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3.珈琲とミルクの比率

 エイダはやはり毎日やってきて、読書をしたり散歩をしたりお茶を飲むように命じ、その合間でスティーブンと他愛のない話をした。



「お酒をお飲みにならないのなら、殿下はどんな飲み物がお好きですの?」

「紅茶も飲むけれど、珈琲の方が好きかな」

「珈琲ですか」

「ああ、君、苦手だったっけ」

「いつの話をなさっているのです? ……ミルクを足せば飲めますわ。香りは好きです」


「殿下は昔から歴史がお得意でしたね。よい勉強法などございますか?」

「書くか諳んじるかしてひたすらに覚える。それ以外に道はないよ」

「暗記系は仕方がありませんね」


「あら、お髭が」

「そ、剃ったはずだが」

「ご自分で? 残っています」

「……剃ってくる」

「よろしいのでは? 指摘しておいてなんですが、じっと見なければ分からない程度ですし、公の場に出る訳ではありません」

「剃ってくる」

「はあ……」



 そんなよく分からない生活も一ヶ月が経った。エイダはやはりすまし顔で、スティーブンに何かを言いつけそれを達成すれば小さいが分厚い“よくできました帳”に可愛いハンコを押した。



「そういえば、君、今どこに滞在しているんだ?」



 ぼんやりと珈琲を飲みながら、スティーブンは特に何も考えずそれを聞いた。教育係などというのだから、離宮に滞在してもいい筈なのにエイダはいつも昼より少し前に来て夕方になれば帰っていく。彼女の自宅は王都であるし、この離宮は王都からは馬車で一日かかる。この辺りに公爵令嬢が寝泊まりするような宿泊施設はなかった。スティーブンはその質問が口から出た後で、本当にどこから来ているのか不思議に思った。



「ミテの宿泊施設に滞在しております」

「ミテって、ここから半日はかかるじゃないか」

「それは言い過ぎですわ。五時間程です」

「ご、って」



 ミテとは離宮と王都の間にある観光都市のことだ。確かにあそこであれば、高位貴族が宿泊しても耐えうる施設がある。スティーブンも離宮に来る時にそこで一泊した。しかし遠い。エイダは何でもないように言ったが、つまり毎日往復十時間かけているということになる。



「何もそんな所に泊まらなくても」

「ミテよりこちら側の地域には宿泊施設がございませんの」

「ここに泊まればいいじゃないか」



 今更ではあったが、聞いてしまっては放っておく訳にもいかなかった。離宮は王族の別邸であるが、客を招く為の施設でもある。当たり前であるが、客間だって多くあった。


 そう言ったスティーブンに対して、エイダはパチパチと目を瞬かせた。



「ありがとうございます。お気持ちだけ頂きますわ」

「いや、大変だろう。何故――」

「火のない所に煙は立たぬ、と申しますが、火打石を持つ人々の前にスギの枯れ葉を差し出すようなことはしてはいけません」



 そう静かに窘められて、スティーブンは顔に血が上るのを感じた。


 第一王子の下に、未婚の公爵令嬢が足しげく通っているのだ。それだけでも社交界ではいい話題だろうが、それが同じ屋根の下で寝泊まりを始めたとあれば、あることないこと面白おかしくされるだろうことが想像に難くない。王宮であれば多くの貴族や文官、武官、使用人たちが働いているのでそこまでではないが、ここは離宮でスティーブン以外の者は皆、使用人だ。言い逃れもできない。



「すまない、浅慮だった」

「謝られることではありません。しかし、そうですね。ハンコを差し上げます」

「え、いや、何故……?」

「殿下が、わたくしを慮ってくださったからですわ」



 渋るスティーブンに“よくできました帳”を出させ、ハンコを押すエイダは、心なしか口角をほんの少し上げているようにも見えた。その日の夜、スティーブンはエイダが自分に向かって微笑む夢を見た。


―――


 移動に片道五時間前後かかり、正午前に離宮に来るのであれば七時前にはミテの宿泊施設を出ている筈だ。令嬢に必要な準備や朝食などの時間を考えれば、その一時間から二時間前には起きているだろう。帰りは十七時か十八時に帰っているがつまり宿泊施設に戻るのは二十二時か二十三時だ。そこから夕食と寝る支度、その他諸々のことををしていれば横になるのは二十四時を回っていてもおかしくはない。



「来る時間を遅らせて、帰る時間を早めたらいいんじゃないか」



 本日の茶会で出されたのは珈琲だった。スティーブンがエイダに珈琲が好きだと伝えてから、珈琲が出される割合が増えたように思う。エイダは変わらずに紅茶やハーブティ、カフェオレを飲んだりしているが、スティーブンには珈琲を用意されることが増えた。



「わたくしが離宮に滞在する時間は多くても五時間から六時間です。これ以上削ることはできません」

「しかし」

「移動中、馬車の中で休んでいますし食事も済ませております。ご心配には及びません」

「一ヶ月もそんな生活をしていれば、いつ体が壊れてもおかしくはない。せめて休息日を定めるべきだ」

「……」

「何だ?」

「殿下がご公務に費やされたお時間と、とられていた睡眠時間に比べれば、何のこともございませんわ」



 エイダはやはりすましてミルクをたっぷり入れた珈琲に口をつけた。そう言われてしまっては、スティーブンにはもうそれ以上の言及ができないのだ。ただでさえ昔から勉強のしすぎだ働きすぎだと、ずっと言われてきたスティーブンである。特に母であり王妃であるアリスには泣かれた程であったのだ。大丈夫だと笑い、自分はこうしなければならないのだと逆に説得をしたものだった。



「……それ、珈琲の味する?」

「しますわ」



 強引な話題の転換であったけれど、スティーブンはずっと気になっていたのだ。カフェオレを飲んでいると言い張るエイダのカップには、クリーム色に近い液体が入っている。ホットミルクではないのだろうけれど、珈琲が入っているにしては色が薄い。



「もう少し珈琲入れてあげようか」

「結構です、あ。結構ですったら! もう、そんな意地悪をなさるとハンコを押してさしあげませんよ!」

「ふ、はは、それは困る」



 スティーブンが面白がって珈琲のポットを持ち上げると、エイダはそれに珍しく慌てて、カップを彼から遠ざけた。すまし顔が崩せたからかあまりにも子どもっぽいことをしてしまったからか、スティーブンは笑いが止められなかった。



「ごめん、冗談だよ。止めるから怒らないで」

「……次はありませんからね」

「ああ、肝に銘じておこう。君に珈琲をすすめてはいけないって」



 エイダはむっと口を閉じたが、それ以上何も言わなかった。



「君は何が好き?」

「え?」

「飲み物」



 エイダはカップを置いて、爪先にやはり愛らしい爪紅を乗せた指先をゆるく絡めた。



「……蜜柑の」

「蜜柑の?」

「オレンジではなく、蜜柑のジュースが好きです」

「酒は?」

「我が家の領土の特産品ですもの、もちろん好きですが、お酒と蜜柑ジュースであれば後者の方が好きです。オレンジジュースは多く作られますが、蜜柑ジュースは作られる量が少ないのです」

「へえ、そうなんだ」

「そうなんです」



 話は終わりだと、エイダは目を閉じてミルクたっぷりのカフェオレを飲んだ。スティーブンは笑いをこらえるのに必死であったが、ここで吹き出してしまえば機嫌を損ねることは必至だと、どうにか耐えた。


 その日もハンコを一つ押して、エイダは帰っていった。どうにかいつもよりほんの少しだけ早くエイダを馬車に乗せることに成功したスティーブンは、彼女が帰った後、離宮に来てから初めて厩に顔を出した。意味はなかった。何となく、そういえば、自分の愛馬もここにいる筈だと思い出しただけだった。



「うわ! どうしたんだ、アルコイリス! 落ち着いてくれよう!」

「他の馬まで興奮しちまってる! 何か、美味いもんでもやれ! 早く!」

「もうやったし! こいつらはいっつも最高級の餌食ってるよ!」



 厩に近づけばそんな悲鳴が聞こえてきた。アルコイリスと呼ばれた馬は、スティーブンの愛馬だ。王宮にいた頃は毎朝乗っていたとても美しい馬だった。気づけばスティーブンは走っていた。体が重たかったが、構ってはいられなかった。



「どうした!」

「え、ええ!? 殿下!?」

「ああ、それでか、って! アルコイリス! どうどうどうどう!」



 大柄な馬丁が二人がかりで抑えようとしているが、アルコイリスは二人を軽々振り払い力強い足で地面をばんばんと叩いて「ここから出せ」と言わんばかりだった。スティーブンも急いでそれに加わるが、アルコイリスは軍馬の血筋だ。三人がかりでも容易ではなかった。



「お、だっ! あたただだ!」

「わー! こらー! アルコイリス、ぺっしなさい! ぺっしなさいー!」

「殿下の髪食ってどうすんだ! やめなさい! アルコイリス!」



 どったんばったんと大騒ぎである。初めは一緒に興奮していた他の馬たちも、この騒ぎに怯えて静かになってしまった。どのくらいそうしていただろうか、アルコイリスはやっと暴れるのを止めたが変わらずスティーブンの短い髪を噛んでいた。



「あああ……。アルコイリス、止めなさい……。殿下がハゲたらどうしてくれるんだ……」

「だ、大丈夫だ。最初よりは手加減をしてくれている」

「し、しかし……」

「他の馬たちが心配だ。見てきてくれないか」

「はい、畏まりました」

「また暴れそうになったら絶対に呼んでください。暴れる前に呼んでくださいね」

「分かった」



 アルコイリスはスティーブンの愛馬だからか、厩の中でも広い馬房を貰っているようだった。他の馬たちの馬房とも少し離れた所にある。離宮の厩に来たことはこれまでなかったので、スティーブンは今日初めてそれを知った。


 髪を食まれながら、スティーブンは久しぶりに愛馬に触れた。短く毛の生えた美しい体を撫でる感覚も久しぶりだった。



「……」



 どんな言葉をかけるのが正解なのか、スティーブンには分からなかった。「怒っているのか」と聞くべきか、「暴れてはいけない」と窘めるべきか、「すまない」と謝罪すべきか。それとも「久しぶり」だと笑いかけていいものなのか。馬は、賢い生き物だ。スティーブンは彼らが、特に自身の愛馬が自身の言葉を理解していると信じている。下手な言葉をかけてまた興奮させてしまうのは避けたかった。



「……また、お前に乗ってもいいだろうか」



 絞りだした言葉はそれだったが、アルコイリスはやっとスティーブンの髪から口を離した。



「アル、ぶ」



 頭突きというには優しく、アルコイリスがスティーブンに顔を押し付けてきた。そのままぺったりとくっついて動かない愛馬をスティーブンは黙って撫でた。随分長くそうしていたようで、馬丁が言いづらそうに「殿下、そろそろ……」とやんわり制止してくるくらいだった。



「明日の朝、また来る。必ずだ」



 スティーブンが帰ると悟ったアルコイリスがまた落ち着きをなくそうとしていたが、彼がそう言うと静かになった。



「明日の朝、アルコイリスに乗れるだろうか」

「もちろんです! 俺らで、ちゃんと、ちゃんと準備しておきます!」

「よかったな、アルコイリス」



 アルコイリスは返事をするように、ふしゅん、と鼻をならした。スティーブンはもう一度、アルコイリスを撫でて戻ったが、頭から足先まで毛とよだれまみれにされていたので使用人たちに悲鳴をあげられてしまった。

読んで頂き、ありがとうございました。

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