーブンは困ってしまった。困りはしたが、悪い気分でないことは確かだった。
いくらかそうしていると、段々と空が白み始めてきて使用人たちも動き出したので、スティーブンは手早く身支度を整えて部屋を出た。慌てる使用人の一人に水とパンだけを貰って、行儀など無視しながら厩に行く道で食べた。
「殿下、今日はゆっくりでしたね」
「アルコイリスが待ってますよ」
「……ありがとう」
馬丁たちは既にアルコイリスに馬具をつけて厩の外で待っていてくれた。王宮にいた頃であれば、もうアルコイリスの背に乗って走り回っていた時間だ。確かに「ゆっくり」だっただろう。スティーブンは何故か泣きたくなったが、口の中を噛んでやり過ごした。
「アルコイリス、行けるか?」
当たり前だろうと、アルコイリスが土を蹴る。乗り上げた体はやはり少し重たかったが、昨日ほどではなかった。久しぶりに乗った馬の背から見る景色を、いつも見ていたそれであるのに初めて見たような気がして、スティーブンは少し戸惑ってしまった。
「いってらっしゃい、殿下!」
「思いっきり駆けてやってください!」
「ああ」
スティーブンが腹を足で触れると、アルコイリスは待ってましたと言わんばかり、ぐん! と走り出した。アルコイリスは足の速さに特化した馬ではなかったが、決して遅くはない。ぐんぐんとスピードを上げていくアルコイリスの手綱をスティーブンはしっかりと掴んだ。
朝の冷たい風が頬をかすめアルコイリスの息遣いを感じながら、スティーブンは思い出した。自分は、ただ、こうして馬を走らせるのが好きだったと。乗馬は王宮にいた頃のスティーブンにとっての少ない娯楽だった。
アルコイリスはまだ若いが、これまでの馬たちも素晴らしい馬ばかりだった。勉強に躓いたり講師の言った通りに上手くステップが踏めなかったり、剣術で相手から一本も取れなかったりした時は両親よりも先に彼らがスティーブンを慰めた。どうして忘れていたのだろう。自分はこんなにも、今、楽しいのに。
しばらくそうして走らせたので、スティーブンがそろそろ降りようとすると、アルコイリスが嫌がってむずがる子どものようにわざと背を揺らしてくる。
「あっはは、殿下。今日はもうしばらくは無理ですよ」
「アルコイリスずっと待ってたんで」
と、馬丁に笑われる始末で、スティーブンもつられて笑ってしまった。こうなっては仕方がないと歩かせて、アルコイリスが満足するまで付き合うことにした。
「あら、殿下。本日は乗馬をなさっているのですか」
「……今日は、随分と早いな」
近くに時計はなかったが、それでも正午までにはまだ時間があった。しかしエイダはいつものすまし顔で馬場に現れて、アルコイリスに乗るスティーブンに声をかけた。
「昨日、誰かさんに早めに追い返されましたので」
「追い返した訳では」
「存じ上げております。まだされるのでしたら、わたくしはあちらでお待ちしております」
「ああ。いや、待って」
「はい?」
「君、馬には乗れないの?」
「そうですね。乗れません」
「そうなんだ」
「ええ」
「じゃあさ」
スティーブンは注意しながら、ゆっくりとエイダに近寄った。アルコイリスも主人が何をするつもりなのか分かっているように、大人しく従っている。昨日大暴れして噛みついてきた馬と同じだとは到底思えないと、スティーブンは小さく笑った。
「? え、ええ!? きゃあ!」
「ちょっと付き合って」
「つ、つきあってって……」
スティーブンはエイダを引っ張り上げて、自分の前に横向きで乗せてしまった。突然の浮遊感と不安定さにエイダはスティーブンに抱き着いたが、そんなことを気にしてはいられないようで、心細げに眉をひそめている。さすがにここで、いたずらが成功したと笑いだしたら怒られるだろうと、スティーブンはそれを堪えた。
「大丈夫、アルコイリスは賢い馬だから」
「そういう問題では、それに、アルコイリスも人を二人も乗せては、重たいでしょうに」
それを聞いたアルコイリスは、不満そうに前脚で地面を叩く。
「ほら、怒っています。殿下、わたくし降りますから」
「違う違う。アルコイリスは馬鹿にするなと怒っているんだ」
そうだ、と言うようにアルコイリスが鼻を鳴らす。エイダはやはり困った顔でスティーブンを見上げた。
「アルコイリスは軍馬の血筋でね。駿馬と呼ばれる馬よりも体が大きく力が強い。僕や君程度が乗った所で何ともないんだ」
「そう、なんですか? ええと、ごめんなさいね、アルコイリス。馬鹿にした訳ではないのです」
「じゃあ走らせるよ」
「走るんですか!?」
「ふ、走るんだよ」
もう堪えきれず、スティーブンは笑いをこぼしてしまった。しかしエイダは気づかず、抱き着いている手に力を込める。スティーブンはそれにもまた笑いながら、先ほどよりはゆっくりとアルコイリスを走らせた。
エイダは一度だけ小さく悲鳴を上げたが、その後は流れる景色を楽しんでいるようだった。どうしても駄目そうならすぐに降ろそうとしていたスティーブンはそれを見て、もう少しだけ速度を速めた。
走らせたり歩いたりをしばらくした後、アルコイリスは満足したとでも言うように止まって動かなくなった。本当に賢い馬だとスティーブンはまた笑ってしまった。
スティーブンは一人では降りられないエイダを抱えて、後を馬丁に任せアルコイリスと別れた。エイダが降ろしてください、と言うのでためしに降ろしてみると、足が震えて小鹿のようであったので、スティーブンは彼女を抱えたままサンルームに連れて行った。
「お手数をおかけしました……」
「まさか、僕が無理に乗せたんだ。痛むところはない?」
ことの顛末を室内から見ていた執事に叱られたばかりのスティーブンは、エイダの好きなショートケーキを献上しながら甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いた。さすがにエイダももう何も言わなかった。
「ありませんわ」
「よかった。君は乗馬は習わなかったの?」
「まあ、必須ではないものでしたので。馬に乗ったのも今回で二度目です」
「一度目に何か失敗でも?」
「失敗というか、母が嫌がって」
「母君が。それは、悪いことした」
「いえ、今回はとても楽しかったです。お馬って、綺麗で逞しいのですね。……先に仰って頂ければもう少し余裕を持てたと思いますが」
「すまない」
「お口が笑っていらっしゃいますわ」
「っ、ふ、すまない」
エイダはスティーブンをきっ、と睨みつけたが、王宮で海千山千の狸や狐と渡り合ってきた彼からすれば何のこともなかった。
「本当に悪いと思っているよ、次は無理にはしない」
「次があるんですか」
「え、やっぱり、嫌だった?」
「そういうことでは」
「今度は事前に言うよ。だから、また一緒に乗って欲しい」
「……仕方がありませんね」
エイダは困ったように笑ってみせた。夢で見た笑顔ではなかったけれど、スティーブンは少しだけ満たされた気分になった。
「……ねえ」
「はい」
「王宮に戻ろうと思うんだ」
「はい」
「いや、はい、じゃなくて。……どう思う、教育係としては」
「特には何も」
「えっと、戻ってもいいってこと?」
スティーブンはおずおずとそう聞いたが、エイダは背筋を正して彼に向き直った。
「いいも何も、王宮は殿下がお戻りになる場所であり、それは当然のことでございますもの」
「当然、なのだろうか」
「ええ、当然ですわ。スティーブン・フィエルテ王子殿下、陛下の次代である貴方様の他に玉座につく者などおりません。然るに、いずれ王宮は貴方様の所有するべきものとなります。未来の所有者が戻らずしてどうしますか」
スティーブンは初め、何を言われたのか理解できなかった。布が水を吸うようにじわりとエイダの言葉が染み込んでくるが、それには時間がかなりかかった。エイダはその間、何も言わずただじっとスティーブンを見ていた。
「……そ、うか」
「ええ」
「そうか」
スティーブンは下を向いて一つ瞬きをした。零れたのは涙ではないと誤魔化したかったが、それには無理があった。ただ、哀しみのそれではなかった。それは断言できた。
「いつ、戻ればいいと思う」
「いつでも、今日でも明日でも。殿下が思うとおりに」
「ふ、さすがに今日明日だと皆が困るだろう。だが、そうだね。明後日と言ったら行けるかな」
近くで給仕をしつつ、話を聞いていた執事が深々と頭を下げた。小刻みに肩が震えていたのを、スティーブンは見ないふりをした。
「君は?」
「わたくしが、何でしょう?」
「君は、僕が王宮に戻った後、どうなる。王都には戻るんだろう?」
「どう……ええ、と、そうですね。陛下から教育係の終了を言いつけられましたら、領地に戻ります」
「王都の屋敷でなく、領地に戻るのか」
「この時期ですと、弟妹が学校の長期休暇でそちらにいる筈なので」
エイダはラフィネ公爵家の長子だった。四人の弟妹はすぐ下が今年度で貴族学院を卒業するが、一番下はまだ幼稚舎に通っている。長期休暇にはいつも兄弟全員で領地に戻っていたので、命じられた仕事が終わればそうなるだろう。
「ふうん」
スティーブンはテーブルに肘をついて、顎を手に乗せた。
「殿下、お行儀が」
「乗馬は二度目だったのだろう、一度目はどんな風だった?」
「……物心つかない時に、父が」
「ラフィネ公爵が?」
あんまりにもな切り返しだったが、エイダはそのまま話しだした。
「わたくしは覚えてはいないのですが、父と二人乗りをしたそうで。……その際にわたくしがものすごく泣いたそうで」
「ああ、子どもには怖いかもね」
「母が激怒しまして」
「ああ……」
「それ以来、わたくしを馬には乗せてはいけないと」
「僕、ラフィネ夫人に謝らないといけないね」
「ふふ、そうですね」
その日、二人はそのまま穏やかに話をして過ごした。離宮での生活が、終わろうとしていた。
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