6/12 『コーヒー』
「あっ、愛梨、だだ大丈夫? い、痛くない?」
「だ、大丈夫だったらこんなエビみたいな体勢になってない……」
「だっ、だよねっ。ふっ」
そう言いつつ、私は愛梨の後頭部に氷嚢を押し当てた。愛梨は軽く涙を浮かべながら、うーっと体を丸めて私のベッドで横になっている。
「こ、こんな感じでいい? 場所、あ、合ってる?」
「合ってる……けど、由奈、さっきから笑ってるでしょ」
「わ、笑ってなんか、な、ない……あははっ」
「笑ってんじゃん」
愛梨は少し口先を尖らせてそう言うが、私のことを本気で怒る余裕は今はないようだった。
○○○
「いやー、マジで油断してた……」
愛梨が氷嚢を自分で後頭部に押し当てながら言葉を漏らす。今は涙は浮かべていなくて、普通に私のベッドのうえにタンクトップ&ショートパンツという出で立ちで腰掛けている感じだ。
「もー災難だよー。横になっただけなのに、ゴンって頭打つんだもん」
「ね。私もびっくりしちゃった。思ったより鈍い音だったし……」
「鈍い音とか怖いこと言うなって……」
「鈍器で殴られたときってああいう音するんだろね。でも、愛梨の場合は鈍器に殴られにいった音か」
「ちょいちょいー。からかうのそこまでにしてーお姉さん」
愛梨は不満げに目を細めながら、なじるような口調で言う。ジトっとした目で、その不満がわかる。頭を打ったときに私が笑ったのを、少し根に持っているらしい。
経緯はこうだった。
この日、愛梨は珍しく私の部屋に遊びに来ていた。私たちの通う大学からは、アクセスだけを考えれば愛梨の家のほうが行きやすい。最寄りである早稲田駅から愛梨の住む高円寺まで、東西線が中央線に乗り入れているので、乗り換えなしで帰ることができるのだ。
対して、西武新宿線の都立家政駅が最寄りの私は、一旦、東西線で高田馬場駅まで出て、そこから西武新宿線に乗り換える必要がある。
そんなだから、ついつい愛梨の家に泊まることが多かったのだけど、この日はなんとなく私の家に泊まることになった。それぞれ一旦家に戻って、愛梨が寝る用の服と着替えを持ってからこっちに来た形だ。
待ち合わせ場所は、高円寺駅と都立家政駅の中間あたり。名前はわかんないけどなんか小さい橋があるところ……と言えば3万分の1くらいの確率で読者の皆さんにも通じるかもしれない。
つまり、土地勘ない人がほとんどだと思うから一応説明しておくと、西武新宿線と中央線は途中までわりと近くて、高円寺駅と都立家政駅は徒歩で10分ちょい。自転車なら5分で行ける距離感なのだ。
と、そんなふうにして合流して、私の部屋にやって来たのだけど、愛梨がここに来るのはじつはまだ2回目だった。初回はまだ付き合い始める前のことで、他にも友達がいたのもあって、当然ベッドに寝転ぶこともなかった。
その結果、愛梨はベッドの縁で後頭部を強打したというワケ。まあベッドって似てるようで地味に形が違うし、正直仕方ないミスだけど、でも本当に豪快だった。私の体を強引に引っ張って、私に上になることを強制した流れだったのもあって、思った以上に加速してしまったんだろう。
「しかし、ベッドで頭打つって。我ながらめっちゃ間抜けだよな」
「まあ仕方ないでしょ。このベッドと愛梨のベッド、形が違うんだし」
「それはそうだけど……」
愛梨が泣いたあとの子供のような顔で漏らす。普段が格好いい分、弱った姿がとてもかわいく感じられる。
正直、2回目とは言え、愛梨が私の家に泊まるのは初めてだったから多少なりとも緊張していたんだけど、今はすっかりリラックスできている。結果オーライとはこのことだ。だから愛梨にはいつも以上に優しくしてあげることにしよう。
そう思って、私は愛梨に尋ねる。
「なにか飲む?」
「……コーヒー」
「コーヒー?」
「鎮痛効果あるかなって」
「ふふっ。了解」
実際コーヒーに沈痛効果があるかはわからないけど、私は言われた通りにいれてあげることにした。
流し台の上にある戸棚を開き、そこから豆が入った袋とコーヒーミルを取り出す。ミルの上部をスライドさせると、こぼさないよう注意を払って中に豆を入れる。そして、私は左手でミルをしっかり持って、お腹に当てるようにして固定して、右手をまわして豆をガリガリと挽いていった。
袋を開けたときにすでにしていた香りが強くなり、自然と気持ちも落ち着いていくのがわかる。
「……なにしてんの?」
私が出している音に驚いたのか、愛梨がこちらに歩いてきた。後頭部には今も氷嚢を当てている。かわいい。
「なにしてんのって見ればわかるでしょ?」
「新種のダイエット?」
「違うに決まってるでしょ」
「マメーズブートキャンプ?」
「……」
愛梨が、すごく昔に流行った気がする円を描くような動きを見せてくる。
ので、私が精一杯白い目を見せると、愛梨の動きが止まった。
「スベってすいませんでした」
「わかればよろしい」
「でも二の腕に効きそうだなって」
「まあそれはそうかもだけど」
私はゴリゴリ挽きながら、愛梨と会話していく。体の温度が、半刻ぶりくらいにふたたび上がっていくのを感じる。
「てっきりインスタントとかだと思った」
「インスタントでもいいけど挽いたほうがずっと美味しいんだよ」
「へえ」
「うちお父さんがコーヒー好きでさ」
「え、格好良い」
「豆とかスゴいこだわってて、だから私も年齢の割には詳しいほうかな?」
「ほう」
心なしか、愛梨の瞳に尊敬の色が浮かんでいる気がする。好きな人に尊敬されるのは、小っ恥ずかしいけどやっぱり嬉しい。
「ちなみに実家には機械のミルもあったんだけど、こっちは広さ的に無理かなって」
そこまで言うと、私はミルの上部をふたたびスライドさせ、中を確認。コーヒー豆を追加し、氷嚢を受け取ったうえでミルを愛梨に手渡した。
「はい交代」
「あ、うん」
愛梨は少し戸惑った素振りを見せると、ミルを流し台のうえに置いて慎重に回し始める。そして、塩梅がわかったのか動きが速くなると、パッと顔をあげた。
「あ、わかった」
「なにが?」
「由奈がこれ持ってたの。音がうるさいんだね。あと、置いたほうが逆に不安定」
「そうそれ」
私はふふっと笑う。そうなのだ。よく丁寧な暮らし系雑誌を見ると、オシャレな無垢材のテーブルのうえに手動のコーヒーミルを置いて挽いたりしているけど、コーヒー豆は結構硬いから力を入れないといけない。ゆえに、どうしてもミルがぐらついて、結果的に豆を挽く音だけじゃなく、テーブルとこすれる音までしてしまう。
そういうワケで、不格好だけど、左手で持ってやっちゃったほうがやりやすかったりするのだ。
「てっきり二の腕鍛えてるのかと思った」
「これで鍛えられたらいいんだけどね」
ふたりがかりで挽き終わると、その粉をドリッパーに入れる。
そしてコーッと音を立て始めたヤカンの火をとめ、粉のうえにゆっくりと注ぎ始めた。豆が膨らみ、香ばしい香りが体のなかに入ってくる。隣では愛梨が興味深そうに、身を乗り出して進捗を見守っている。
「いいニオイ」
「でしょ。豆挽くのってたしかに面倒なんだけど、やっぱ風味が全然違うし、いれ終わった豆もニオイ消しに使えるんだよ。生ゴミの」
「あ、それはちょっといいかも」
「でしょでしょ」
そして、愛梨が軽い口調で尋ねてきた。
「ちなみにこのコーヒー豆ってどこの?」
「ん? カルディだけど」
「え、カルディ?」
「うん、カルディ。ほらこれ」
そう言って私がカルディの袋を取り出して見せると、愛梨が固まってしまった。
「……」
「……あ、もしかして少し拍子抜けした?」
「もしかしないでも拍子抜けした」
「まったく、愛梨はわかってないなあ」
「ひょえっ? あたしがわかってない?」
「とりあえず牛乳、マグカップの3分の1くらい入れてチンして」
「う、うん」
私に言われるがまま、愛梨はマグに牛乳を入れ、電子レンジで温め始めた。
コーヒーを煎れるのは、じつは結構時間がかかる。あまり一気に熱湯を注ぎすぎると、コーヒーの粉が浮いてしまい、ペーパーフィルターの側面、その上のほうにくっついてしまうのだ。あくまで個人的な感覚だけど、こうなると上のほうの粉が抽出されきれず、味が薄くなってしまう気がする。あくまで気がするってだけだけど。
そして、程なくして牛乳の温めが終了。私はそこに、コーヒーを注いでいく。表面に軽くできた牛乳の膜が壊れ、白から薄い茶色、茶色へと色合いを変えていった。スプーンで数回混ぜると、私はマグカップの片方を愛梨に差し出した。
「はいどうぞ」
「あ、うん……」
半信半疑という感じで口をつける愛梨。
しかし、少し飲むとその瞳がパッと開く。
「あ、おいしい!」
「でしょ?」
「うん。思ったより、というか普通にめっちゃ美味いな」
「でしょ?」
「普段飲むのよりなんか味がマイルドってゆーか、ちょっと甘い感じ? ハチミツとか入れた?」
「入れてないよ。コーヒーと牛乳だけ」
「だよね」
「私、コーヒーはフルーティーなのが好きなんだよね。だからカルディはエクアドルが好き。春ならスプリングブレンドもいいかなあ……まあタカナシの牛乳のおかげってのもあると思うけど」
「詳しく言われても全然わかんないけど」
「私、たしかにコーヒー専門店とか行くし、豆も買ったりするんだけど、でもカルディのめっちゃ美味しいんだよ」
「でもたしかに、配ってるやつ美味しいもんね」
「種類も豊富だし、小分して売ってくれるし、あとなにより安い。専門店の半額くらい。奥沢のエボニーコーヒーとか大好きなんだけど200グラムで1200円とか1400円だから。バイト代そこに全部つぎ込むワケにはいかないでしょ?」
「急に饒舌になるんだね……」
「まあね」
そして、私は気付く。立ちながら、コーヒーを飲んでいたということに。
愛梨もほぼ同時刻に気付いたらしい。
「とりあえず座ろっか」
「だね」
そして私たちは連れだってベッドのほうへと向かっていく。月は今日もまん丸で、マンションの裏手にある高校の校舎越しに見えている。
初夏の夜風はすでに少し湿っぽく、でもコーヒーの心地よい香りと、ふたりの時間を邪魔するほどの勢いはなかった。