クロッキー帳は可能性の獣
第三話です。よろしくお願いします。
「ふむふむ、なるほど……」
日が暮れはじめ、辺りがあかね色に染まりだす中、やっぱり俺は絵を描いていた。
今は楽しいから描くだけではなく、色々実験も兼ねてだ。
というのも、先ほどのアオシラカバに突然ついた傷である。
最初は訳が分からず怯えるばかりだったが、実験と称して描いては消すを繰り返し、すごいことが判明した。
なんと、俺が描写した対象を鉛筆についている消しゴムで消すと、対象の消した部分が同じく削れるのだ。
凄いけど……これめちゃくちゃ危ないぞ。
もし俺が町中に転移して、人を描いた際にこの消しゴムを使っていたらと思うとゾッとする。
こういう結果になることが早めに判明してよかった。っていうか、なんだこれ。
この世界ではこういうことが普通に起こりえるのか。本当に異世界っぽい。
あの神は、この世界なら俺が自分を見失わずに絵を描き続けられる的なことを言っていたが……
絵が描けないなら死んだほうがましだと思っていたが、本当に死ぬ可能性が出てくると、どうしていいのか分からなくなる。
だって、今までこんなに死を意識したことなんてなかったしなぁ。死んだら絵を描けないし。
いかん。思考が脱線してしまった。
実験だ実験。結果をちょっとまとめておくか。
まず、傷についてだ。
対象を描くと浮かび上がる情報、長いから以後鑑定と呼ぶ、と同じように、実際の対象に絵を近づけるほど、消しゴムで消した跡は実際の傷に近づくことが判った。
つまり、描けば描くほど対象に与える損傷を操れるわけだ。これは結構便利だ。
実験の結果、3段階に描写のレベルを分けてみることにした。
①輪郭線のみ
輪郭線だけ描いても、消すことで損傷を与えられる。
試しに違うアオシラカバで試してみると、輪郭線のみの場合、表面の樹皮が描いたものを消した部分にそってごっそり無くなっていた。
②陰影をつけた場合
これは2パターン試してみた。輪郭線をとり陰影をつけるパターンと、陰影のみのパターンだ。
輪郭線+陰影で描写したアオシラカバを消すと、樹皮よりももう少し深い部分まで抉れていた。
また陰影のみの場合は、輪郭線で樹皮が消失していたのとは違い、消した部分がまるで巨人が思いきり殴った跡のように凹んでいた。
こえーよ。どんな物理法則だよ。
③輪郭線に陰影を付け、細部を描き込んだ場合
これは、ようは最初にアオシラカバを傷つけてしまったときのものだ。
大体俺の描写技術で一時間ほど描き込むと、対象に消しゴムで消した跡とほぼ同じ傷をつけることができるらしい。
ここまで考えて思う。
これはヤバすぎる。今すぐにでも暗殺者になれるわ。
いや、まだ動物で実験してないから何とも言えないか。……実験する気は起きないが。
ただ、これが大型肉食獣に襲われた場合に、自衛手段となりえるのは明白だ。
おそらく、陰影で描写したものを消しただけで怯ませることはできる。
陰影だけなら数十秒で描けるから、うまく時間が稼げれば逃げ切れるだろう。
逃げ切れればいいなぁ……
と、ここまで考えて、日がほぼ沈みかけているのに気付く。
あまり寒さを感じないのは有難いが、何しろ明かりがない。
大学時代のあの震災の日、停電で夜に真っ暗だったことを思い出す。
あの当時は懐中電灯はもちろん、携帯電話もあり、手元を照らしながららくがきができた。
ただ今回は、おそらく本当に、何もできないだろう。
今のうちにもう少し描いておこう。時間もないし、輪郭線と陰影で描いているアオシラカバに加筆するか。
消した部分を鉛筆で描き加える。描き加えていると、被写体である本物のアオシラカバに違和感を覚えた。
……傷治ってね?
ぜひとも確認したいが、暗さは増すばかりで、どこからか獣っぽい鳴き声も聞こえてくる。
気になって眠れそうにないな、と思いながら木のうろに引っ込んでいると、いつの間にかがっつり眠っていた。
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翌朝、湖畔には霧が立ち込めていた。
さすがに視界の悪い中危険を冒せない。霧が晴れるのを待ちながら朝食の果物を食べる。
それにしても幻想的な風景だ。うっすらと明るくなってきた空を湖面が映しているが、霧のおかげでコントラストが柔らかくなり、景色として非常に魅力的。
まだ薄暗い森の木々もいい味を出している。
ここにキャンバスと、せめて絵の具があれば。はぁ……
自衛手段をきちんと確立したら、ここに戻ってきたいな。
そうだな。過ぎたことを考えるより、とりあえずもっといい絵を描くことを考えよう。
日本にいれば様々な情報媒体のおかげで題材には全く困らなかったが、生の空気を吸いながら対象と向き合うのもやはりいいものだ。
うん。こんな綺麗な景色に出会えたんだから、この世界も悪くはない。
と思うことにした。
死ぬかもしれないけど。ぐああああ……
悶々としていると霧も大分晴れた。
早速周りに注意しながら昨夜のアオシラカバをチェックだ。
昨日は確かに傷ついていた木の表面だが、今はその痕跡は判らない。
実験してみるか。
もう一度アオシラカバを10分程かけて描写し、消しゴムで一部分を消す。
消した部分が傷つく。うん。ここまでは昨日のとおりだ。
そして、傷ついた部分を加筆していく。注意深く観察していると、やはり加筆した部分に合わせて傷が治っていった。
おいおいすごいな!
傷つけるのも直すのも思い通りとか神かよ!
あん神様はなんちゅーもんをくれとんね……こんなん世界にあったらいけんやろーも……
思いがけずクロッキー帳のものすごい機能を発見してしまった。
あの神様はあえてこの機能は説明しなかったのかな。いや、できなかったのか。
他の神様に監視されてるって言ってたもんな。
とりあえず、木であるなら、ある程度傷つけても自分でもとに戻せることが判った。
じゃあ動物なら?
やりたくないけど、実験するか……
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あれからかれこれ数十分。水辺でばちゃばちゃやっている。
魚だ。魚を捕まえたいのだ。
魚なら自分も捌くし、動物の中でも比較的食べ物としてみられるので、魚で実験することにした。
すまん魚よ。ちゃんと食べるから許してくれ……
浅瀬にも魚影が見えたため、これはいけると頑張ってみたが、どうやら無理臭い。
手づかみは無理だ。ちょっと自分の反射神経を過信しすぎた。
ここは人間の武器、知恵で勝負に切り換える。
木の枝をクロッキーして消しゴムで消し、切り飛ばす。それを何本か用意。
頑丈そうな蔦を見つけ、ロープ替わりにする。
木の枝を葉ごと蔦でまとめ、なるべく隙間がないバリケードをいくつか作る。
それに重石を括り付け、やや沖から浅瀬に向かってぐるりと円を描くように設置した。
一部分だけ隙間を開けておくのを忘れない。
ここまでで日が暮れだす。一日作業だ。もし便利クロッキー帳が無かったら、木の枝を切り出すだけで一日終わっていただろう。
魚を捕るって大変だ。
本格的に暗くなってきたので、残り僅かな明かりを頼りに風景をスケッチしながら床に就いた。
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翌朝仕掛けた囲いを覗くと、魚が入っていた。
「おっし!」
思わずガッツポーズ。急いで隙間を埋めるバリケードをもって水をかき分け囲いの中へ。
そこからが長かった。
囲いの中に範囲を限定しても、結局は手づかみ。魚との戦いなわけだ。
少しづつ囲いを狭めたり、息が切れるまで追いかけまわしたりすること数時間。
ようやく体表が鮮やかな赤で彩られた鯉ほどの大きさの魚を捕まえた。
「だああああああああっ!」
勝鬨を上げる!例の肉食獣のことなど完全に頭から吹っ飛んでいた。
嬉しさに我を忘れてしまった。急いでキョロキョロする。
幸いにも、動物が寄ってくる気配はなく、あらかじめ作っておいた石で囲んだ生け簀に魚を放した。
二日がかりの大捕獲劇の成果をうっとりと眺める俺。なんて愛おしい魚だろう。
お前の名前はあかっぱらだ。腹が赤いから。
ここまでの過程で、あかっぱらに愛着を持ってしまった。
……もう傷つけることなんてできない……
その日はあかっぱらとの戦いを思い起こしながら、新たに育まれた一方的な友情を噛み締めながら眠りについた。
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朝が来て、やや肌寒い中、俺は冷静になっていた。
そろそろ村に行きたい。
魚じゃない友達を作りたい。というか、もっと安心して絵を描きたい。
というわけで、あかっぱらを観察しながら描く。
大体輪郭と陰影まで描き終え、ほんの少しだけ体表部分を消してみた。
あかっぱらすまん!
と、予想通り、あかっぱらの絵を消した部分に傷ができる。
痛みに驚いて暴れだすあかっぱら。
急いで加筆する。心は申し訳なさでいっぱいだ。
どうやらあかっぱらの傷は消えた。ただ、出血した名残が水面を漂っている。
心なしか元気もないみたいだ。
「……」
実験は成功だ。木では心は大して動かなかったのに、魚だと露骨にこちらが傷ついてしまう。
人間のエゴを感じる……
気持ちを切り替えよう。
クロッキー帳は動物にも有効なことが判った。万が一何かに襲われたら活用させてもらおう。
でもなるべく使いたくない。こちらのダメージも半端ない。
伊達に超平和な日本で20数年も暮らしてないのだ。
食べるわけでもないのにいたずらに傷つけることは二度としないと誓いながら、あかっぱらを逃がしてやった。
……そこで、ふとあることを思い立つ。
近くの岩場へ行き、そこから見える魚影をクロッキー。今回は本当に簡単に陰影を付けただけだ。
10秒ほどの描画に留めておく。
そして消しゴムで一部を消す。
浮かんでくる魚。……加筆して消した部分を補うと、元気に泳いでいった。
……
……
頑張って囲い作る必要なかったな、これ。
気付くのはいつだって何かを失い傷ついたあとなんだ。
全部あの神のせいだわ。
読んでいただきありがとうございました。