フローベールとドストエフスキーの描写の比較
言葉の面から小説というものを考えみたい。
小説というのは言葉でできている。言葉のみでできている。これは当たり前の事だが、本当に当たり前の事となっているのか疑わしい。僕らは「小説」という言葉を聞くと、すぐにストーリーや登場人物の事を思い浮かべる。しかしそうした事は当然映像作品でもできるし、もしかしたら映像作品の方がよりうまく表現できるかもしれない。
小説が言葉でできている、とは小説というものの根本的な構造にどう作用するのだろうか。僕は既存の小説家がすぐに「お話を作る人」に落ちていくのを見てきたが、彼らに大して不信感を持っているのは、彼らが言語の抵抗を忘れる事で、彼らの「お話」は成立しているのではないかという気がしてならないからだ。
小説というのは言葉でできている、という場合、言葉はどのように使われているのだろうか。色々考えられるが、大論文を書く気はないのでイメージしている事だけ適当に言ってみる。例えば、フローベールのような描写
「シャルルは患者をみに二階へ上った。見ると病人はベッドに横たわって、ふとんをすっかりかぶって汗をかき、ナイト・キャップをずっと遠くへ投げ飛ばしていた。五十かがらみのでっぷりした小男で、顔は白く眼は青く、額ははげあがり耳輪をはめていた。」
こうしてこの文章だけ見ていると、この手の文体は今の作家も普通に使っている事がわかる。フローベールの描写というのは、、フローベール自身が安定した土台の上に立ち、神の視線に立って、物事を映し出す事ができるという前提に立っているように見える。ドストエフスキーとくらべてみよう。
「そう言うと、彼女は疲れきったような、けだるげな眼差しをじっと彼に注いだ。シャートフは部屋の反対、五歩ばかり離れたところに、彼女と向い合って立ち、おずおずとながら、何か生まれ変わりでもしたように、これまでについぞない輝きを顔に浮かべて、彼女の言葉に耳を傾けていた」
以上、あげた文章だけで二人を比較するのは無理な話だが、僕自身の意見を提出するために、恣意的に引用したと、この記事を読んでいる人は考えていただきたい。元々、文学研究的に公平に比較するつもりはない。
さて、こうして見てみると、両者はだいぶ違うように思う。ドストエフスキーとフローベールの文学、どちらが世界に影響を与えたかと言うと、おそらくはドストエフスキーの方が読まれもし、影響も与えただろう。しかし、今の作家が、どちらの文体を採用するかと言うと、フローベール的文体の方が圧倒的に楽だろう。もちろん、フローベールのような精度と高さには到達できないにしても、の話だ。
フローベールの方法は僕にはそもそも、知識人というものと大衆が分離しているからこそ可能な視線の行使ではないかと思う。描くべき対象と、描かれる対象とが整然と区別されていて、それは知識人と大衆との分離に対応している。フローベールが書斎から世界を眺めた時、世界は明瞭な形で見えた。フローベールの文体の背後には、確固として揺るがないフローベールの視点がある。これは透明で直線的な光線のように世界に光を当てる。この時、人間の精神は事物の中に現れている。ここでも、明白な哲学があるように見える。つまり、個人の精神性は外側に肉体として現れるわけだから、肉体の描写の精細を強めてやれば、自然とその内側も描写される。…もっとも、僕はフローベールの事をよくしらないので、勘違いしている可能性も高い。
一方、ドストエフスキーの視線は歪んでいるように見える。ドストエフスキーが文学の世界において無類の光芒を放っているのは、ドストエフスキーが彼の視線自体を一から作り上げなければならなかったという事情に原因があるように思える。上記の「悪霊」の描写では、その描写によって、シャートフの女、マリイの魂を描いている。ドストエフスキーの目にはほとんどマリイの顔形は映っておらず、マリイの魂しか映っていない。
「悪霊」のマリイというキャラクターは、ドストエフスキーの筆致を見る限り、平凡なキャラクターだ。しかし、マリイは決して平凡に見えない。マリイはスタヴローギンに騙されて、スタヴローギンの子を身ごもっている。マリイは出産直前に元の恋人シャートフのところに戻ってきて、最終的にはシャートフと和解する。このプロットだけ見ると、それはただそれだけの事だが、マリイがシャートフと和解する前の、マリイのシャートフへの嫌悪、憎悪は明らかにドストエフスキーが誇張して、彼女の魂を徹底的に描き出す為に彼が作り上げた独特の方法である。マリイはもはやシャートフを愛している事が明確であるからこそ、シャートフから離れた自分を許せず、だからこそ彼への憎悪を浴びせかけているのかもしれない。あるいはあまりに優しく、平凡で、柔和にすぎるシャートフに腹を立てているのかもしれない。いずれにせよ、憎悪と愛は紙一重であって、この矛盾をドストエフスキーの登場人物は生き抜いてみせる。
この事はカフカなどと比較可能だろう。カフカの「変身」では、カフカ自身の憎悪と愛情のジレンマは、主人公自身が虫になり、なおかつ人間であるという矛盾として表出される事になる。カフカの小説が幻想的であるにも関わらず、現実的な印象を与えるのはそれがカフカの魂と完全に一致しているからだ。ただ、カフカはこのジレンマの処理を、最終的には、虫=人間、の主人公が排除されるという風に描いている。カフカ自身が人生上、このジレンマを処理できなかったように、作品のうえでも未解決ままに終わってしまっている。(終わらざるを得なかった) そういう印象を受ける。
さて、この時、ドストエフスキーやカフカのラインは、フローベールのようなリアリズムとは違うかもしれない。しかし、それはそもそも、僕達がリアリズムというものを狭義に設定している故に生まれてくる誤解に過ぎないと僕には思われる。マリイやシャートフの姿をフローベールが描けば、確かに現実に生きている平凡な人間となっただろう。では、ドストエフスキーはそれを誇張して書いたのだろうか。例えば、普通の素人には見えないモノが、その道の玄人には見える、という事がある。地層に詳しい人が、崖の断層を見るとそこに様々な情報を読み取るが、素人にはただの断層としか見えないーーという事はきっとあるだろう。そのような場合、地層に詳しい人は情報を「誇張した」とは言わない。彼は単に、正確に事実を把握したに過ぎない。このように、主体の内部の豊富さにしたがって、外界の豊かさも決定されてくる事になる。
さて、最初は言葉の面から文学を考えると言ったにも関わらず、結果的には全然違うところに来てしまった。言葉の面から考えるのは、次の機会としたい。それで、とにかくーー小説というものを簡単に振り返ってこの論は終わりにしたい。
フローベールの視点というのは、おそらく、他の作家にも真似やすいものであると思う。その視点を採用しつつ、現実を描き、そこに過不足のないキャラクターや物語を盛り込むという事はできる事だ。今の小説の主流はそれではないかと思っている。これを直木賞的に、ストーリー重視的に持って行っても、卑小な個人生活を描いていく芥川賞的に持って行っても、事態はさほど変わらない。
しかし、それはそもそも、描く対象と描く作家とが明瞭に分離している前提の元に成される技なのではないか。現代においてこうした、写実的方法によって世界を描いても、世界全域を描いているという感覚を受けないのは、現代社会において、個人というものが生活を営む静的な存在ではなくなかったから、と僕は見ている。生活している人と、生活を見る視線とはかつてのように明瞭に分離できなくなった。現在では、生活者は同時に、批評家でもあり、作家でもある。知識人でもあり大衆でもある。
ドストエフスキーの方法は、人間を誇張して描いているように見えるが、彼はむしろ、人間の魂を写実している、と考える事ができる。彼の写実は、彼の視線が外面を突き破り、内面を見てしまう。マリイがシャートフに大して嫌悪を示すのは、彼女の愛をより正確に描写する為に必要な段階だった。また、ドストエフスキーの登場人物はそれぞれがそれぞれの定義に大して食って掛かる。マリイの嫌悪もそうだが、他人が自分に大して一義的に当てはめた定義に反抗しようとする。その極端な例がラスコーリニコフであり、イワンであり、スタヴローギンだ。これらの人物は他人の定義に反抗しようとし、ラスコーリニコフはその挙句に殺人までする。彼らの天邪鬼は例えば、フローベールの小説の登場人物が、フローベールがそれぞれに当てはめる定義に大して、全力で反抗する様のようである。もちろんそうなると、フローベールの小説、小説観は成り立たなくなる。しかしドストエフスキーの小説は正に、「そうした世界」を描いたのだ。
フローベールとドストエフスキーの比較になってしまったが、この論はここで終わる事にしようと思う。文学を言語の面から考えるという事はまた次にやりたいと思う。自分の頭にはバフチンや吉本の言語論があって、それを僕の文学観とつなげてみたい。