Marriage of Convenience 〜何も知らない人〜
親友の結婚後程なくして、私にも結婚の話が舞い込んだ。相手は父が勝手に選んできた人材で、父曰く、
「格好良くて、誠実で、頭が良い青年」
らしい。そんな人間がこの世にいるものか。そんなんじゃまるで神様か何かか?
その人は身分があまりよろしくないらしく、しかし実力は十分にあるらしい。父は自分の跡継ぎを彼に託したいと考えているようだった。つまり、私と結婚させ、婿養子にとる、という訳だ。
私に異存はなかった。父が跡を継がせたいと思う人と結婚しようと、昔から決めていたことだったから。それに、話を聞く限りでは良い人そうだ。
私は父と母も交えて、その人を家へと招いた。
「ミラ、こちらがギースだ。ギース、私の娘のミラだ」
ギースの金色の短い髪がさらりと流れた。
父の格好良いというのはどうやら本当らしい。身長も180はありそうな高身長、顔も整っていて、言葉遣いもとても丁寧だ。
目の前に食事が並べられた。
「さぁギース、遠慮などせんでくれよ」
「はい。では、お言葉に甘えて」
笑顔も軽く合格点だ。
父は身分があまり良くないと言っていたが、王家にだって仲間入りできそうな程、ギースのテーブルマナーは完璧だった。
父が気に入るのも頷ける。
しばらく世間話をし、父が突然話を変えた。
「さて、単刀直入に言おうか。ギース、家の娘はどう…」
「いやですわ、お父様。本当に直入すぎです」
最後まで待つことができず、手を口元にあてて笑って言った。どんな奴だってこんな所じゃ本当の感想なんて言えたもんじゃない。そんなことも分からないの?うちの父親は。
「いや…、しかし…」
「お父様」
笑っているのは口元だけで父に言う。その私を見た父は一瞬顔を引きつらせ、それ以上は何も言わずに食事を続けた。
「…」
その時ギース殿が何か呟いた。
「えっ?」
「いえ、なんでも」
ギース殿はスマイルで返事をし、食事をまた始めた。後で
「優秀な秘書官も娘には弱いのだな」と言っていたのだと、地獄耳の母から聞いた。
その一回の対面だけで、私たちの結婚が決まった。ほぼ父の独断である。こちらにもあちらにも異存はなかった。
ギースが仕事に追われていたため、式は行わずに、取り敢えず入籍だけを済ませた。
父と母は2人の邪魔はしないとか何とか言って、近くの別荘に私たちを住まわせた。
そうこうして、私たちの夫婦生活一日目を迎えた。といってもギースは仕事で昼はおらず、夜に帰って来て、もぞもぞと同じベッドに入りこみ、初夜は指一本も触れることなく終わった。話を交わす暇さえなかった。
父の策略であるにしても夫婦なのだから、1日に一回ぐらいは言葉を交わすべきであろう。
夫婦生活二日目、私はギースが起きると同時に目を開けた。
「...おはようございます」
ベッドから身を起こし、部屋を出ようとしているギースに言った。ギースは驚いた顔で振り向いた。
「...あぁ」
ぎこちない朝の挨拶。というよりか、ギースはただの返事だった。
何か、雰囲気というか纏うオーラが先日と変わっていると感じたのは、気のせいであろうか?
私はベッドから出ようと布団を持ち上げた。
「気を使わなくていい」
「えっ?」
「政略結婚のようなものだ。お前も家にしばられるような生活はイヤだろう?好きに生きればいい」
私は首を傾けた。何を言いたいのかまったく分からない。
「意味が…、分からないわ…」
ギースは溜め息を落とした。
「俺のことは気にしなくていいと言ったんだ。外に男を作ろうが、遊び歩こうが、俺は一向にかまわない」
「なっ…!!」
その後の言葉が続かなかった。口を動かすことはおろか、指一本動かない。しかし、全身が熱くなっていくのは鮮明に分かった。
「ただ、あまり大っぴらにはするなよ。世間体に悪いからな」
ギースは捨て台詞のように言い、部屋を出ていった。後に馬車が遠ざかる音が小さく聞こえた。
「な、なんだとー!?!?」
私の怒声が邸中に響き渡り、数人の侍女が部屋に飛び込んできた。
「信っじらんないっ!!ありえないっ、サイテー!!」
「み、ミラ…」
親友の家、つまり城まで来て、今日あったことをすべて話した。アリシナは慰めるような哀れむような目を寄越した。
アリシナは第一皇子と、つい先日、盛大な結婚パーティーをした。巧いことやったのだ、こんなおっとりとしているが。まぁ、それはまた別の話。
「形だけだからってあんな言い方しなくたっていいじゃないっ!?なんなのよ、あれ!!」
叫ぶだけ叫び、出された紅茶を一気に飲み干した。後味は苦い。
「あいつ、家の地位を狙ってたのね。あまり身分はよろしくなかったって、お父様に聞いたもの。そうだ、アリシナ、頼みがあるんだけど」
「えっ、何?」
アリシナは飲もうとした紅茶を持ったまま、きょとんとした顔をこちらに向けた。
「ギースが元々どこの出身だか調べて欲しいの」
「えぇ!?い、いやよっ。ギース殿に直接聞いたらいいじゃない…」
アリシナは結局口をつけなかった紅茶を焦ったようにテーブルに戻した。中身が少しカップから零れた。
「話聞いてた?あいつになんか死んだって聞きたくないわ。ほら、パーシェント皇子にでも聞いてみてよ。ね?お願い」
パーシェント皇子とは、言わずもがな、アリシナの旦那で、次期国王である。
顔の前で両手を合わせ、アリシナを拝むように言った。アリシナは私から視線を泳がせるように反らした。
あともう一息だ。
「お願いよ、アリシナ。親友のお願いっ」
「もぅ…、あんまり期待しないでね…?」
「きゃー、ありがとアリシナ!もう大好きっ!!」
「ひゃっ」
私はアリシナの首に手を回し、力強く抱き締めた。やはり持つべきものは友達だ。
「そ、それで、ミラはこれからどうするの?」
アリシナは私を引き離しながら言った。
「う、浮気とか…、するの…?」
「しないわよ。今はね」
「い、今はって、いつかするの!?」
「まずはあいつの気をこちらに向けてやるのよ。あとはそれからね」
とことん仕返ししてやるわ。みてなさいよ。ミラ様の恐ろしさを教えてやるんだから。
「お帰りなさい、あなた」
「……」
さすがにギースの帰宅時間は遅い。しかし、仕返しするためには夜も待って、朝も起きることから始める。
ギースは若干驚いた表情をしただけで、返事はしなかった。ギースは同じベッドに入ってきて、こちらに背を向けるようにして寝転がった。
「…おやすみなさい」
私が言った瞬間、ガバァと音がしそうなぐらいな勢いでギースは身を起こした。顔をこちらに向けて、私を威圧的に睨んだ。
「朝も言ったはずだ。俺に…」
「気を使うな、でしょう?」
「そうだ」
私は皮肉たっぷりな笑顔をギースに向けた。
「それはあなたじゃなくて、私が決めることではなくて?」
明らかにギースの顔が歪んだ。この猫かぶりめ。
「俺としてはアンタのことを思って言ってやったんだがな」
「余計なお世話よ」
私たちの間に火花が散った。どちらも決して目は反らさない。
「それならば勝手にするがいい。俺はどちらでも構わないんだからな」
「えぇ、そうするわ。お言葉に甘えて」
私たちは同時に布団に潜り込み、お互いがお互いに背を向けあった。
こんな性格のねじ曲がった奴に負けてなるもんかっ。
次の日から私はギースと共に起床し、そして就寝した。
ギースはともかく、私は挨拶を欠かさなかった。しかし大概は挨拶だけでは終わらず、何かとちょっとした言い合いをしていた。
「ちょっと待て…。なんだこれは…?」
ギースはその手にマフラーを取った。その目は何か獣でも見るような目付きで、汚れ物でも触るような手付きである。
「マフラーに決まってるじゃない。私が編んだんだから触んないでちょうだいっ」
私は荒々しくひったくり、自分のタンスへとそれを押し込んだ。昼は大概が暇なため、好きでもない編み物をやっていたのだ。
「…とてもマフラーには見えな…」
ボスッ
ギースの顔を目がけて枕を投げた。それはギースの顔にミラクルヒットし、投げたこちらが逆に慌ててしまった。
ギースの体が小刻みに震えているのが分かる。
「あ、っと…、そう。私のマフラーを貶すからよっ」
「あんなのがマフラーと呼べるかー!!」
ギースは私が投げた枕を拾い上げ、こちらめがけて投げてきた。
私はそれをなんとか交わし、反撃をするため、ベッドにある枕を手繰り寄せた。
「ちょっ…、ちょっと待てっ!!」
「待つかっ!」
私はとにかく無我夢中で枕を投げ続けた。と、枕がそう何十個もある訳がない。ベッドの上にはもうすでに枕はなかった。
「…やば」
「ふっ、覚悟しろよ」
ギースが黒いオーラを放ちながらそう言った。こいつが本気で枕を投げてきたら、本気でやばい。
でもなんだろう?なんか楽しいかもしれない。
「くらえーっ!!」
「きゃー!!」
こんな叫び声を上げているにも関わらずに誰も来ないというのは、邸の主として如何なものか。
私は案外、運動神経がいいのかもしれない。
「ぜ、全部…避け切ったっ!!やった…ぶっ」
嵐が去った後の最後の枕が顔にミラクルヒットしった。自分ではないがまるでデジャブ。なんて無様な。
やはり投げた本人が慌てていた。
「いや、…すまん」
普段はあんなに偉そうにしているくせに、今はそんなのは微塵も感じられなかった。私はそれがあまりにも可笑しくて、笑いが込み上げてきた。
「くっ…くくく…」
「は…?」
「あーっはっはっは!!」
しまいには大声でお腹を抱えて笑っていた。ギースはきょとんと立ち尽くし、それは私を更に煽った。
私がまだヒーヒー言いながら涙を拭う頃、ギースは溜め息をして、枕を拾い始めた。
「ったく…、何をやってるんだ俺は」
ギースは拾いながらそう呟いた。笑いはまだ収まりきっていないが、私も一緒になって枕を拾った。
「人のマフラーを貶すからよ」
「だからあんなのはマフラーとは言わん」
私は枕を拾う手を止め、ギースを睨み付けた。
「…またやりましょうか」
私が枕を強く握り締めると、ギースはげんなりとした表情で私を見た。
「なら、それをつけて外を歩けるか?」
うっ…。
私はぷいっと視線を外して、枕を拾う手を動かした。
「あ、歩けるわよ…」
「ほぅ。だったら今から歩いてきたらどうだ?」
ギースは皮肉るように、意地の悪そうな笑顔で私を見やった。いつの間にか立場が逆転している。
「そ、それは…。そうよ、まだ完成してないのよっ」
そこまで聞くと、ギースは深い溜め息を落とした。
「まったく…、本当に諦めの悪い奴だな。負けず嫌いというか…」
「余計なお世話よ」
そんな軽口を叩きながら、取り敢えず枕を全て拾い上げ、綺麗にベッドへと戻した。
ふと時計を見上げると、かなり夜遅くになっていた。すでに日付が変わっている。
「やだ、もうこんな時間。あなた明日も仕事じゃなくって?」
「誰のせいでこんな時間になったと思ってるんだ」
…私のせいな訳?と、実際は私が勃発させたのだ。急に本当に悪いことをしてしまったという気がしてきて、ベッドに潜り込んだギースを見つめた。
私は毎日暇な生活だが、ギースは毎日仕事漬けなのだ。もしかすると、相当疲れているかもしれない。
「…悪かったわよ」
ギースはベッドの中で身をよじり、立ったままの私を見上げた。その顔は目をぱちくりとしばたかせている。
「明日は雨か」
むかっ。
私は口を尖らせてギースを睨んだ。ギースはその私を軽く笑い、布団から片手を出し、私の腕を引っ張った。
「いたっ」
「少しでも悪いと思うんだったら、さっさと寝ろ」
何よ、偉そうに…。
思ったけれど、言うのはやめた。ギースは手を引っ込め、私に背を向けた。
私も布団にちゃんと潜り込んでギースに背を向けた。
「…おやすみ」
「…あぁ」
珍しいな、返事があるなんて。
次の日の朝は、やはり起きることはできなかった。ギースが起きたのがなんとなく分かったが、眠くてダルくて、目を開けることすらできなかった。
さぁ、言わなきゃ。いつもの…。
「…いってらっしゃい…」
寝呆けていたから、しっかり言えていたかは分からない。
私の記憶が正しければ、
「行ってきます」
という返事があったと思う。ただ本当に寝呆けていたので、確実性には欠けるけれど。
「もともとは貴族の方じゃなかったみたい。商人の子供だったらしいんだけど、頭が良くて、どこかの貴族に一度引き取られたんだけど、その貴族の人がすぐに亡くなっちゃったらしの。それでも戸籍上はちゃんと子供でしょう?だから親戚でたらい回しにされて…、それに耐えきれなくなって1人になって、城で働くようになったんですって。その…、結構大変だったみたい」
律儀なアリシナ。真面目なアリシナ。ちゃんとパーシェント皇子から聞き出したらしい。
私は反応に困ったけれど、礼はちゃんと述べた。
「ミラと結婚するまでは、親戚の関与とかも多かったらしいよ」
だから早く結婚したかったのだろうか。そうだとしたら、家の地位はさほど関係なかったのかもしれない。
「あと…」
「あと、何?」
アリシナはもじもじとした風で、私から目線をそらした。
「パーシェントが…、気にすることないって…」
「何が?」
話の芯が見えなくて、私はイライラした。アリシナに対してなのか、パーシェント皇子に対してなのか、それとも…。
「ギース殿の過去のこと。心配ないって」
「別に、心配なんかしてないわよ。本人だって変に心配して欲しくないんじゃない?」
「……」
「あれは同情して欲しくないってタイプよ。私だって同情するようなタイプじゃないし。今回のことはしたって何も変わる訳じゃないしね。だからパーシェント皇子に言っといて。心配なんかしないって」
目の前の紅茶に手を伸ばし、一口だけ口をつけた。前よりも少し甘く感じた。
「…ミラ、変わったね」
「えっ?」
アリシナはふんわりと微笑んだ。
「なんだかんだ言って、ちゃんとギース殿の奥さんやってるよ」
ギース殿の…奥さん?
「前はケンカ腰で負けないって感じだったけど、今はそんなことない。今は…ギース殿の良き理解者ってかんじかな」
「理解者って…」
そりゃ一緒に住んでいるだけあって、性格的なものは大体把握したつもりでいる。
「何も知らないわよ。ほんとに…何にもね…」
テラスから見える街は、すごく遠かった。家から見た方がずっと近く見える。
なんでだか、胸は淋しさで一杯だった。
その夜、ギースはいつもと同じ時間に帰ってきた。私は寝室で1人、ワインを開けていた。アルコールの力を借りれば、なんとかなるだろう。
ギースが部屋に入ってきた。
「…お帰りなさい」
「…あぁ」
ギースはすぐにベッドに寄って行ったが、布団に入らずに私を見た。
「珍しいな、ワインなんか飲んで」
それはそうだ。元々ワイン、というよりもアルコール類には弱いのだ。気持ちが悪くなる。
私はグラスをテーブルに置いた。顔を見ることができなくて、ワイングラスを見つめた。そこにはギースの顔がゆらゆらと映っていた。
「あなたのこと、聞いたの。今日」
もっと他に言い方があっただろうが、それしか言えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
「そうか」
短い返事だった。
私は勢いよくギースの顔を見た。驚いた私の表情に、ギースはきょとんとした。
「怒ら…ないの?」
「誰が?誰に?」
ギースは首を傾け、少し近付いて来た。
「あなたが、私に…。勝手にあなたの過去の話を聞いたのよ?」
アルコールが入っているせいか、目頭が熱くなった。
やっぱり飲むんじゃなかった。
ギースは私の横に腰を下ろし、軽く微笑んだ。
「明日は雪か」
「わっ、私は真剣に言ってるのっ」
口から涙声が飛び出し、ギースから目をそらした。そらす前に見たギースの顔が優しく微笑んでいて、いよいよ一粒目が零れた。
「同情なんかしないわよ。頑張んないと、逆戻りになるわよ」
こんな言い方しかできない自分が歯痒い。悔しい。恥ずかしい。
次から次へと涙が溢れてきた。なぜ涙が出るのか分からない。
「あぁ、頑張るよ」
なんで今日に限ってそんなに素直なの?いつもなら言い返してくるくせに。
ギースは私の頭を撫でて、そのまま自分の胸元へと引き寄せた。悪いけど、服で涙を拭かせて貰うわよ。
その日を境に何か変わったかというと、特に何もない。
ギースは相変わらず私の編み物にケチをつけて言い合いをしたし、ベッドでは背を向けあって寝てる。
ただ最近少し気になることがある。
別に欲求不満とかそういう訳ではなく、ギースは同じベッドで寝ているにも関わらず、私に指一本触れない。キスすらしたことがない。政略結婚とはいえ、同じ屋根の下で生活しているのにだ。
「私、女としての魅力がないのかしら…」
アリシナは紅茶を片手にむせこんだ。私はその背中をさすりながら軽く睨んだ。
「随分、正直な反応するのね」
「ちっ、違うよっ!!あまりに突然で…。なんでいきなり、そんなこと?」
説明するにもしにくくて、私は視線を泳がせた。
「あ、ギース殿のことね」
アリシナが楽しそうに笑う。
この子はいつからこんなイジワルになっちゃったのかしら。
「じゃあなんで今まで何にもないのよ?」
アリシナは小さく首を傾げた。
「何にもって…、えっ!?」
言いたいことを察したらしく、アリシナは頬を真っ赤に染めた。アリシナが赤くなってどうするのよ。
「もうパーシェント皇子とはやっちゃったんでしょ?」
「やだっ、やめてよっ」
アリシナはこれでもかと思う程、顔を真っ赤にした。否定しないということは肯定だろう。
しかしそれは当たり前だろう。結婚しているのだもの。
「私だって別にそういう事したい訳じゃないわよ。でももう夫婦生活初めて1ヶ月になるのよ?…いろいろ考えちゃうじゃない?」
アリシナは若干赤みを残す顔を片手で押さえながら、こちらを見た。
「いろいろ、って?」
「…女がいる」
「えぇ!?」
いろいろ考えてみた。けど最後にはどれもそこに行き着く。
ギースは最初に『男を作ってもいい』と私に言った。それは同時にあちらにも言えたことではないだろうか。もっと言えば、結婚前から意中の女がいた。でも絶対に揺るがない地位を得るために別の女と結婚した。でも心は向こうに…。
「か、考えすぎよ、ミラ。いくらなんでも…」
「どうして?だったら他に理由でもあるって言うの?」
自然と口調がキツいものになってしまった。アリシナは悲しそうに瞳をおとした。
「そ、それは…」
「ごめん、アリシナ。今日はもう帰るわ」
私は立ち上がり、テラスから見える街の風景に背を向けた。紅茶には一切手を付けなかった。
「ミラっ!」
アリシナは荒々しく立ち上がったが、私はまた来るわと言葉を残し、一度も振り返ることなくその場を後にした。
あんな遠い街の景色は、もう見たくなかった。
いつもよりも遅いギースの帰宅が、私の予想を裏付ける気がした。
「お帰りなさい。…遅かったのね」
「あぁ。今日は忙しかったんだ」
その言葉を素直に受け止めることができない。
誰かと会ってきたの?
ギースはいつもの如く同じベッドに身を滑り込ませた。
ベッドの中で上半身を起こしたまま、私はその一連の動きを見つめていた。その視線に気付いたのだろう、ギースは体の向きを変え、私を見上げてきた。
「…どうした?」
その優しげな声も顔も、違う誰かの為にあるような気がしてきて、そのギースを見るのが億劫になり、視線を外した。それを訝しんだのか、ギースは同じように体を起こした。
「…何かあったのか?」
「意中のお方がいらっしゃるんでしょう?」
「は?」
ギースは変な声を発した。
「何を馬鹿な…。何をどうやって考えたらそうなるんだ?」
ギースは鼻で笑うような言い方をした。それは私を逆撫でし、私の声は荒くなった。
「ならなぜ何もないの?私たちの間には何もないわ。結婚してもう1ヶ月よ?普通おかしいとか思わない?」
「何もって…」
「それによ!あなたは私の名を一度も呼んだことはないわっ!」
ギースは黙った。それは反論がない現れで、私は妙に悲しくなった。
「別に、あなたに女がいても私は構わないわよ。元々そういう結婚だったんだものね」
やはり私はこの人のことを何も知らない。
私は布団に潜り込んだ。もちろんギースに背を向けている。
初めておやすみを言わない就寝をした。
次の日の朝も行ってらっしゃいを言わなかった。気にするなという方が無理なのだ。
なぜだか、もうギースの顔を見ることもできない気がして怖くなった。なぜ怖いのか、考えたくなかった。
午前中は布団から出ることが出来ず、中でずっとうずくまっていた。
どのくらいそうしていただろうか、外から馬車の音がした。客人ならば今日は速やかに帰って頂きたいものだが。とても人に会えるような顔はしていない。
しかし階段を昇る音がして、それはあり得ないぐらいの速さで階下から近付いてくるのが分かる。そして部屋の扉がすごい音を立てて開いた。
それにはさすがに驚いて、私は布団から顔だけを覗かせた。
扉を開けたのはそこに立っていたギースだった。ギースは荒い息を繰り返している。
「いつまで寝ているつもりだ。起きろ。出かけるぞ」
「え…?」
ギースは私のことはお構い無しに侍女を呼んだ。侍女たちは私をベッドからはがし、髪を整え、薄く化粧を施した。
ギースはその支度が終わると同時に、もう待てないと言わんばかりにギースは私の腕を強く引き、階段をかけ下り、私を馬に乗せ、自分もその後ろに乗った。
「いったい、どういう…」
「つかまっていろ」
私の言うことにギースはまったく耳を貸すことなく馬を走らせた。馬は猛スピードで走り、私は口を開くことができなかった。
程なくして馬はスピードを緩め始めた。馬が完全に止まったのは、私のまったく知らない場所だった。邸、のようだが、いったい誰の邸なのだろうか?
ギースはまず自分が馬から下り、その後に私を下ろしてくれた。
「この家は俺を一番最初に引き取ってくれた、いわば義父の家だ」
「え…」
唐突に告げられ、私は反応に困った。
邸は決して大きくはないが、どこか気品にあふれていて、誰かがマメに手入れをしているのが容易に分かった。
ギースは私を中へと招き入れた。
「俺の本当の父親は商人だというのは知っているだろう?その父が病気で死んでな。義父はそれで俺を引き取って下さったんだ。頭の良し悪しに関係なく…な」
廊下を歩きながらギースは語った。1つ1つの部屋の思い出を噛み締めているようだった。
私はギースの後ろを黙って歩いた。
「義父は俺に勉強はもちろん、いろんな事を教えてくれた。それがあったからこそ、今の俺があるんだ。その時に義父に教えてもらったことの1つにこんな事があった」
ギースが立ち止まり、私を振り返った。
「本当に大切な人を作るときは覚悟を決めろ」
ギースの右手が私の左頬に触れた。それは大切そうに、割れ物でも扱うような触れ方だった。
「不安にさせてすまなかった。覚悟を…仕切れていなかったんだ」
ギースは自嘲するように笑った。
「4年、俺はここで生活をして、義父は病気で死んだんだ。その後は義父の親戚の家を転々とした。どこも楽しくはなかったな。いい思い出は見つからない」
すでに顔をそらされていて、その表情を伺うことはできない。しかし、きっと寂しい顔をしているのだろう。
私は先ほど左の頬に触れたギースの右手を両手で包んだ。ギースは一瞬強ばり、すぐに元に戻った。
「名前を呼ばなかったこと、悪かった。どうしても踏み出せなかった。…怖かったんだ」
「怖かった?」
「お前が…いや、ミラが大切になっていくのが、すごく怖かった。今まで大切に思う人はすぐにいなくなっていたからな。失う怖さが、どうしても一線を越えることができなかった」
本当に辛かったのだろう。その気持ちを私の物差しで測ることはできない。でもね。
「本当にね。私はそれにどれだけ想像を膨らめたことか」
ギースは軽く笑った。
「女まで出てきたからな」
しかしその笑いはすぐに止まった。ギースは私の前に回り込み、私の左手を強く握った。
「俺に女はいない。いるとしたらミラ1人だ」
嬉しかった。何にも変えようのない嬉しさだった。だから私は返事の変わりにギースに抱き付いた。その私の背をギースの大きな手が包みこんだ。
「今って、ここに誰も住んでないわよね?」
しばらく無言のまま抱き合って、私は思い付いたことをそのままの状態で口にした。
「あぁ、そうだが。それが?」
私はギースの体から少し離れ、ギースの顔を見上げた。
「なら、ここに引っ越しましょう」
「は…?」
ギースは目を見開いて私を見つめた。その素直な反応に、思わず頬が緩んだ。
「だってここすごく綺麗だしお洒落じゃない?気に入ったわ。それに…」
「それに?」
私は恥ずかしくなって、またギースの堅い胸板に顔を押し付けた。
「それに、ここの方があなたが素直みたい」
しばらくギースは黙り込み、というよりも固まってしまったみたいだった。それがあまりにも長かったので、私は顔を離してギースを見上げた。
ギースは目をぱちくりさせて私を見下ろしていた。
「…あなた?」
「…もう解禁だよな?」
「えっ、何?」
ギースは私の腕を奥へ奥へへと引いていった。心なしか少々速めだ。
「この奥に寝室がある」
「寝室…、ってえぇ!?」
ま、待ってよっ。何?今からそういうことなの?
私は抵抗する間もなく、目的の部屋へと到着した。
「まっ、まだ夕方よ?」
ギースはカーテンを閉める手を一度止め、私を振り返った。その顔はいたずらっ子のような、あの皮肉たっぷりな笑顔である。
「不安なんだろう?」
「いや…それはもう理由が分かったし…。し、仕事は?」
いつのまにやらカーテンを全部締め切り、それなりに暗い空間が出来上がっていた。
そういえば朝は仕事で城に向かったはずだ。こんなに早くに仕事が終わる訳がない。
「休んだ。今日と明日」
「休んだっ!?よくそんな急に休みが取れたわね…」
「皇子には理由が分かったみたいだったからな」
え?皇子…?
「ちょっと待って…。皇子って、パーシェント皇子のこと?」
ギースは私の手を取り、ベッドへと誘導した。しかし、その私の言葉に一度歩を止めた。
「やっぱりな…。ミラ、俺の仕事忘れてるだろう」
忘れてなんかいない。なんたって父と同じ秘書官…
「秘書官っ!?」
「あぁ」
「も、もしかして、パーシェント皇子の…秘書官…?」
「正解」
これは予想外だった。まさかギースが皇子の秘書官をしていただなんて…。これで仕事が忙しいのに合点がいった。
ギースはベッドへと足を動かし、そこに私を座らせた。
「だからミラが俺の過去をアリシナ様に探らせたのも知っていた。皇子はご丁寧に『ギースの奥さんがギースの過去を知りたがってるから、教えてもいい?』とわざわざ聞いてきたからな」
何やってるのよ、あの夫婦は…。
って、それって…
「あなた、それで許可したの…?」
「だからミラはアリシナ様から聞いたんだろう?」
つまり、私は1人で罪悪感に駆られていただけって訳?あの涙はなんだったんだ。
「あなたとアリシナはグルだったのね」
ギースは小さく音をたてて笑った。
「グルじゃない。ただ、お前とアリシナ様の話は結構筒抜けていたというだけだ。パーシェント皇子経由でな」
「つまりその3人でグルだったんでしょ」
不愉快極まりない。ギースは面白そうに笑っているが、私はそうもいかない。
もう絶対やらせてやんないからっ!!私はそっぽ向いて、唇を尖らせた。
「悪かった。でもその2人の協力がなければ、俺は今ここにはいないだろう?」
「まぁ、そうだけど…」
「それと…」
ギースが私を優しくベッドに横たわらせた。その上に覆いかぶさるようにしてギースもベッドに乗った。
「話を聞いた後にミラが言ったこと、それを聞いて思ったんだ。ミラが妻で良かった」
その後のことは2人の秘密ということで。少し言ってしまうならば、ギースが私に向けて愛の言葉をたくさんくれた。もちろん私も。
最後まで読んで頂きたい、誠にありがとうございました。駄文とは重々承知していますが、何かご意見ご感想ございましたら、お気軽にお願い致します。