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ジョシュア

作者: 麻田ひろみ

 昔々あるところに、ジョシュアという少年がおりました。


 え? 昔々とか、あるところとか、曖昧すぎる?

 仕方がないなぁ……。

 では、気を取り直しまして。


 時は、聖暦1601年。大陸西部のヴェスタート王国で一人の少年が生を受けました。

 少年の名は、ジョシュアといいました。

 貧乏伯爵家として知られたジョンストン家の三男として生まれた彼は、幼い頃から利発な子供として評判でした。人の話をよく聞き、慎重かつ大胆な行動力を持っていました。父であるジョンストン卿は、ジョシュアが嫡子でないことを残念がっていたともいいます。


 両親だけでなく、兄や姉からも可愛がられて育ったジョシュアでしたが、彼には秘密がありました。

 彼が生まれ育ったヴェスタート王国とは全く異なる、別の場所、別の時間で生きていたという記憶を持っていたのです。

 ジョシュア自身は、それを「前世の記憶」だと思っていたようですが、果たして事実であったのかどうか。今となっては知る者はいません。当時であっても、確かめようがなかったことでしょう。

 ともあれ、彼はしばしば当時の常識にとらわれない着想を形にしたと言われています。それが「前世の記憶」によるものかどうかは定かではありませんが、余人には計り知れない不思議な知恵を持っていたことだけは確かなようです。


 時は流れて、ジョシュアは6歳の誕生日を迎えました。

 貴族の子弟なら、王立学院に通い始める時期です。ジョシュアも伯爵家の息子でしたから、王立学院初等科に通うことになりました。

 学院での日々は楽しくも目まぐるしく過ぎていきました。

 ジョシュアが12歳になり、中等科へと進む頃には、幼馴染の子爵令嬢レイチェルとの仲も進展していたようで、充実した毎日を過ごしていました。


 彼が15歳の誕生日を迎えて、王立学院の高等科へ進学するか、それとも騎士学校か、はたまた魔術院か……と進路選択に悩んでいた頃、巷では不穏な噂が囁かれるようになりました。

 大陸南部で、魔王ドルゴグラシアが復活したというのです。

 とはいえ、最初は誰も本気で信じてはいませんでした。

 魔王が封じられた時期には諸説ありますが、聖暦1098年から1105年の間のことというのが学会の定説です。当時の人たちにとっても何百年も前のことでしたから、歴史的事実というよりはおとぎ話の出来事のように感じられていたとしても無理からぬことであったでしょう。


 しかし、数ヶ月後に大陸南部から難民たちが逃れてきたことで状況は変わりました。難民たちが口を揃えて証言したのです。魔物の軍勢に国が滅ぼされた、と。

 ヴェスタート王国は難民たちの訴えを聞き流しませんでした。事実を確かめるべく、近隣国と協力して、大陸南部に斥候部隊を送り込んだのです。

 やがて帰還した斥候たちの報告は、難民たちの証言を裏付けるものでした。多くの町や村が廃墟と化し、南部諸国は既に滅ぼされているか、魔王軍の支配下に置かれてしまっているか、そのどちらかだったのです。

 ヴェスタート王国は、魔王軍に対抗するための多国間での協力体制の必要性を訴えました。呼びかけに応えたクトラール王国、エスタブ王国、フォスエンド王国の3国と共に「西部同盟」を結成して、予測される魔王軍の北進に備えたのです。


 そうした時代の流れの中でジョシュアは16歳になり、王立学院高等科への進学を果たしました。

 しかし、そのわずか半年後には学院は休校になってしまいます。

 魔王軍が北進を開始したのです。

 最前線となったのは、ヴェスタート王国の南にあったフォスエンド王国のエルドリッジ要塞でした。フォスエンド王国の要請にもとづいて、ヴェスタート王国は騎兵、歩兵、魔術兵からなる混成旅団をエルドリッジ要塞へ派遣しました。

 それは、魔王軍との戦争の、ほんの序章に過ぎませんでした。

 戦争は長期化の様相を呈していきます。王族も、貴族も、平民も、奴隷でさえも、魔王軍との戦争の行く末を案じるようになりました。人も物も徐々に余裕がなくなっていき、社会全体で戦争を支えるための体制構築が求められるようになっていきます。もはや学校で勉強するどころではなくなっていたのです。


 ジョシュアは、こうした日が来ることを予見していました。

 魔王の復活。それが巻き起こす混乱。大陸全体へ波及する魔王軍との戦争。

 彼は、そうした現状を「前世の記憶」で何年も前から知っていました。ですが、そのことを軽々と口にすることはできませんでした。

 伯爵家の息子とはいえ、ジョシュアが子供であることには変わりありません。魔王が復活するから備えなければならないと主張したところで、聞く耳を持ってもらえないどころか、狂人扱いされるおそれすらありました。

 魔王復活が現実のものとなるまで、彼は沈黙を守り通さねばなりませんでした。


 魔王復活後のジョシュアは、父であるジョンストン卿に自分の考えを伝えることを躊躇いませんでした。

 先に述べた西部同盟は、ジョシュアのアイデアを聞いたジョンストン卿が国王に上奏したことで実現したものです。

 それだけではありません。農業や流通の改善にはじまり、軍の編成に至るまで、ジョシュアは数多くのアイデアを持っていました。

 時には友と語り合い、時には家族と論じることで、それらのアイデアを世に広め、少しでもヴェスタート王国を良くしたいと、彼は考えたのです。

 今日のように電子情報ネットワークが発達していない時代のことです。貴族という恵まれた立場にあったとはいえ、一学生に過ぎなかったジョシュアが、自らのアイデアを広めるためにどれだけ工夫をしなければならなかったか。想像に難くありません。


 ジョシュアの地道な活動は、やがて国王リチャード9世の耳に入ります。

 そして、ジョシュアは王城で国王に謁見する機会を得ました。彼が17歳の、ある夏の日のことでした。

 国王に謁見したジョシュアは、国王から魔王軍への対処について献策するように命じられました。居合わせた大臣や官僚たちは、国王が無理難題を吹っかけたと感じましたが、ジョシュアはそう捉えませんでした。

 彼は、その場でひとつの案を示しました。


「選定の剣をもちいられては如何でしょうか」


 ヴェスタート王国には、神より授かったとされる一本の剣が伝わっていました。

 剣の名は、ジェノヴィアード。

 建国当初から伝わるその剣は「選定の剣」とも呼ばれ、国難に際して「勇者」を選び出すと言い伝えられていました。

 ジェノヴィアードに選ばれた「勇者」は、神々の加護を得て地上最強の力を得られます。ですが、選ばれし者でなければ、剣を鞘から抜くことすらできないとされ、実際に誰一人としてジェノヴィアードの刃を見た者はいなかったのです。

 そのためか、国王ですらジェノヴィアードにまつわる言い伝えに対して懐疑的だったほどでした。

 しかし、ジョシュアはジェノヴィアードが伝説にふさわしい力を持っていると確信していました。

 だからこそ、ジェノヴィアードを使って魔王軍に抗し得る力を持った「勇者」を選び出してはどうかという提案――あるいは、なぜそうしないのか、という素朴な疑問であったのかもしれません――ができたのです。

 ジョシュアの提言について、後にリチャード9世は「虚を突かれる思いがした」と述べています。


 そして、三百年ぶりにジェノヴィアードの封印が解かれる日がやってきました。

 王国中から、腕に覚えのある猛者や、力自慢の荒くれ者、国内の有力者から推薦された若者たち――とにかく大勢の挑戦者が王城へとやってきました。

 ジェノヴィアードは城の中庭に設置されました。数多くの候補者が挑んだにも関わらず、剣が鞘から抜ける気配はありません。

 誰も剣を抜くことができないのではないか。そんな雰囲気がただよいはじめました。選定の剣を使うことを提唱したジョシュアに疑いの眼差しを向ける者もいました。

 ですが、当のジョシュアは落ち着いていました。

 彼は信じていたのです。必ず剣を抜く者が現れることを。


 そして、ついにジェノヴィアードの白く輝く刃が鞘から滑り出ました。

 剣を抜いたのは、若干15歳の少女でした。

 少女の名は、エレナ。

 まだ成人前の、あどけなさの残る可憐な少女が、ジェノヴィアードを高々と掲げてみせたのです。

 勇者エレナが誕生した歴史的瞬間でした。


 剣に選ばれ、神々の加護を得た勇者エレナは、魔王討伐の旅に出ることになりました。

 とはいえ、どれだけ勇者が強くても、ひとりでは魔王を倒すことはできません。魔王は数え切れないほどの魔人、魔獣、魔物を従えていたからです。ひとりで立ち向かっていたのでは、魔王にたどり着く前に力尽きてしまいます。

 そこで、勇者を支えるためのパーティーが編成されることになりました。有り体に言ってしまえば、それは決死隊を募るのと同義でした。生きて帰ってこられる保証など、どこにもなかったからです。

 皆、怖気づきました。

 ジェノヴィアードに挑んだ猛者たちはあんなにも多かったというのに、勇者と共に旅をしようという者はなかなか現れませんでした。


「剣で勇者を選ぶことを提案したのは私なのに、知らぬふりはできませぬ」


 そう言って、ジョシュアは勇者のパーティーに志願しました。


「ジョシュアが勇者と共に戦うのならば、婚約者の私も黙って見ているわけには参りませぬ」


 子爵令嬢のレイチェルも、幼馴染で婚約者のジョシュアの後を追って、勇者のパーティーに加わりました。

 彼女は王立魔術院に籍を置き、若くて才能あふれる魔術師として知られていました。勇者のパーティーに入ると聞いて、才を惜しむ声も多かったのですが、魔術戦力の加入は勇者一行にとって必要なことでした。

 しかし、攻撃一辺倒では魔王討伐を成し遂げることはできません。支援や回復といった役割を果たすことのできる者が必要でした。

 そこで、ジョシュアはレイチェルに相談しました。魔術師のことなら魔術師に聞くのが道理であったからです。

 レイチェルは、魔術院の同級生で実技教習でコンビを組んでいるアリシアを勇者のパーティーに引き入れました。

 伯爵令嬢のアリシアは優秀な支援系魔術師で、身体強化術のみならず、回復魔術にも長じていました。火力特化型のレイチェルとは良いコンビで、授業や実習で協力するだけでなく、はぐれ魔物を狩って小遣いを稼ぐようなこともしていたようです。


 勇者を含む4人のメンバーが集まり、どうにかパーティーとしての体裁が整えられたことから、エレナたちは魔王討伐へ向けて出発することになりました。

 その時点でエルドリッジ要塞は陥落しており、フォスエンド王国は領土の大半を魔王軍に蹂躙されていました。

 魔王軍の勢いは留まることを知らず、西部同盟諸国領のみならず、大陸東部や北部へも攻撃の手を伸ばしつつありました。とどまるところを知らない魔王軍の進撃に、各国はいたずらに兵を消耗するばかりで、疲弊した民衆の間には厭戦気分が広がりはじめていました。

 そこへもたらされた勇者進発の報は、最初は大して注目されることはありませんでした。ですが、勇者エレナとその仲間が、エルドリッジ要塞に駐留していた魔王軍を一掃したという報せがもたらされると、状況は一変することになります。

 わずか15歳の勇者。彼女を支える3人の仲間も十代後半の若者ばかり。若い力が魔王軍に一矢報いたのです。民衆は奮い立ち、将兵は士気を取り戻しました。

 次々と魔王軍を撃破してゆく勇者一行に、多くの人々が希望を託すようになっていったのです。


 勇者一行は行く先々で歓迎を受けました。ですが、そのことをジョシュアは憂いていました。

 エレナとジェノヴィアードの組み合わせは、万の将兵にも匹敵する戦力を発揮していました。各地を転戦し、魔王軍を撃破する勇者一行を、大衆は諸手を挙げて歓迎し、思いつく限りの称賛を惜しみませんでした。

 しかし、そのことを各国の王族や貴族は快く思わないだろう。と、ジョシュアは考えていたのです。

 今はまだ、魔王軍が恐ろしい。だが、危機が去ってしまえば、エレナの力は支配層にとっては脅威に映るに違いない。エレナだけでなく、彼女を擁するヴェスタート王国も、周辺国から警戒の眼差しを向けられるようになるだろう……。

 ジョシュアは、既に「戦後」を見ていたのです。


 大陸各地の魔王軍を次々と撃破し、人間の支配地域を回復していった勇者一行は、ついに魔王軍の本拠地である大陸南部へと足を踏み入れました。

 要所に城塞が築かれ、戦いは激しさを増していきました。これまで以上に魔王軍の抵抗は激しいものでしたが、勇者一行も経験を積んで成長しており、鎧袖一触で魔人兵団を粉砕し、魔獣の群れを差し向けたくらいでは時間稼ぎにもならないほどでした。

 そして、勇者一行は魔王の拠点である城塞「シュタールバーグ」にたどり着きます。

 ところが、城内を進む勇者一行は、魔王軍の計略によりバラバラにされてしまいます。分断された勇者一行の前に、魔王軍の幹部「四魔将」が立ち塞がり、攻撃を仕掛けてきました。


「勇者どもは確かに強いが、分断し、相互の連携を阻害すれば、その強さを十全に発揮することはできまい」


 と、魔王は考えたのです。至極真っ当で常識的な着眼点でした。

 しかし、結果的には、それは浅慮であったと言わざるを得ませんでした。


 レイチェルは、魔術戦に秀でた魔将ガリオンと対峙しました。

 ガリオンは自らの魔術に絶大な自信を持っていましたが、レイチェルはジョシュアと協力して構築した新しい魔術式を用いてガリオンを翻弄し、最終的に彼を煉獄の炎で焼き尽くしました。


 アリシアは、屍霊術を操る魔将ネクロアと対峙しました。

 死者の魂を使役し、自らもまたアンデッドであったネクロアに対し、アリシアは「聖なる光」と呼ばれる神聖魔術を行使しました。聖なる光を浴びたネクロアは浄化され、跡形もなく消滅してしまいました。


 ジョシュアは、ギルダスとファーガスという二人の魔将を相手にしました。

 ギルダスとファーガスは勇猛果敢な闘将で、パーティーでは軍師としての役割を担っていたジョシュアには分が悪いかと思われました。しかし、二人の仲がよくないことを見て取ったジョシュアは、欺瞞情報で疑心暗鬼に陥らせて同士討ちに追い込みました。


 そして、勇者エレナは魔王ドルゴグラシアと謁見室で正々堂々の一騎打ち――と思いきや、魔王は伏兵を使って勇者を謀殺せんと試みた挙げ句、完膚なきまでに返り討ちにされたのでした。

 シュタールバーグの玉座は血にまみれ、魔王は石床に倒れ伏しました。油断なく剣を構えなおす勇者を見上げて、魔王は呟きました。


「勇者の力がこれほどまでとは。侮っていたことは認めざるを得まい。だが、過ぎたる力は身を滅ぼす。我の次に滅びるのは其方だ。せいぜい覚悟しておくのだな……」


 そう言い捨てて、魔王は息を引き取りました。

 複雑な表情で立ち尽くす勇者エレナに、駆けつけたジョシュアが声をかけました。


「心配は無用です。魔王ごときに言われるまでもなく、そのようなことは承知しておりました。私に策がございます。ご安心を」

「ジョシュア殿がそこまで仰るなら、私はそれに従いましょう」


 勇者エレナは魔王討伐を成し遂げ、ヴェスタート王国へ帰還しました。堂々たる凱旋でした。

 民衆は歓呼の声で勇者一行を迎えましたが、それを苦々しげな眼差しで見つめる者たちがいました。一部の貴族たちです。

 特に上級貴族ほど、エレナを敵視しました。彼らは、勇者として誰もが認める実績を残したエレナを畏れ、かつ疎ましく思い、できることなら排除したいとすら望んでいたのです。


 勇者エレナとジョシュア、レイチェル、アリシアの4人は魔王討伐の功績を認められ、国王から名誉勲章を授けられました。勲章だけでなく、莫大な報奨金も下賜されました。

 ですが、これで全てが終わったわけではありませんでした。

 魔王ドルゴグラシアは討伐されましたが、魔王軍が滅ぼされたわけではなかったからです。戦勝式典もそこそこに、魔王軍の残党を掃討するべく、勇者一行は再び旅立ちました。

 その後、2年をかけて大陸中を巡り、勇者一行は魔王軍残党の掃討を完了させました。

 全てを終えて王都に帰還した時には、勇者エレナは18歳になっていました。


 イーストン男爵家の令嬢だったエレナは、結婚を考える年齢になっていました。

 ですが、彼女は山のようにもたらされた見合い話を全て断り、大陸南部へ探検旅行に出発しました。

 そして、彼女は大陸南部の山岳地帯で消息を絶ったのです。


 勇者エレナ失踪の報に、ヴェスタート王国の民は大いに悲しみました。

 彼女の戦友であったジョシュアたちは大陸南部へ捜索に向かいましたが、エレナを見つけることはできなかったと国に報告せざるを得ませんでした。

 一方、エレナを疎んじていた貴族たちは、ほっと胸を撫で下ろしました。これで自分たちを脅かすものはいなくなったと思ったからです。

 エレナの仲間であったジョシュアたちは健在でしたが、勇者のように特別な力を持たない彼らであれば、何とでも御しうると考えていたのでしょう。ジョシュア、レイチェル、アリシアの3人が嫌がらせを受けたり、命を狙われることはありませんでした。

 それだけ、貴族たちはジェノヴィアードに――神々に選ばれた「勇者」を畏れていたのです。


 勇者エレナは死亡したと発表され、大々的に葬式が営まれました。

 国王が喪主となって執り行われた式には、貴族だけでなく、平民にも参列が許され、一説によれば10万人もの人々が集まったと言われています。

 しかし、それも遠い記憶になっていきます。

 魔王軍との戦争から立ち直り、社会の復興が進むにつれ、勇者の死も忘れ去られていきました。歴史の中の1ページとして、人々の記憶に留まるのみとなったのです。


 え? ジョシュアはどうなったのかって?

 ジョシュアはレイチェルと結婚しました。勇者の国葬から3年後のことです。

 ジョシュアは魔王討伐の功績から子爵に叙され、ジェナー家という新たな家名を与えられていました。ジョシュアとレイチェルは夫婦で力を合わせて、ジェナー子爵家隆盛の基礎を築いたと言われています。

 二人は王都よりも領地にいることのほうが多く、それはヴェスタート王国の貴族としては珍しい暮らしぶりでした。王都で暮らすことの多い一般的な貴族からは理解し難く思われていましたが、彼らが勇者の仲間として各地を転戦していた過去も知られていたので、変わり者扱いされるだけで、特に何か干渉されるようなこともありませんでした。

 年老いて亡くなるその日まで、ジョシュアとレイチェルは仲睦まじい夫婦で在り続けたということです。

 めでたしめでたし。

 ヴェスタート王国の南部に、かのジェナー子爵の領地はあった。

 領都ローレンシアにある子爵家の屋敷では、ジョシュアとレイチェルが午後のティータイムを楽しんでいた。


「ようやく領地経営も上手く回るようになってきたかな」

「ジョシュの努力が実を結んだわね」

「そうかな? 僕はレイチェルの献身あってのことだと思っているけれど」

「あら、おだてたって何も出ないわよ」

「おだてるだなんて。心からの言葉だよ。エリー、いや、エレナだって、そう思うでしょ?」


 と、ジョシュアは背後に控えていたメイドに話を振った。


「お二人の努力の成果であることは間違いありませんね」


 そう慎ましやかに応えたメイドの正体こそ、この大陸の誰もが死んだと信じている、かつての勇者エレナその人であった。


「どう? メイドの振りをするのは慣れた?」


 レイチェルが身も蓋もないことを口にすると、エレナはかすかに眉をひそめた。


「振りとか仰らないでくださいな、奥様。私は真面目にメイド業を頑張っているつもりなんですよ? それに言葉には気をつけてください。誰が聞いているかもわからないのですから」


 エレナが澄まし顔のまま応じると、ジョシュアは自慢げに胸を張った。


「大丈夫だよ。消音、気配遮断、認識阻害の結界を設定してあるんだから」

「そこまでしますか……」


 エレナのつぶやきに呆れの色が混じる。


「だって、やっぱりエレナはエレナだからさ。たまには、昔みたいに対等に話がしたいじゃないか」

「そうよね。たまにはいいじゃない。私たち3人だけの時くらいは、ね?」


 にこにこと楽しげに笑うジョシュアとレイチェルに、エレナは小さく肩をすくめてみせた。


「……まったく、二人とも変わんないんだから」

「ふふ、そう来なくっちゃ」

「アリシアも会いたがっていたよ。なかなか王都を離れられないって嘆いてたけどさ」

「私たちは、ほら、勇者と一緒に戦った変人夫婦ってことで通っているから、王都での面倒な社交をせずに、こうして領地に引きこもっていられるけど、アリシアは侯爵家に嫁いじゃったからね。なかなか自由がきかないわよねぇ」

「それが貴族と言ってしまえば、それまでなんでしょうけど。それにしたって、ジョシュの策士ぶりには呆れるというか、感心するというか……」

「いやいや、もっと褒めてくれてもいいんだよ?」

「生きている人間を死んだことにしてしまうとは、その智謀には畏れ入るしかありませんね」

「さすがは、私の旦那様でしょ」

「ですね……」


 勇者エレナは死んだのではなかった。

 ジェノヴィアードを返納しても、エレナが神々から与えられた加護までもが消えてなくなるわけではない。勇者としての力は残ったままなのだから、エレナが旅先で命を落とすなど、まず起こり得ないことなのだ。

 けれども、そんなことは他人にはわからない。

 だから、ジョシュアは一計を案じた。

 エレナが旅先で死んだことにして、彼女を疎んじ、あわよくば命を奪おうとすら企てていた貴族たちの目から隠してしまうことにしたのだ。

 もちろん、レイチェルとアリシアも共謀した。

 死んだことになったエレナは辺境で隠遁生活をしていたが、ジョシュアがレイチェルと結婚し、子爵として領地経営に乗り出すと同時に、ジェナー家の使用人として雇い入れられ、ジョシュアとレイチェルの二人と一緒に暮らすようになったのである。

 いまやエレナはジェナー子爵家のメイド長兼秘書官として、ジョシュアたちの領地経営には欠かせない存在となっていた。

 真実を知るのは、元勇者一行の4人だけ。国王さえも知らない極秘事項であった。


「僕らは、世界のために十分に戦ったじゃないか。今更、僕らが秘密を持ったところで、誰にも責める資格なんてありゃしないよ」


 そう言い放ち、ジョシュアはニヤリと微笑む。その如何にも策士めいた不敵な面持ちに、レイチェルとエレナは顔を見合わせて、そして破顔した。


「やっぱりジョシュはそうでなくちゃね!」

「これからも楽しませてくださいよ、旦那様!」


 時に、聖暦1627年。魔王討伐より8年が過ぎ、ヴェスタート王国は今日も平和であった。

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