6/15 『由奈の本棚』
由奈の部屋とあたしの部屋は色んなところが違っているけど、一番大きな違いは本棚の中身だと思う。
CDが9割9分を占めているあたしと違って、由奈ん家の本棚は本が中心。だいたい文庫本の小説とマンガが7割くらいで、あとは画集、写真集、詩集、エッセイ、映画のDVDなんかが並んでいる。間違ってもタレント本とか自己啓発本みたいな、頭の悪そうなのは並んでない。
本棚の中にはブックタワー、いわゆる縦の本棚があって、積ん読らしき本がいくつも詰まれている。それ以外の本棚が一定の秩序に基づいて本が並べてあるのに対し、ここには規則のようなものはなかった。
つまり、由奈がお気に入ってるらしき本が並べてある場所なのだ。
たとえば、田辺聖子の短編集『ジョゼと虎と魚たち』。
たとえば、羽海野チカの『ハチミツとクローバー』と『3月のライオン』。
たとえば、山崎まどかの『オリーブ少女ライフ』。
たとえば、写真家・川島小鳥の写真集『未来ちゃん』『BABY BABY』。
たとえば、色彩検定の問題集。
もうこういうチョイスで、由奈がどんな趣味の女の子なのか、わかる人にはすぐわかってもらえると思う。彼女は繊細で優しくて切なさもあってかわいい……まあなんて言っていいのかわかんないけど、つまりあれ。あれだよ。そう、文化的なモノが好みなんだよね。そのうえで、知的なユーモアのある作品を好む感じ。
つまり、あたしの好きなものとは結構な違いがあると思う。
たとえば、あたしが好きな小説は『GO』とか『池袋ウエストゲートパーク』だし、好きなマンガは『BECK』とか『ホーリーランド』とか『寄生獣』だ。映画だって『爆裂都市』とか『ファイトクラブ』みたいな作品が好きで、まあ要するに男の子が血をたぎらせそうな、ちょっと暴力性のある作品が好みなのだ。由奈の本棚に並んでいる『花とアリス』『アメリ』『恋する惑星』『愛がなんだ』『南瓜とマヨネーズ』……などのラインナップとは全然違う。
(こんな趣味の違う女の子と、よく付き合うことになったもんだ……)
肌を重ね合わせてから30分。あたしは程よく冷め始めつつあるコーヒーを飲みながら、こちらに背を向けたまま本棚とにらめっこしている恋人に視線を送っていた。窓の外から入ってくる、月明かりと高校の灯りが、彼女の横顔を優しく照らしている。黒く長い髪が夜風によってそっとかき上げられると、色白な耳元やキレイな横顔が露わになって、あたしは思わず見とれそうになってしまう。
「んー、どこだったっけなあ」
「なに探してるの?」
「本」
振り返らぬまま、由奈は素っ気ない返事を返してきた。普段は優しい彼女だが、なにかに集中しているとツンの成分が増すのだ。
「それは見たらわかるけど」
「授業の課題図書でさ。あったら買わなくていいから」
「そんだけ整理してんのに見つけにくい本なの?」
「いや村上春樹の『ノルウェイの森』だけど」
「めっちゃわかりやすいやつじゃん。赤と緑じゃん」
「背描写は普通だからさ……やっぱないか。こりゃ実家だな」
「もしかして、実家にはもっとたくさんあんの?」
「そりゃそうだよ」
さも当然、という表情。探すのをやめ、由奈は本棚に背を向けてあたしのほうを見る。
「たぶんこの10倍くらい? はあるかな」
「へえ。さっすが戸山女子大文学部」
「またそれ言う。女子大は愛梨のほうでしょ」
由奈が指摘してくる。
そうなのだ。じつはあたしは女子大に通っている。正確に言うと、学習院女子大。
で、由奈が早稲田大学の文学部。
つまり、あたしたちは実は同じ大学に通っているワケじゃなかったりする。
でも、べつに同じとは一言も書いてないからね。ただ大学の最寄り駅が同じで、自宅も最寄り駅が違うとは言え距離的に近いから一緒に帰ることも多いってだけで。まあ、叙述トリックってやつかな?
ちなみに、なんであたしがちょいちょい戸山女子大と言ってるかと言うと、早稲田の文学部があるところを戸山キャンパスと言い、そこが早稲田内でもっとも女子率が高く、学内で「戸山女子大」と呼ばれてるから……というのが理由だ。あたしらからすれば野郎だらけで臭いのに笑う。
それはさておき、自然と本についてのトークになったので、あたしは由奈にこんなふうに尋ねる。
「由奈って本どれくらい読んでんの?」
「どれくらい? んー難しいけど、でも昔の文豪系は結構読んでるかも」
「あ、そうなんだ。てっきり雰囲気いいのばっかり読んでるのかと思いきや」
「そんなことないよ。昔は太宰の『人間失格』とか読んでたから」
「へえ」
「そう言う系で言えばあとは夢野久作の『ドグラ・マグラ』とかカフカの『変身』とか」
「めっちゃいかにもな感じじゃん」
「あの頃は中二少女だったからね。自分は普通の子とは違う、私の好きなモノは全然人気がない、同じ趣味を分かち合える人がほしい……そんなふうに言いつつ、でも、いざ実際同じ趣味の子が目の前に現れると自分が個性的な子じゃないってことに気付いて、自然とテンションが下がっちゃう……ま、そんな感じの自意識にまみれた子だった」
「すごいこじらせてたんだね」
「なんとなく想像つくでしょ、でも」
「まあ、ね」
あたしがそう言うと、由奈はとくに怒った素振りもなく、かと言って喜んだ感じもなく、ふっと頬を緩める。そこにあるのは、肩肘張らない会話ができていることへの喜びの感情のような気がした。
(でも、そんな子供だったから今の由奈があるんだもんな……)
若干20歳にして、由奈の文科系女子っぷりはかなりの完成度を誇っていると思う。どんな本が、どんな音楽が、どんなマンガが文房具がどんなコーヒーミルが自分の感性に合っているかを理解しているのだ。自分が一番気分良く過ごせるモノが何なのかをわかってるって言うかさ。
由奈のそういう面は、今後もどんどん進化、いや深化していくと思うけど、今でも十二分自分というモノを持った彼女の姿を見ていると、過去にそれ相応の思索と実践を積み重ねてきたことが容易にわかる。
そして、そんな由奈の部分は、センスというものを何より大事にするあたしにとって、とっても素敵に写る部分なのだった。
「ね、オススメの本とかない?」
だからこそ、こんなふうに聞いた。彼女のセンスに触れることは、彼女の心に触れることと同義な気がしたから。
「オススメ?」
あたしの言葉に反応し、由奈がひょこっと顔をあげる。
「そう。ここにある本ってあたしが今まで全然触れてこなかった感じのばっかだから。なんか読みたいなって」
「……愛梨、ちょっといい?」
「ん」
「それそんな軽く言っていいことなのかな? 覚悟はできてる?」
そんなふうに言いつつ、由奈が前に出て、つまり私の方向に近づいてくる。体育座りの姿勢のままなので、お尻をずって来た感じだ。
「え、ちょっとどういうこと」
「私にオススメ小説聞く覚悟はあるのかって」
「もしかして由奈、あたしに言ってないけどすごくアレな趣味持ってるの? 人ががんがん死ぬエログロスプラッター小説がじつは一番好き的な」
「いやそういうことじゃなくて」
由奈は小さく手をあげ、あたしに落ち着くように示す。
「好きなもの紹介するでしょ」
「うん」
「それで読んでもらうでしょ。ハマらなかったとするでしょ」
「うん」
「そこに残るのは何でしょうか? はいそこの君……そう、正解。気まずさですね」
「なにその一人塾講師……んー、でも、知識とか教養も残るかもじゃん?」
「残んないよー、そんなの」
由奈は切り捨てるように言う。内容はさておき、声色は優しい。
「だって好きくない作品って記憶に残らないでしょ? 私、今まで何千冊と読んできたけど、中身はっきり語れるのってせいぜい2~300だし」
「たしかに……でも、あたしも同じだ。まあ音楽はかかる時間短いからさすがにもうちょい多いけど」
「それにさ、もし私たちが同じ趣味だったとするじゃん。まあ仮にお互い推理小説が好きだとして。私は推理小説はあんま読まないからさ」
「お互いに思い入れのないやつで例えってことね」
由奈がコクンとうなずく。
「で、推理小説好きだったとしても、新本格ミステリ好きか、ライトミステリ好きかによって全然変わるんだと思うんだ」
「あ、でもそれわかるかも」
「だいたい、読書好きでも好きな作家まで被ることって滅多にないからね」
「そういう状況にも関わらず、あたしは軽~いノリで『オススメの本』聞いたと」
「そういうこと」
「……由奈ってホントにめんどっちい子だね」
思わず、そんな言葉が出てしまった。あたしの本音に由奈は一瞬面食らう表情を見せるけど、すぐにムッとふくれる。
「真面目に言ったつもりなんだけど」
「そんな深く考えなくていいと思うんだけど」
「いや、そういう仲の悪くなり方ってありがちなんだって」
由奈は女子高出身らしい。彼女に異性の友人がいたとは考えにくいので、きっと同性の友人との間に、そういうこじれ方をした相手がいたんだろうとあたしは思った。
だからこそ、あたしはこんなふうに告げる。
「でも、それってこだわりの強い人たちの間での話でしょ? あたしって意外と何でも面白いって思うタイプだし。由奈みたいに色んな本読んでたらはっきりした好みあると思うけどさ」
「それは……まあそういう部分もあるかもだけど」
「で、あたしは本を読みたいってより由奈の痕跡を読み取りたいってのもあって」
「私の痕跡?」
「本ってさ、すごくお気に入りな本は表紙もボロボロになるじゃん?」
「ああ、それはある。いくら大事に扱っても、とくに好きな本って何度も読み返すからどうしてもボロくなるんだよね」
「好きだからこそボロくなるというか」
「そうそう」
「だからさ、そういうのも知れるかなって。折り目あったら『なんか気に入ったシーンあったのかな。由奈に限って栞なくしただけって可能性はないもんな』とか思えたり」
「想像が具体的だね」
「まあ一種の解読ですわな」
「だから『痕跡を読み取りたい』ってさっき言ったのか」
「そうそう。『ここ開きすぎて、背表紙から形がついちゃってるな』とか思ったりね」
「まあそういうことは、たしかにあるけど」
話が通じたところで、あたしは別の例え話を出す。
「あたしの部屋にアコギ置いてるでしょ?」
「あったっけ?」
「あんだけ存在感あって、しかももう何回もお泊まりしてんのに気付かないって……由奈、一体どれだけあたしにメロメ……」
「うそうそじょーだんだよ」
「あれ、小学生のときから使ってるんだけど、引き傷とか打ち傷結構あるんだよね。いくら大事にしててもつくもんなんだよ」
「だろうね」
「でも、世の中にはさ、長く使ってるのに全然傷が入ってないことを自慢する人がちょくちょくいるんだけど、そういう人って単純に練習が少なくて、まあ下手なの」
「なるほど」
「だからさ、愛ってのは傷つけないって行動を指すんじゃなく、大切に使ったあとに残る傷跡のことを言うんじゃないかなって思ったりするワケ」
「ふうん」
「人間関係も同じじゃないかなって。いくら気が合っても一緒にて傷つけないなんてことはないでしょ? 大切にしても傷はついちゃう」
「……」
由奈はなにも言わない。ただ、あたしの言葉になにかを感じていることはわかった。
だから、あたしは続ける。
「でもその傷跡すら誇りになるってのかな……私はそういう関係性に憧れるんだよね」
「えらくキザなこと言うんだね」
「ま、これでも高校時代は自分で曲作って歌ってましたからね」
「今すごい腑に落ちたよ」
そして、あたしはまとめるように言う。
「まあでもあれだよ。好きな人が好きなモノがあたしの一部になってく的な、そういうのにシンプルに憧れてる。そんな感じ」
「……また、そんなこと、言う……」
あたしの言葉に、由奈はわかりやすく顔を赤らめる。体育座りしている両脚を少しだけ広げ、膝の中に自分の顔をツッコんだ。
不意に、ふたりの間に静寂が訪れる。話に夢中で気付かなかったけど、今日もすでに夜は更けつつあった。
湿っぽい空気は心なしか少し前よりひんやりさを増しており、あたしは裸足の足先を、由奈のニオイのするブランケットへと潜り込ませる。足先なのに贅沢だな、とか思う。
「……何冊?」
すると、由奈が静寂に終止符を打った。
体育座りの両膝の間に顔を挟んだまま、視線だけ上にあげて、こちらを見つめていた。
愛しさで胸がいっぱいになりかけながら、あたしはこう返す。
「んー、じゃあまずは一冊」
と、由奈の黒い瞳が不満の感情で揺れた。それはまるで静かな夜に、湿り気を帯びた初夏の風が急に吹いたかのようだった。
「そこは何冊でもって言うとこじゃないの?」
「あたし読書家じゃないからさ。あんまり自分に高いハードル課すのもあれでしょ?」
「……わかった。じゃあ一冊に絞るから、質問に答えてって」
「……りょーかい」
もしかすると、このチョイスに数時間かかってしまうかもしれない。
由奈らしい返事に苦笑を浮かべながら、あたしたちの夜はさらに深まっていくのだった。