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2.よくできました帳

 昨日、髪も乾かさずベッドに潜り込んだスティーブンは見事に風邪をひいた。



「……」

「……」

「笑いたければ笑えばいいだろう」

「人が苦しんでいるのを見て笑うような変態的思想は持ちあわせておりませんの」



 では、その蔑むような視線はなんだ、とスティーブンは言いかけて止めた。


 エイダが離宮に訪れたのは正午前であったが、使用人たちはスティーブンが正午を過ぎても起きてこないことに慣れてしまっていたので、熱に魘される彼を見つけたのはエイダだった。急いで医者を呼び寄せ、薬を飲ませ、後は安静にするだけだった。



「おやすみなさるまで、お傍におります」

「必要ないのだが」

「必要か不必要かを判ずるのは、殿下ではなくわたくしです」

「そう……」



 久々に熱に浮かされぼんやりとする頭で、そういえば眠りの番など子どもの頃以来だとどうでもよいこと考えながらスティーブンは目を閉じた。エイダはそんなスティーブンを見つつ、持参した本を彼の眠るベッドの横で開いた。


 どれくらい経っただろう、随分とすっきりしている。スティーブンがそう思い、体を起こそうとすると、ベッドの横にはまだエイダが座っていた。スティーブンが少し驚いて窓を見ると、既に西日が差しており随分な時間が経ったのだと知れた。



「あら、起きられましたか」

「あ、ああ……」

「何か食べられそうですか、食べられそうになくとも粥くらいはお召し上がりください。今、侍女に用意させますわ」



 エイダはすっと立ち上がり、部屋から出ていった。相も変わらず綺麗な姿勢だ。綺麗すぎて隙がなさそうだと、下世話な者たちに言われていたが、なるほど確かにとスティーブンは納得してしまった。


 同い年でしかも公爵令嬢であるエイダのことを、スティーブンはそれなりに知っていた。貴族の中で一番に高い公爵家の娘であったエイダは、子どもの頃にはよくスティーブンの遊び相手として王宮にも呼ばれていたものだ。だがエイダの他にもそういう子どもは複数おり、彼女はその中の一人だったが特別に仲良くした覚えはない。成長するにつれてそれもなくなり、疎遠になっていたがエイダは話題に事欠かない人だった。


 いくつかの国へ遊学しその国の国家資格をとったとか、討論大会で相手の侯爵子息を泣くまで追い詰めたとか、魔法の腕はいまいちだとか、毎夜、自領の酒を浴びる程に飲んでいるとか。その他にも取るに足らない噂から何から、とにかく話題になる人だった。


 だがそれも仕方がなかった、エイダは目立ったのだ。その優秀さはもちろんのこと、エイダを構成するものがとにかく目立った。


 他の令嬢たちが機嫌よさげにふんわりと笑いあう中、エイダだけはそのシャンとした雰囲気を崩さなかった。きつい顔立ちをしている訳ではなかったが、雰囲気からして厳しそうで同年代の子息たちからは嫌厭されていた。逆に令嬢たちの間ではエイダは何故か人気だった。



「殿下、起きられますか」

「君が、わざわざ給仕の真似事をする必要は」

「ですから、必要か不必要かはわたくしが決めることです。それで、起きられないのですか」

「いや……」



 エイダはいつもなら侍女が押してくる給仕用の手押し車に、ミルク粥とハーブティを乗せて戻ってきた。起きられないと言ったなら、手でも引きそうな雰囲気にスティーブンは少し慌てて体を起こした。



「どうぞ、召し上がってください」

「君がそこにいると食べづらいのだが」

「お気になさらず、わたくしはここで本を読んでおりますから」



 そういうことじゃない。と、言いかけてスティーブンはやはり言うのをやめた。昨日から何も食べていない腹がミルク粥の匂いに悲鳴をあげそうだった。久しぶりに口に含んだミルク粥は温かく、優しい味がした。


 黙々と食べるスティーブンの横で、エイダは宣言どおりに本を読んだ。時折、ぱら、とページをめくる音が、スティーブンのことなど何も気にしていないというように聞こえて、どうしてだか居心地がよかった。



「完食なさいましたね。では、わたくしは失礼致します」

「……何の教育もしないまま?」

「風邪をひけば休む。当然のことだと存じますが」

「仮病かもしれないのに?」

「その青白いお顔で強がられましても」

「う」

「おやすみなさいませ。殿下に必要なのは良質な睡眠と休養です」



 エイダは昨日と同じように颯爽と帰っていった。


 熱は引いたが体はまだだるく、スティーブンはエイダの言うとおりにするしかなかった。その夜、スティーブンは夜中に一度も目覚めることはなかった。子どもの頃から短い睡眠を繰り返し夜中に何度も起きてしまうばかりだったスティーブンが、朝まで眠れたのはひどく珍しいことだった。


―――


 エイダはそれから毎日、離宮にやってきた。やってきたからといって、特別に授業をする訳でもなく読書をさせたり庭園の散歩をさせたりした。令状があるからとスティーブンは反抗することなく従った。反抗する要素も少なかった。


 エイダは「本をお読みください」とは言うが、どんな本を手に取ろうと文句は言わなかった。散歩だってためしに小さく円に敷かれている石畳を一周しただけで、良しとした。それどころか“ハンコ”を押した。エイダはスティーブンに小さな分厚い冊子を渡し、何かが達成されればその冊子に可愛らしい小さな花の形のハンコを押すのだ。



「これは、一体何なんだ」

「よくできました帳です」

「なんて?」

「よくできました帳です」

「……これ、ハンコを押されたら何だっていうんだ」

「よくできました、ということです」

「それだけ」

「それだけです。ご不満ですか」

「いや、そもそも」

「そうですね。殿下は大人なのですから、成功報酬が必要かもしれません」



 こんなものいらない、と言いかけたスティーブンに、エイダの声が被さった。



「この冊子をハンコで埋めることができれば、わたくしが叶えられる範囲で且つわたくしが叶えてもよいと思える願いであれば何でも叶えて差し上げますわ」

「は……?」

「まあ、先は長そうですし、殿下には必要のないことかもしれませんが。さあ、本日はお庭でお茶を致しましょう」

「それって教育っていう?」

「必要か不必要かは」

「君が決める。分かった、従うよ」



 小さいが分厚い冊子はまだ一ページ半しか埋まっていなかったし、本当はそんなことどうでもいいはずだったのにスティーブンは大人しく冊子をポケットに入れた。その日は庭でお茶をして、暖炉の前で並んで本を読んでハンコを二つ押してもらった。


 エイダが来てから、スティーブンは朝起きるようになった。飲んだくれることもなくなり、使用人たちは目を白黒させながらこの変わりように驚いていた。


 理由は簡単である。自覚はないがスティーブンは少し、いや大分、いい格好しいなのだ。使用人に見られるのと、知り合いの貴族令嬢に見られるのでは彼の中での受け取り方が違う。もっと端的に言えばエイダにだらしない所を見られたくなかった、ただそれだけなのだ。



「お伺いしたいことがあるのですが」

「何だ」



 ごくごく稀に、エイダはこうやってスティーブンに話を聞いた。三日に一度くらいのペースで、しかもその内容がどれもどうでもいいことばかりだったので、スティーブンも深く考えず答えることができていた。



「殿下はお酒はお好きですか?」

「……好きではない」

「ですよね、あまりお得意ではないと思っておりました。では何故、お好きでないお酒を公的な場でもないのに飲まれるのですか。何かの訓練ですか」

「訓練」



 訓練、いや違う。そんなものじゃない。嫌なことを考えたくなくてそれで、スティーブンは好きでもない酒を我慢して飲むようになったのだ。初めは上手くいけば、寝つきがよくなったから寝酒というものをしていただけだった。離宮に来てからはものを考えたくない一心だったが、訓練なんて高尚なことはしていなかった。



「お酒が得意でない方は、一生得意にはならないそうですよ。体の構造上の問題だそうです。お好きで楽しく飲まれているのなら付き合い方を考えて程々にと申しますが、お嫌いでしたら無理に嗜む必要はありません。無意味です」

「……無意味」



 ばっさりと言い切られ、スティーブンの目から鱗が落ちた。確かに、自分は何故嫌いな酒を無理をして飲んでいたのだろう。そう考えたが、その理由が一つも思いつかなかった。なにせ酒を飲んだ所で嫌なことは頭の中にずっとあったし、気分は悪くなるし寝つきも悪くなる一方だったのだから。



「わたくしの両親はお酒が好きです」

「そ、そうか」



 エイダの両親であるラフィネ公爵夫妻は、社交界でも酒豪で知れ渡っている。彼らの領地は良質な果実酒や蒸留酒の生産地でもあり「酒に迷ったらラフィネ公爵領の酒を飲め」なんて言われて久しい。



「わたくしも嫌いではありませんし、強い方です」

「そうか」



 まあ、それはそうだろう、とスティーブンは頷いた。あの両親のご令嬢である、弱いはずがない。儀礼的な場で初めて酒を一口含み、卒倒しかけたスティーブンからすれば羨ましい血筋だった。



「お酒も嫌いな方に飲まれるより、好きな人に飲まれる方がいいに決まっています」

「う、うん?」

「必要のない時に無理に飲まれるのは、おやめになった方がよろしいでしょう。どうしてもの際はご自身の酒量を理解した上で、どうぞ。必要以上に飲まされそうになった場合は酒の得意なものに横流しなさればいいのですわ」

「それは君、自分のことを言っているのか」



 御しやすく酒に弱い第一王子の傍に侍って権力でも得たいというのか、とスティーブンは少し落胆した。生まれた時から、そういった人はいつでもスティーブンの傍にいた。そういう欲望を持つ人物でさえも上手く扱って然るべきだと知っていたが、どうしてだがエイダがそういうことを言いだすとは思っていなかったのだ。


 しかしエイダは首を小さく傾げるだけで、いつものすました顔のまま、また話しだした。



「お傍にいれば承りますが、そういう方を常に数名つけておけばよろしいでしょう。殿下がお酒に弱いことを知っている者は少なくありませんので、いずれそこにつけ込む者もあらわれるやもしれません」

「それは……。それも、そうか」

「そうです、その方が建設的だと思われますわ。ですがこのようなことは殿下がお決めになることです、わたくしの意見はあくまでご参考程度に」



 言いたいことが言い終わったのか、エイダは「ごきげんよう」と帰っていった。


 残されたスティーブンが命じられてもいないのに、一人で夕方の庭園を散策した。歩きながら、自分は何をしているのだろうと考えた。


 逃げ出したのだ、できないからと。父のようにはなれないと。そうあろうと足掻いたが、結局はそうはなれなかった、だから。……けれど、このままの暮らしが許される筈がないことくらいは理解している。


 いずれ廃嫡となり、どこぞへ幽閉されるか表向き病死として殺されるか、よくて市井に放たれるかだ。それでいいと、それが当然だと思っていた。王子は自分一人だが、“王家の血筋を持つ子ども”という条件であるならば少なくはない。賢王の跡継ぎになり損ねた自分以外の誰かがこの国を継ぐのだと。


 しかし、エイダが来てからよく分からなくなってきた。自分は何をしているのだろう、何をしてきたのだろう、何がしたいのだろう。エイダと話せば話すほど、自分というものがよく分からなくなっていく。スティーブンは庭園のベンチに腰掛けぼんやりと夕陽を眺めた。

読んで頂き、ありがとうございました。

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