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河童

作者: 小林ラキ

夢の中でぼくは、長い列車の通路を歩いていた。

列車はひどく揺れるし、重いスーツケースを引きずっているので人とすれ違うのも大変で、ぼくはツイードのコートの下で汗をかいていた。

ようやくコンパートメントのひとつに空席を見つけて、荷物もろとも転がり込んだ。山高帽と山羊革の手袋を外し、コートを脱ぎかけたとき、ぼくは、先客が河童なのに気がついて、そのままの姿勢で凍り付いた。


窓際の席で新聞を広げていたその先客は、そんなぼくを見て、落ち着き払ってこう言った。

「どうぞ、お座りなさい。なに、河童だからってあなたを取って食いやしませんよ。私は次の駅で降りますから、しばらくの辛抱です。」


ぼくは驚きのあまり叫ぶこともできず、脱いだコートを握りしめたまま河童の斜め向かいの座席にどすんと倒れ込んだ。


「コートを貸しなさい。ここに掛けておきましょう」

河童は立ち上がって、ぼくのコートを取ると壁のフックにかけてくれた。

身の丈六尺近い大男である。西洋の規格で作られたコンパートメントも、狭く感じるほどである。

つるりとした緑がかった肌をしているが、頭頂部には陶器のような皿がついている。皿の周囲を覆う頭髪らしきものは、きれいに切りそろえてある。

高級な紳士服店であつらえたと見える三つ揃えのスーツを着こなし、コートを掛け終えてこちらに向き直ったところを見ると、くちばしの上には立派な口ひげまでたくわえている。


「ずいぶん遠くまでお出かけですね」

座席に深々と座り直し、パイプを取り出すと、ぼくに向かってそう言った。ぼくは、あわててがくがくと震えながらうなづいた。遠くと言われても、夢の中では自分がどこに行く途中かまでは分からないので答えようもないのだけれど。


窓の外を、煉瓦造りの建物がゆったりと流れている。

線路と平行して走る町路には日傘をさした洋装の女性の姿も見えている。

黒い幌をかけた馬車を追い越すこともある。


ここはどのあたりだろうか。

丸の内あたりだろすると、できたばかりの日銀の支店があるはずだが…と思ったとたん、ギリシア風の列柱を並べた石張りの重厚な建物が視界を横切った。そうだ、これだ。赴任前に資料で見た日銀の支店の写真にそっくりだ。


「あなたはこの町のお育ちなんですね」

と、河童が静かに尋ねた。

顔を見なければ普通の、穏やかな男性と変わらない。

ぼくは少し考えて答えた。自分がどこに住んでいるはずなのか思い出せないが、これはどうせ夢の中なのだし、よしんば間違っていても構いやしないだろう。

「ええ、この土地の生まれです。失礼ですがあなたはどちらから?」

答えたついでにそんな質問が口をついて出た。

河童はぼくをじっと見つめて

「私は他の町の生まれですが、この町で少年時代を過ごしたので、ここが故郷みたいなものです。長いこと他の町で暮らしていたので、今日は久しぶりの帰郷です。この町は変わりましたね」

本当は自分がこの町の人間なのかどうか自信が持てないのだが、ぼくは河童の言葉に曖昧にうなづいておいた。夢の中でさえ優柔不断で気が弱いと、自分が腹立たしかった。

河童はふっと笑って

「私が住んでいた頃は、この町はもっと田舎でした。どうでしょう、ご迷惑でなければ少しの間、私の昔話におつきあい願えませんか。」

ぼくは、今度は本心から大きく頷いた。

河童の話なぞ、滅多に聞けるものではない。

ぼくは河童の緑がかった褐色の顔をまっすぐに見て

「ああ、ぜひお聞かせください」

と頼んだ。


 河童は話し始めた。

「私は今でこそこういう風体ですが、最初はごく普通の赤ん坊として生まれたんですよ。私はね、生まれたその時のことを覚えているんですが、それはもう大変なものでした。


こんなことをいうのも妙なのですが、自分の意識の中ではその日もいつもと変わらない日常が続いていたはずでした。自由にしゃべったり走ったり飛ぶことだってできていた気がします。なのに、はっと気がついた時は身動きもできず、目も見えず、私は誰かの手で仰向けにされて揺さぶられていました。自分に何が起きているか分からず、声を上げようとして、私は声が出せないことに気がつきました。「何だ!ここはどこだ!」と叫んでいるのに、私ののどからはひきつったような「おぎゃあ」という音が漏れるのみで、私の言葉は誰にも伝わりません。私は叫び続けているうちに気が遠くなってしまいました。


次に気づいたとき、私は目を開けられるようになっていました。

耳もよく聞こえ、足音がしたので、顔をあげて問いかけました。

「すみません、ここはどこですか。私はどうなっているんです?」

すると、私は白いエプロンをかけた女の人に抱き上げられました。私はまわりを見て気がつきました。いつのまにか私は人間の赤ん坊になっていたのです。

それはまるで、知らない間に、人間の赤ん坊の中に押し込まれたような感じでした。自分が人間の赤ん坊の身体の中にいて、出られないと気がついたとき、私はパニック状態になりました。身体が思うように動かせないし、口を開けても出てくるのは意味不明の泣き声だけで、何度、出してくれと叫んでも誰も気づいてはくれません。

自分の手をようやく動かして目の前にかざすと、肌色の柔らかい皮膚に覆われていて、どう見ても人間の赤ん坊の身体です。


赤ん坊の身体を見て「自分ではない」と思ったということは、多分その時点では、私は自分が何者か覚えていたと思います。故郷に残してきた父や母、兄弟や友だちの顔と名前もはっきり分かっていました。

しかししばらくするうちに、はっきりしていた記憶がどんどん薄れてしまいました。まるで、明け方の夢が、目が覚めた瞬間にさっと記憶から消えてしまうように、私も、自分の出自を思い出せなくなりました。


でも確かに自分が人間ではない、ということだけははっきりと分かったままでした。

そして私は故郷に残してきた親兄弟を思って、いつも、早く帰らなくては、という気持ちでおりました。

帰りたい気持ちが高じるたびに、「戻してくれ」「帰らせてくれ」と叫ぶのですが、自分ののどから出ているのは、おぎゃぁという赤ん坊の泣き声だけです。

みじめで不安な気持ちのまま、私は乳を与えられ、おむつを替えてもらいながら、一日、一日と生きながらえていきました。


そういうわけで、私はいつまでたっても周りの人間と打ち解けるということがありません。母親も私をあまり好きではありませんでした。抱いてもあやしても私が喜ばないからです。

「この子は強情でちいとも可愛くない。」と母親は人目をはばからず私を嫌いました。

「私の子とは思えない。病院で取り替えられたのではないか」とまで言い出した時にはさすがに周りの者にとがめられたようですが、とがめられればとがめられるほど、母親の私への憎しみは増すようでした。まもなく住み込みの乳母が雇われ、私の世話はすべて乳母に委ねられましたが、なにかにつけて悪いところを見つけて疎まれることが続き、私はだんだん病気がちになりました。病気が次々に私を襲いました。はしかや百日咳にかかったときは、しめた、このまま死ねば故郷に帰れるかもしれない、と思って心待ちにしたものですが、そのたびに医者に治療され、望みは叶いませんでした。


三つ離れた弟が生まれてからは、母親はそちらばかりを可愛がりましたが、そのことを私はさほど残念にも思いませんでした。かえって、放っておいてもらえるほうが有り難かったのです。

広い屋敷には使用人がたくさんいて、恵まれた暮らしをしていましたが、私の心の中はいつも土蔵の中に閉じ込められたような暗闇でした。


やがて時が過ぎ、学校へ通う年頃になっても、私は変わりませんでした。それどころか、同年代の友だちと交わるようになってなおのこと、自分の物の考え方が普通の人間の子どもとどれほど大きくずれているかを思い知ることになりました。見た目は普通の人間となんら変わるところがないのに、異質なものが伝わるのでしょう、周りの子どもたちも、私と交わることを恐れているようで、私はいつもぽつんとひとり、皆から離れておりました。


いつも、遠くに残してきた親兄弟を思い、夕焼けの空を見上げてはため息をつきました。この人間の身体に閉じ込められた私という存在を、どう人に伝えたらいいのか、皆目見当もつきません。そりゃあそうです。自分でさえ、自分がどこから来た何者か分からなかったのですから。私は自分の運命を恨み、未来に絶望したまま生きていました。」


河童はパイプをふかして、ふうっと煙を吐いた。


「しかし結局、学校ではなるべくおとなしく目立たないように過ごすことにしました。年端もいかない子どもの頃はそりゃあ、先生に自分の疑問をぶつけたこともありましたがね。じきに、無駄だと分かりましたよ。大人たちは、子どもというのは未熟で何も知らない存在だから、正しいことを教えなくてはいけないと思い込んでいますからね。私のように、生まれつき、大人の精神を備えた子どもがいるなんて思いたくないんです。いつだって、私は生意気な子どもで、わけの分からないことばかり話す、問題児童ということになっていました。


尋常小学校を卒業して中学校に入るとき、私は生まれ育った土地を離れてこの町へ来ました。寄宿舎のある学校に入れられたのです。私を好かなかった母親がやっかい払いしたのだと思いますが、私も親元を離れられることにほっとしました。

意外なことに、宣教師が開校したその学校は自由闊達な校風で、私はすぐに馴染みました。私に負けず劣らず、変わった考え方をする人間がたくさんおりましたが、教師たちは慣れているのか、他人に迷惑さえかけなければ個人の考え方を拘束することなく、放っておいてくれました。私はその学校が好きになり、そして生まれて初めて友だちもできました。他愛ないことを話したり笑ったり。放課後には広い芝生で蹴球の練習もしました。

あなたもその学校はご存じでしょう、この先の隼人池の隣の高台に今も建ってますから。


自分が河童だと気づいたのは、私が三年生のある秋の日のことでした。私はひとりで隼人池のほとりを散歩していました。隼人池は学校の隣にある大きな池で、私たち学生の水練場としても使われました。泳ぎの得意な私は、夏中ここで泳いだものです。私は人間の姿をしている頃から泳ぎは達者でした。誰に教わるでもなく、水に入った瞬間からすいすいと泳いだり、潜ったりできました。本当は水の中でも呼吸ができるのですが、それに気づいたのはずっとあとのことで、当時は自分も人間だとしか思っていなかったのです。


隼人池の北から南東の岸は、鉄道の線路にぐるっと取り巻かれていますが、南から西の岸部には葦が密生した浅瀬があり、そろそろ渡ってきた鴨たちが葦原の中で遊ぶ姿が見られる時期でした。

水は冷たくて、鴨以外に泳ぐものは見あたりません。

ところが突然、背丈より高い葦の枯れ枝をかき分けて、先輩のNさんがひょっこり姿を見せたので私は腰を抜かしそうになりました。そんな私を見てN先輩は笑いました。


「K!こっちへ来てみろよ、いいものを見せてやる」

Kというのが私の名前です。N先輩は寮が同じで、入学以来親しくさせてもらっていました。私はおそるおそる岸辺に降りると、N先輩について葦原の中に分け入りました。


「葦が枯れて、かさかさ音がし始めるころに、風笛草(かざぶえぐさ)の莢が見つかるんだ。」

N先輩は葦をかき分けながら言いました。

「風笛草?」

「風笛草は、莢がついていない時は葦と見分けがつかない。でも今の時期なら…ほらそこに」

先輩が指さす先を見ると、葦の根元に一尺ほどもある大きな莢が見つかりました。空豆の莢を大きくしたような形ですが、枯れた葦と同じ色をしているので目立ちません。

「そいつは小さすぎるんだが、まぁいい、こんなふうに根元から引き抜くと…」

N先輩は莢を引き抜いて、空に向けて差し出しました。

「しばらく風に当てる。充分に熟れていればこんなふうに…」

みしっという音とともに莢が割れて、中から白っぽい膜が飛び出しました。

「膜が開く。そのまま風に当てておくと、広がる」


N先輩は割れた莢を持って水辺へ戻ると、そっと水面に浮かべました。

「こいつはおれたちが空へ帰るための乗り物になるんだ」

とN先輩は言いました。

「この莢はまだ小さいから乗れないけど、ほら…」

と先輩の指さす先を見ると、さきほどまで誰もいなかった隼人池に、大きな莢に乗った河童たちで一面に水面が埋まっているではありませんか。

「こ、これは…!」


河童たちは、三尺ほどもある風笛草の莢を逆さに、舟のように水に浮かべて、茎につかまって乗っているのでした。莢から広がった白い膜が帆のように風を受けて水面を軽やかに進むのです。風笛草の莢に乗った河童たちが、水面を音もなく右に左にすいすいと滑っています。


「自分の身体に合う大きさの莢を見つけたら、ああやって、乗ってみるんだよ。そしていつかその時が来たら、特別な莢が見つかるだろう、そうしたら、莢に乗ったまま、水面を離れて空へ帰ることができるんだよ」


N先輩はあかね色に輝く夕暮れの空を見上げて言いました。

「君は来た場所に帰る方法を探していたんだろう?おれもそうさ。他のみんなも」

「どうして!どうしてそれが分かったんです?」

私は驚いて尋ねました。生まれてこのかた、伝えようとしても誰一人耳を傾けようとしなかったそのことを、今ここで先輩の口から聞くことになろうとは。先輩は笑って

「同族だから君の姿が見える。見えるから分かるのさ」

私ははっとして自分の手を見下ろしました。さきほどまで普通の人間の手であったものが、今や、緑がかった褐色の長く骨張った手に変わっています。頑丈な爪のついた指の間にはぶあつい水かきもついています。驚いて顔を触ると、鼻から口のあたりが丸く固いもので覆われています。くちばしです。

「自分が河童だってことに、気づいていなかったのかい」

と笑われて目を上げると、N先輩の顔も大きなくちばしのついた河童の顔です。頭頂部には白っぽい皿もついています。毎日のように学校で顔を合わせているのに、なぜ今まで人間だと思い込んでいたんでしょう。狐につままれたような気分でした。うろたえる私にN先輩は心得顔で

「そういうものさね。この人間界では物はみな皮膜に覆われたようになっていて、本当のものは滅多に見ることはできないのさ。最初から人間と思い込んでいたら、もう未来永劫、人間の姿にしか見えないんだよ。悲しい人間の性というやつだね。とはいえ、持って生まれた本性というのはいつかは現れる。おれやおまえもそうだし、ここにいるやつらも…」N先輩は水面を渡る河童たちをあごで示して「みんな、普段は普通の人間として暮らしている。商いをしているやつもいれば、教師もいる。若いのも年寄りも、いろんなのがいる。だけどみんな、人生のどこかで、どうしようもなく気づいてしまうんだ。自分が他の人間たちとは決定的に違っているってことにね。そしてこの池に、引き寄せられるようにやってくる。なぜ自分がここに来るのか理由もわからないままにやってきて、そしてある夕方に見てしまうんだ。いま、おまえが見ているのと同じ光景をね」


今や西に落ちた夕日が黄色く色を変え、群青の空ともの悲しいコントラストを描いていました。水面を渡る河童たちは黒いシルエットとなって、少しずつその姿を消していきました。私の胸の中に、ふいに、重く切ない寂寥が訪れました。

「ぼくも莢に乗るべきなんでしょうか」

私は先輩に尋ねました。

「乗りたくなったら乗ればいいさ。秋のこの時期にこの場所に来れば、必要な莢は見つかるはずだ。それまでは自分のすべきつとめを果たしに、行くべきところに行っていればいい。来た場所に戻るのに難しいことは何もない。それよりもこの世界で果たすべきことを果たすほうが難しい。」

N先輩の銅色の瞳にガラス玉のような光が宿るのを見ました。

「いつが帰る時かは、そのときになれば分かるものだ」


N先輩とその後、葦原でたびたび会い、いろんな話をさせてもらいました。

莢に乗って水面を走るやり方も、教えてもらいました。

夕暮れの隼人池で、ふたりして、枯れた風笛草の莢で滑走するのは楽しく、面白い経験でした。私はその一瞬一瞬を楽しみました。


そして別れの日の前日、N先輩と私は詰め襟の学生服姿で、隼人池のほとりの柳の木の下に座っていました。

「明日、最後の風が吹く。おれはそれに乗っていくよ」

とN先輩は言いました。予感はしていたものの、生まれて初めて、ようやく出会えた同じ魂を持つ友人をこんなに早く失うことになるとはあまりにも寂しいと、私は思いました。うなだれる私を先輩はなぐさめました。

「だいじょうぶ。寂しいことはないよ。出会おうと思えばいつでも、同類は近くにいる。君が真実と出会う勇気を持てるかどうか。それだけさ」

「でも、なぜこんなに早く行ってしまうんですか。まだやることがたくさん…」

「そうだね…。そいつは難しい質問だね。そもそも、おれたちはなぜ、こんな姿でここに存在するのか、ということが問題だったりもする。もしここが本当に人間のための世界ならばなぜ、我々のような異形の者が生まれてこなくてはならなかったのか。おれは、そこには必ずなにがしかの理由があると信じている。この世界の重い制約のせいでここに居ながらにして真実を知るのは大変むずかしい。ただ、目に見えない細い糸で我々は繋がってここにいる。おれをこの池に導いてくれた先達がいて、おれがここにいる。そして、おれがここにいて、君に風笛草のことを伝える。そんなふうに、ひとりからひとりへ、伝言リレーを果たす。そのことが、おれがここに来て果たすべき最低限の使命だと、おれは思うんだよ」

私たちはその日、遅くまで隼人池の柳の木の下で座っていました。



翌日、N先輩は授業に現れませんでした。その翌日、朝礼で、校長先生から、N先輩はご実家の都合で退学して、家業を継ぐために故郷に帰ったと聞かされました。

私はN先輩と最後にあった葦原に何度も足を運び、長い時間、静かな水面を眺めて過ごしました。季節はすぐに冬になり、葦原の中を探しても風笛草の莢を見つけることはできませんでした。水面を渡る河童たちを見ることもありませんでした。


その後、中学校を卒業した私は上京し、帝国大学で学問を修めました。

信じるところに従って、生物学と博物学の研究に没頭し、遠くの町の大学で教鞭を執りました。そしてこの秋、戻ってきたのです。そうです。私にもようやくその時が来たのです。

どうやって分かったかって?いえいえ、誰にも教えてもらったりはしません。朝、起きたら分かっているのです。「ああ、私の番が来た。帰らなくては」と。

それで、大学を退官し、住居を引き払って帰ってきたのです。」


河童はいったん言葉を切って、いとおしげに窓外の風景を眺めた。列車は郊外にさしかかり、線路に沿って民家が軒を連ねていた。河童はしばらく流れ去る景色を見つめていたが、やがて私をふりかえって言った。


「この町の風景を見るのは何年ぶりでしょう。懐かしい少年時代に戻った気がしますよ。こうして、この列車であなたにお会いして、こんな話をさせていただいたことで、私もようやく、背負っていた最後の荷を下ろした気分ですよ。変な話をしました。行きずりの変人のたわごとです。忘れてくだすって構いません。

おや、そろそろ降りる駅が近づいてきたようです。

それでは、旅をお楽しみください。ごきげんよう。さようなら。」


河童はパイプをしまって立ち上がり、荷棚からちいさな旅行鞄をおろし、帽子をかぶりステッキをもってコンパートメントを出た。

立ち去り際、

「おみやげに、差し上げましょう。舶来のたばこです」

と胸ポケットから太い葉巻を取り出して手渡した。

「ありがとうございます。あなたもごきげんよう」

ぼくは葉巻を受け取って、間の抜けた感謝の言葉を口の中でつぶやいた。

変な夢を見たものだ。

河童と風笛草と葉巻。

ぼくはふたたび目を閉じて、列車の揺れと共に眠りに落ちていった。


目が覚めたとき、ぼくはまだ列車の中にいた。

すっかり日が傾き、西の空が橙色に染まっている。

ここはどこだろう。

列車は町中を抜け、今や郊外の田園地帯を走っているようだった。目立つ建物はなく、灯火もほとんど見あたらない。

ぼくは胸ポケットからたばこを取り出し、マッチで火をつけた。

窓ガラスにマッチの炎が映って、ぼくの顔を照らし出した。

白っぽい灰色の肌。白目のない真っ黒でアーモンド型の切れ長の目。細く長い指と華奢な身体。自動反応シールドで保護しているので、人間の視覚ではぼくの姿を補足することはできない。中肉中背でこれといって特徴のない東洋人男性の姿が投影されるはずだ。


近頃、地上勤務が続いているので、疲れがたまったかもしれない。

移動中に眠ってしまうことが多い。

今回のミッションが終わったら休暇を申請して、月ベースステーションで休養を取ろうと思う。何しろあそこからの眺めはすばらしい。ぼくは真っ暗な空間に浮かんだ青く光る地球の景色を思い浮かべてひとりでほほえんだ。

たばこを胸ポケットにしまったとき、何かかさばるものが指に当たった。

取り出してみると、太い葉巻たばこだ。


夢の中のシーンが蘇った。

河童だ。夢で河童に会った。いや葉巻があるということは、あれは夢ではなかったのか。この件も報告に含めたほうがよさそうだ。


その時、列車が速度を落とした。

蒸気の音を響かせながら、右に大きくカーブしていく。

盛り上がった木立を回り込むと、右手に大きな池が姿を現した。カーブに沿って列車が進むにつれて、奥に長く広がる水面に、夕日が褪せた色を反射している。


池の奥の高台には、白っぽい洋館が建っている。

カソリックの中学校だ。


ぼくは窓に飛びついて、留め金を外して押し上げた。

冷たい風が頬に吹き付ける。

目の前に広がるのが隼人池に違いない。ぼくは確信した。

水面に、黒っぽい何かがうごめいている。

列車がさらに徐行しながら西に向きを変えた。


たくさんの河童たちが、白い帆をふくらませた風笛草の舟に乗って、水面を行き交っている。おびただしい数の莢で水面が覆い尽くされている。

高台の中学校の上には、薄い群青の空を背景に細く下弦の月が光っている。


ふいに強い風が吹き下ろしてきた。

その途端、水面を行き交っていた風笛草の舟たちが、ぱらぱらっと空に吸い上げられるように持ち上がった。

もう一吹き、風が来た。

さらにいくつかの舟たちが空に舞い上がった。

春先に舞うたんぽぽの綿毛のように、白く柔らかい風笛草の帆が夕暮れの空を埋めた。


下弦の月とぼくの中間で、風笛草に乗った河童たちの歓声が空に響き渡るのが聞こえた気がした。

その中のひとつに、さっきまでこのコンパートメントにいた河童が乗っていたかどうか、ぼくには確かめようがなかった。


「君は今なぜここにいるんだい?ひとりからひとりへ、伝言リレーだよ」

頭の中で河童の声がこだました。


ぼくは腕に巻いたコントロールボックスで、月ベースステーションへの通信ボタンを押そうと左の袖をめくった。

しかしそこにあるはずのコントロールボックスはあとかたもなく消えていた。

地上勤務中は常時オンのはずのテレパシー通信も、そういえばさきほどから応答がない。

冷たいパニックが襲ってきた。

この列車でぼくはどこへ向かっているのだろう。上着のポケットを慌てて探す。切符の行き先には見知らぬ駅名が書いてあるが、そこへ行って何をするはずだったか、思い出せない。今回のミッションに関する情報が記憶から消去されたか、あるいはアクセスがブロックされているに違いない。


ぼくは誰だ。

なぜここにいるのだ。

ぼくはこれからどこへ行き、何をしたらいいんだろう。


列車はさらに速度をゆるめている。駅が近いのだ。車掌が廊下を歩きながら駅名を告げていく。ぼくの切符に記されたのと同じ駅名だ。ぼくは下車しないといけない。だがなぜ?なぜここで?


ぼくは黒いシルエットになった隼人池を遠く見送りながら、太い葉巻を握りしめて、列車のコンパートメントに立ち尽くしていた。



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