家事代行サービス『にゃんこの手』
ジムから帰ると、ポストに手書きのチラシが入っていた。
「家事代行サービス……?」
短期から月契約まで、時間のニーズに応じた契約を出来る、よくある便利屋さんのようだ。
「……ふ~ん」
特に気にするでもなく、汗を含んだタオルを腕に巻き、オートロックを抜け、自分の住まいへと戻る。そのまま服を乱雑にカゴへと放り投げ、優しい雨のようなシャワーを浴びた。
友人に誘われて軽い気持ちで始めたジムだが、今ではスタイルを維持するために欠かせない存在となっている。バスタオルで髪を拭き、マイナスイオンを含む温風で優しく髪を乾かしてゆく。
「……えっ?」
淹れ立ての紅茶を手に、私は目を少しばかり疑ってしまった。
先程の家事代行サービスのチラシには『お試し期間中につき、一ヶ月三万円』と書かれていたのだ。しかも、一日八時間も働いてくれるなんて最近のサービスは過激だなと、言葉を紅茶と一緒に喉へと流し込んだ。
その夜、私は夫にこの話を持ち掛けた。
「ねえ? これなんだけど……」
夫にチラシを見せると、あからさまに怪訝な顔をして、直ぐさまにチラシを私に突き返す。そしてビールを一口ナッツを二つ口に放り込み、テレビに注意を向けた。
「おいおい、いくら安くても三万円も出してまで頼むものじゃあないだろう?」
不満げな顔は明らかな拒絶。しかし、私にはある考えがあった。
「ココ見てよ。一日八時間も働いてくれるのよ?」
「……で?」
ナッツを掴み口に入れる夫のビールを一口奪うと、私は指を鳴らし、夫の気を引いた。
「つまり、その間に私がバイトすれば黒字なのよ」
「──はっ……頭良いなお前!」
損得勘定で動く男があっさりと算盤計算を終え、私の秘策を褒め称えた。
「こないだ知り合いの人に紹介してもらった時給1300円のバイトなら、一日五時間の五日もあれば黒字! 最高じゃない?」
「わかった、後は任せるよ」
録画していたドラマが佳境を迎え、夫は全てを私に投げ出した。そしてその後は何を言っても上の空でビールを握り締めテレビから視線を外さなくなった。
──ピンポーン
「すみませーん。家事代行サービス『にゃんこの手』から参りました長谷川です」
早速申し込んだ家事代行サービス。やって来たのは私より少し若いしっかりした感じの女性だった。
「一カ月宜しく御願い致します!」
長谷川さんをリビングに通し、早速説明を聞く。
「開始時間からきっちり八時間。全ての家事、業務を貴方様より代行致します! あ、こちら契約書です」
手渡された契約書には、びっちりと細かい文字で訳のわからぬ事柄が綴られていた。
「要約しますと、全ての家事を代行します。契約の途中破棄は出来ません。途中で破棄しますと違約金100万円が掛かります……と書かれてます」
「ひゃ、ひゃくまん!?」
「まあ、お試しで途中で破棄する人なんて居ませんけどね。揉め事防止のための物なのであまり気にすることは無いですよ?」
「そ、そうね……」
私は不思議な気持ちで契約書にサインをした。お試しで三万円、その気持ちだけが先行していたのだ。
「開始時間は如何いたしますか?」
「そうね、朝は一人でゆっくりしたいから、午後の一時からお願い出来るかしら?」
「かしこまりました。では、明日よりお邪魔させて頂きますので、本日はこの辺で……」
「…………」
長谷川さんが帰った後、私は知り合いに電話を掛けてバイトの申し込みをした。一カ月みっちりとバイトをすればかなりの黒字だ。浮いたお金で前から欲しかったバッグを買おっと♪
──ピンポーン!
「家事代行サービス『にゃんこの手』の長谷川です。本日よりお願い致します!」
私は笑顔で長谷川さんを出迎え、家の掃除や夕飯と、明日の朝食の作り置きをお願いした。長谷川さんは嫌な顔一つもせず時間いっぱいまで家事を代行してくれた。
「ただいまー」
長谷川さんが帰ったら後、残業で帰ってきた夫に長谷川さんの料理を出す。しかし特に何も反応が無い。
「……どう?」
「どう……って、何が?」
何かを期待した私が愚かだったのだろう。この男は所詮この程度の低俗に過ぎなかったことが、たった今証明された。私は特に説明もせず、食べ終えた食器を洗って片付けた。
翌日からは、私のバイトが始まり、長谷川さんに任せっきりの生活となった。私が帰る頃には長谷川さんがすれ違うように帰る時間になってしまう為、少しだけ長谷川さんの入りの時間を遅らせて貰った。どんなに遅い時間でも合わせてくれる家事代行サービスの待遇の良さには、思わず感服してしまう。
「ただいまー……あ、え!?」
残業終わりの夫が、初めて長谷川さんと対面すると、鳩がショットガンを喰らったような顔で、ペコリとお辞儀をした。
「家事代行の長谷川と申します。宜しくお願い致しますね♪」
「え、ええ。此方こそ宜しくお願い申し上げます」
突然キリッとした顔で答える辺りにクソみたいな男を感じたが、今に始まった事では無い。どうせ今の今まで家事代行を頼んでいたことを忘れていたのだろう。
「今、夜ご飯の支度を致しますので」
「え、ええ……お構いなくぅ」
何が『お構いなくぅ』だ……若い女を見れば直ぐに顔色を変える意地汚いオヤジめ……。
「お口に合いますかどうか……」
その日出されたのは湯豆腐だった。夫はいつになく饒舌で、頻りに長谷川さんの料理を褒め称えた。昨日まで誰が作ったかも知らなかったくせに……!!
──ピンポーン
「吉永さーん。回覧板ですわー」
「あ、お隣の奥さんだわ」
私が席を立とうとすると、長谷川さんが先にスッと席を立った。
「私が行って参ります」
「そ、そう……ありがとう」
妙な気迫を感じ言われるがままに座り直す。そして玄関からは賑やかな談笑が聞こえ始めた。そして彼女が戻ってきたのは10分後だった。
「随分と話をしてたのね」
自分でも、その言い方はどうかと思うくらいに、不機嫌な感じが漏れている。しかし彼女はピクリともに言葉を濁さず笑顔で答えた。
「井戸端会議も立派な家事の一つですから」
ちょっと何を言っているのか、イマイチぴんと来なかったが、夫が直ぐさまに「偉いですね! 流石家事代行です!」とアホな合いの手を入れたので、私の怒りの矛先は全て夫へと向いてしまった。
それから、夫の帰りが異様に早くなった。
「いやぁ、偶然だよ」と惚けて見せた夫だが、嫌らしい笑顔で彼女と話す背中には明らかに邪な想いが含まれているに違いない。今までの残業が全て疑わしくなる程、スーツのシワはいつもと同じよれ方だった。
二人は私を差し置いてずっと話していて、食事中も談笑は止まらず、ついに私は怒りよりも寂しさが勝り、彼方の空に忘れ去られた初々しさを持ち寄ってしまった。
「ねぇ、あなた……ね?」
彼女が帰る時間を見計らい、見せつけるようにワザとらしい素振りで夫を誘う。
「え?」
クローゼットから久しぶりに出したワンピースを、何処で買ったか聞いた時のように、夫は全てを忘却した顔で私を見た。腕を絡めると夫はようやく察したのか、彼女に見られたくないと思ったのか、直ぐに腕を離し、私から距離を取るがそれは拒否の返事では無く、社会人としての体裁を装いつつ内心では期待に満ちた顔をしていた。
チラリと彼女を見るが顔色に変化は無く、食器を片付けシンクの水滴を吹き払いタオルをかけて笑顔を見せた。
「あら、お久しぶりな感じでしょうか? では、私が代行致しましょう」
我が耳を疑うより他ない言葉が、その女の口から発せられた。
「は!! 馬鹿じゃないの!?」
思わず声を荒げてしまう。しかし、常識的にそこまで誰が代行を頼むというのか? 絶対百人に聞いても、この女以外『はい』とは答えないだろう!
「いえいえ、契約にあります通り、奥様の仕事の全てを代行させて頂きます。それが嫌でしたら、違約金が発生致しますが……」
にこやかな笑顔でとんでもない事を口走る。これがこの女のやり方だったとは……!!
「お、おいおい……」
夫があたふたしながら私と女を交互に見るが、女が直ぐに夫の腕に捕まり、私と大差ない胸を押し付けた。
「──!!」
夫は……まんざらでもない顔をしていた。
同じ胸でどうしてここまで顔を変えられるのか……その答えは聞かなくてもいい……。私の引きつった口は、脳が考えるよりも早くずる賢い一言を放った。
「あら、そう? なら久しぶりのオセロをお願いしようかしら?」
「──えっ?」
どうやら、この男は私以外の女と平然と寝ようとしていたらしい。私は笑顔で手を振り、女も手を振って夫を寝室へと連れて行った。
──ポーン……ポーン……
時間を告げる壁掛け時計の時報が鳴り、あの女が帰る時間となった。契約は時間ピッタリ。無断残業は一切許さない。
──ガチャ
寝室のドアが開くと、上着を開けさせた女が慌ただしく飛び出した。目には涙を浮かべており、私がスッと寝室を覗くと、そこには散らばったオセロの中、ズボンのベルトを外した哀れな夫が居た。
「アンタまさか……」
「いやいやいやいや!! や……やってない!! まだやってない!!」
「……まだ?」
私は冷静に笑い、そして寝室のドアを静かに閉めた。
それから、夕食のリビングには重い空気が流れるようになり、夫は逃げるようにいつもの残業に戻った。
女との契約も最終日になり、あの日以来最後まで夫と女が顔を合わせることは無かった。
「ご契約は以上になります。この度は家事代行サービス『にゃんこの手』をご利用頂きまして、ありがとうございました」
「フン……二度と頼まないからさっさと出て行きなさい」
「……では」
最後に露骨な敵意を向けようとも、女は笑顔を崩す事は無かった。しかし、これで元の生活に戻れると思うと、バッグ一つでは憂さを晴らせぬと思い、私はこっそり靴も新調した。
夫に離婚届を突き付けられた。
あの日以来すれ違いが多くなり、ケンカが絶えなくなった私達は、ついには夫婦としての生活に終止符を打った。
直接の原因があの女だとしても、夫にうんざりしていたのは事実である。遅かれ早かれ、いつかは終わりを迎えていただろう事は疑う余地が無い。
行き先を無くした私とスーツケース。
夜の町には犬の遠吠えが良く似合う。
するりと外壁の隙間から現れた紙屑が電柱に張り付き行き場を失った。
「…………」
紙屑は家事代行サービスのチラシで、気を抜けばあっと言う間に別な風に吹かれて、私の知らない場所と去って行こうとしていた。
「…………」
電柱の電灯がチカチカと光り私の目を逸らさせる。塀の向こうで真新しそうな家が、暖かい家族の団欒を囲っていた。
「……あ、そう言う事か」
電柱から奪うようにチラシを剥ぐ。憎たらしい思い出に目を瞑り、私はスーツケースからペンを出した。
そして、電話番号を私のスマホの番号に書き換える。団欒の隙間へと捻じ込むその手は、きっと泥棒猫の手なんだろう。
「この契約が終わっても、あなたの傍にずっと居たいと、初めてそう強く感じました…………」
自ら開いた上着とズボンのベルト。そして俺の手から滑り落ちたオセロ。
彼女の匂い、色、温もり、そして手料理が私の脳に染み込んで離れない。