嘘つきレジェン
- 1 -
レジェンの嘘は他愛ない。
誰が聞いても嘘だから、誰も咎めない。本人もへらへらしている。
「リンゴの苗に、肥料の代わりに毎日小麦粉と砂糖をやっていたらアップルパイが生ったんだ」……イナばあちゃんの酒場にいつも居座って、そんな話を飽きもせずしゃべっている。
こんな奴が町の若き優秀なる保安官殿だってんだから、まったく平和この上ない! まだにきび跡の残るつらがまえで(それでもあたしよか年上だ)、そんなことばかり言っているから、町の人にはガキ大将に毛が生えた程度の扱いしか受けていないけれども。
それでも、レジェンの他愛ない嘘が、あたしは好きだった。あたしに限らず、町中のみんなの、ま、ちょっとした娯楽というやつだ。保安官事務所とイナの酒場、隣同士の二軒だけが、荒野の真ん中のさびれたこの町で、数少ないにぎわいの場になっている。
イナばあちゃんがすかさず、「こりゃ驚いた、オーブンはどこに生ってたんだい?」と混ぜっ返せば、酒場には笑いが満ち、杯も重なろうというものだ。
- 2 -
ここは、かつて魔法が栄えた時代に、魔石の採掘で潤った町だ。
魔法に必要なエネルギーを強く多く秘める石を、あたしたち魔法使いは特に〈魔石〉と呼んでいる。多くは、薄青く透き通る、水晶に似た物性の鉱物として産出される。
魔法を行使し、秘めたエネルギーを使い切ると、魔石は砂になって消える。魔法を使う者は次から次に魔石を買い足していかなければならないから需要は常にあり、魔法が栄えれば栄えるほどにその値段は高騰した。魔石の採掘は、いちばん安定してしかも儲かる仕事、のはずだった。
しかし、今はもうさっぱり採れないのだ。この町だけの話ではない。世界中どこへ行っても魔石の枯渇が進み、そのため魔法を使う人はめっきり減ってしまった。一方で科学や銃器が急速に進歩し、石炭や硝石が魔石に取って替わり、時代の主役の交代を告げつつあった。
採掘場が閉じたのは、十年前のことになる。たくさんいた山師や魔法使いはことごとく町を去り、都会や炭山へと移り住んだ。今はもう、やせて乾いた岩と砂ばかりの土地に、農家がいくらかあるだけの集落となって、目抜き通りに人影はほとんどない。
あたしは、寂れゆく歴史を幼い目に映しながら育って、それでも魔法が好きだった。この町に残り続ける唯一の魔女……それが、十年経ってそれなりに成長したクオレという小娘、つまりあたしの肩書きになった。
採掘場の跡地には、売り物にはならなくても、魔石の原石が探せばまだ残っている。鍋釜を直したり、医者のまねごとをしたり、町からいなくなった職業の代わりを魔法でやりくりする何でも屋をして、それでいくばくかお金をもらって生計を立てていた。
実のところ、仕事はわずかだった。魔法なんかに頼らなくたって人の暮らしはなんとかなるのだ。生きていけるのは町のみんなのお情けだと自覚していた。そこから逃れる方法は知らなかったし、探す気もなかった。
ありあまる暇な時間を、あたしは魔法の研究にあてた。もちろん、拾える魔石はクズばかりで、研究といったってたいした内容ではなかったけれど、好きな魔法にいつも触れていられるその生活にあたしは満足していた。……満足なフリを、していた。
- 3 -
自分の家が町はずれで、誰彼と訪ねてくるには不便なので、イナの許しを得て、店の隅の薄っ暗がりの丸テーブルを、指定席にさせてもらっている。町の人もみなそれを承知していて、魔法が必要になれば、あたしの家でなくイナの店にやってくる。
卓は〈クオレの研究室〉と呼ばれている。何しろそうそうお呼びはかからなくて、あたしが一日じゅう居座って研究に没頭しているからだ。黒いローブを着た女が、メガネを光らせながら日がな怪しげな呪文を唱えている、という図が酒場にあるのはどうかと思うが、イナは寛容だ。
その日はとりわけ暑かった。この町の天気といえば、そよとも風の吹かないかんかん照りか、道が泥河に変わるような大雨のどちらかで、その日はかんかん照りの方だった。そのくせ、空気には粘り気があって、ひどく蒸した。イナがぱたぱたやっている扇子だけが、町の中の空気を動かしているようだった。
あたしは、魔石をいくばくかと文献・実験材料をごちゃごちゃと研究室に持ち込んで、実験にいそしんでいた。とはいえ部屋の中にいてもうだるほどの暑さだったので、午前中の大半は、少しでも首筋に風が通るように髪を三つに編むのと、気の抜けたソーダをなめるのに費やされた。少しだけやった実験も、汗でずり落ちてくるメガネの位置を直しながらの作業だった。
昼前になって、店の扉の鈴がからから鳴った。レジェンだ。つば広の帽子と銃を差していないガンベルトを壁にひっかけ、イナに冷えたビールを注文して、大あくびをしながら研究室にやってきた。
「ゥオはよゥ、クオレ」
ひしゃげた小熊みたいな声で挨拶のようなことをして、レジェンはあたしの差し向かいの椅子を大きな音を立てながら引き、どっかと座り込んだ。座ったとたんに、また大あくびをする。ベストにしがみついている保安官バッジは、相変わらず所在なさげだ。
「もう昼よ」
「おてんとさんの方が早起きすぎんだよ……こないだ『早起きは三文の得』って言葉を教えてやったら毎日あの調子だ、たまんねぇよ」
いつもの調子で嘘を飛ばしてくるレジェンのもとへ、イナばあちゃんが盆にビールを乗せて持ってきた。
「おやおや、おてんとさんが三文得してどうするんだい?」
「こないだポーカーで身ぐるみはいでやったから、小銭でも大金なのさ」
「またイカサマして! 悪い奴だよ、保安官のくせに賭け事なんてさ!」
その保安官に起き抜けに酒を飲ますのはかまわないんだろうか。レジェンったら、真昼だってのにうまそうにビールを飲み、泡のひげなどつけている。もっとも、レジェンを始めとする町のうわばみどものために、魔法式の冷蔵庫を作ってあげたのはあたしだから、同罪かもしれない。
- 4 -
ほろ酔い加減になってきた頃、レジェンはポケットをごそごそやりだした。
「あのさぁ、クオレ。これ見てほしいんだけど」
レジェンが取り出したのは、手のひらに余るくらいの大きさの、丸い魔石だった。丸いも何も、完全な球だった。磨き上げられて青く透き通り、しかし内部は光が乱反射するようになっていて、卓上のランプの輝きを受けて、危うげな瑠璃色の光を放っていた。ため息が出るくらい美しく、艶めいた品で、その中に引き込まれるかのような錯覚があった。
むろんこんなきちんと仕上げられた石が、自然に掘り出されるわけがない。……目を丸くしてためつすがめつする一方で、あたしはこの石をどこかで見たような気がした。
「魔石っぽいんだけど、これ、なんだかわかる?」レジェンが言った。
「さぁ……実用じゃなくて、工芸品じゃないかしら……こんなりっぱな魔石、どこで手に入れたの」
「事務所のさぁ、落とし物入れにいつの間にか入ってたんだよ。キティかラディが、おれの巡邏中に持ってきて放り込んでったんだと思うけど、よくわかんねーの」
「見るからに魔石よ……? キティもラディもまだ八つだけど、魔石はあたしんとこに持ってくるって分別くらい、ついてるわよ」
「だよな。……だからよくわかんねーんだ。誰が置いてったんだか。こんなきれーなヤツをさ」
言いながらレジェンは、ビールの残りをぐいと飲み干し、空になったジョッキとその石とで、ひょいひょいとジャグリングを始めた。……大きさもかたちも違うものでジャグリングするのはとても難しい。レジェンはあたしと違って、口がうまいだけじゃなくってめっぽう器用だ。自分の手先がとびきりの不器用なもので、ときおり、ねたましくなる。
レジェンの手の中でくるくる回る青い石。いくつにも増えたような錯覚を感じながら、あたしはそれを見つめた。さてはてここな青い石、確かにどこかで見たことがあるのだ、どこだろう……。
レジェンはジャグリングをやめた。左手のジョッキを、カウンターにつきだし「ばあちゃん、もう一杯」、右手に握った石をあたしに向かってつきだし「それで、たとえばさぁ」今度は人差し指の腹に立てて独楽のように回してみせて、それから言った。
「こいつは実は、おれの言う嘘を何でもかんでも本当にしちまう、不思議な不思議な魔法の石だ! な~んてことはないもんかね?」
聞いた瞬間、背筋がびくん! と伸び上がった。思い出した。あたしがそれを見た場所、それは、魔法事典の中の挿し絵だ。
「レジェン、今、嘘を言ったつもり……?」
「ん? どうして?」
あたしは持ち込んだ文献をひっくり返してあさり、一冊の魔法事典をめくってめくって、ある項目に指を突きつけた。
「それは、あなたが言ったとおりのものよ!」
- 5 -
事典のいわく―――。
「しんじつ-の-いし【真実の石】自ら意志を持ち魔力を行使する貴魔石の一(→貴魔石の項参照)。
歴史上に現れたのは新紀一二〇〇年頃であるとされる。触れた者が口にした言葉に反応し、その言葉に願望あるいは欲望を読み取ったとき、その願望・欲望を満たさんとして魔力を行使する貴魔石である。秘められた魔力はほぼ無限であり、いかなる虚言妄言も真実となす。ただし、発話者の持つ能力や立場からあまりにかけ離れた望み、すなわち分不相応な望みを口にした場合は真実にならない。そればかりか、石は直ちにその者に相応の破滅を与え、自らは空間を転移して姿を消す。次に現れる場所、時間はまったく不定である。
願いをいかようにも叶えてくれる能力ゆえに、野心を持つ者の探索を常に受けていることでも知られる。所有した者は比較的多く、一説に千人を超えるとされるが、破滅という結末のため記録は少なく、実態の多くは不明である。
手にした者でもっとも著名な人物は、新紀一五〇〇年頃のアプリアフスの狂王ブカサド三世(→アプリアフス王国の項参照)であろう。在位二五年のうち、最後の五年間に彼が行った名高い『狂行軍』遠征により、アプリアフスの領土は倍増した。長年狂気に駆られて行われた侵略だったといわれてきたが、現在では真実の石を最も有効に利用した賢明な例であるという説が有力である。
しかしながら、権勢揺るぎないものとなった後の理性の喪失については多くの史書が記している。残忍な刑や催しを好んで行いこれが狂王の名の由来となった。侍らせた女に己が力を見せつけんと、月を掌に乗せることを真実の石に望んだが、折しも反乱が勃発、攻城砲による居城の崩落に巻き込まれて即死したと伝えられる(ガノシア作『狂王伝』に詳しい→ガノシアの項参照)。」
- 6 -
ヒュウ、とレジェンは口笛を鳴らした。
「儲ぉけ!」
「そうじゃないでしょう?!」
あたしは手を伸ばして、レジェンの指先から真実の石を奪い取ろうとした。事典には小難しく書かれているけど、つまり真実の石には、人の願いをなんでも叶える力があるのだ。しかし欲に駆られた行き過ぎた願いに対しては、不幸な結末で報いる───事典に載っている他にも、自分こそはうまく扱えると豪語しながら破滅へ堕ちていった悲劇の伝説が、いくつもまことしやかに伝わっている。どうしてこの町に真実の石が現れたのか、それはわからないけれど、あたしたちの手に負えるものじゃない。レジェンが持っていたらろくなことにならない、直感でそう思った。
けれどレジェンってば知ったこっちゃない。きっと「いかなる虚言妄言も真実となす」あたりまでしか読んでないんだ。彼の瞳はすでに、新しいオモチャを手に入れた喜びに、きらきら夢色に輝いていた。この男にかかっては、注意や警告とはのっぴきならない危険な状態になってから思い出すもので、重要なのは石の〈遊び方〉だけであり、そしてそれを一瞬で悟ってしまうのが悪ガキの悪ガキたるゆえんである!
レジェンは石を回すのをやめ、ひっつかんで立ち上がると、こう言い放った。
「あれ? クオレの靴は鉛でできてるんじゃなかったっけ」
それはまぎれもなく真実の石だった―――レジェンの言葉に反応して、石はきらりと青い輝きを放ってきらめいた、とたんにあたしの靴が急に重くなった! レジェンを追いかけようとして立ち上がりかけて、なのに足を前に出せなくってつんのめる。テーブルにしたたか顔をぶっつけてしまった。
「レジェンっ!」
「ごめんごめん、でも、なぁるほど、よくできてるなぁ。おもしろいおもしろい」
「おもしろくないっ!」
あたしが顔を上げてそう叫んだときには、レジェンはもう壁掛けから帽子とガンベルトをひっぺがしていた。彼はもう、新しいオモチャで遊びたくって試したくって、見境がつかない状態になっていた。何しろビールのお代わりを頼んだことを忘れてしまっているくらいなのだ。
「そんな怖い顔すんなって。せっかくだからさ、ちょっと使わせてくれよ―――」
「破滅が来ちゃうのよ、ホントなのよ!」
「だーいじょーぶ、心配すんなって!」
真実の石をまた指の上で回しながら、レジェンが扉を開けて店を飛び出していこうとした、そのときだ。
- 7 -
レジェンが扉のノブに手を掛けるより速く、からからと鈴が鳴って、逆に外側から扉が開いた。扉の外には、大勢の男たちがいた。ほとんど全員が武装している―――明らかに招かれざるよそもので、ここに食事をしに来たっていう風体じゃなかった。
先頭で入ってきた、立派な革鎧を身につけた、背の高い厳つい顔立ちの青年が、大将格らしかった。鼻の下のひげを撫で、唇の端に薄笑いを貼り付けたまま、店の中をぐるりと見回した。田舎の古びたはやらぬ酒場が、たいそうな美術品にでも見えているかのようだった。
ぐるり回った視線は、小柄なレジェンのところで止まった。レジェンはすばやく、気づかれぬように真実の石を背後へ隠した。青年の薄笑いが解け、一瞬ふたりはにらみ合ったようだったが、青年はふん、とひとつ鼻を鳴らしただけだった。気にも介さず、店の中へさらに一歩踏み込み、カウンターの中のイナに声をかけた。「少々ものを訊ね―――」
レジェンは、すこぶる渋い顔で眉をひそめ、視線だけ青年を追った―――次の瞬間、ぱっと明るい顔になって、指をぱちんと鳴らした。青年の声を遮り、イナに叫ぶ。
「イナ! 団体客だぜ! とびきり上等の食事がしたいってさ!」真実の石がきらりきらめいた。
するとどうだ―――大将格の男は話すのをやめてしまい、男たちは店にどやどやと入ってきて、そのままどやどやと各自テーブルについていくではないか。すかさずイナが今日のメニューを渡すと、男たちはてんでに注文を始めた。
……あたしがあぜんと見ているうちに、もちろんレジェンは通りへと消え―――る前に、ひょいと店の中に顔だけ戻して、「ごめんごめん、クオレの靴やっぱり革だよ。じゃな!」あたしはやっと動けるようになった。でもあたしがそれを確かめたときには、やっぱりレジェンはもういなかった。
「クオレ! 手伝っとくれ!」
ばあちゃんの声にあたしは我に返った。確かにこの人数ではばあちゃんひとりでは手が足りない。そもそも、昼間のこの店でこんなに人を見るのは初めてだ。あたしはローブを脱いで、エプロンをつけて、慣れない手つきで即席のウェイトレスにならざるをえず、―――下卑た兵のひとりに尻を触られたりもした! みんなみんな、レジェンのせいだ!
マーディアス閣下と呼ばれている大将格の青年、兵が八人……あと、マーディアスの参謀的存在らしい、トウラという名の老人がひとりいて、半分かた歯の抜けた口でパスタをすすりこんでいた。彼だけは武装していない。杖をつき深緑のローブをまとう姿は、見るからに魔法使いだ。
マーディアスの身なりはめっぽういい。気取ったひげといい整った髪型といい、軍人の人形を見ているみたいだ。しかも、このほとんど砂漠のような土地で、あまり砂で汚れていない。誰かに砂を払わせているのか、魔法で守られているのか、ともかく汚れるのを好まないようだった。
胸を鮮やかに彩る緋色の革鎧は、なかなか凝った作りだけれど、最新式の銃にかかっては紙同然であると、ひとめで見て取れた。八人の部下も、五人ほどは銃を構えているがどれも旧式のもので、残りは段平をぶら下げている―――つまるところ、銃に対応できない古くさい家柄のお貴族様の団体と見受けられた。
そして、都会に生きる魔法使いは、そういう貴族の屋敷に寄宿していることがままある。トウラはそのひとりなのだろう。
- 8 -
やがて男たちは食事を終えた。満腹して満足そうな顔が並んだ。我に返ったのは、彼らが客でなくなった瞬間―――すなわち、イナにすべての勘定を支払った後だった。
受け取ったお釣りのコインを握りしめて、マーディアスがつぶやいた。
「……なにをしているのだ、我々は」
「これはしたり」トウラが言った。「どうやら魔法にかどわかされていたようでございます、閣下」
「なんと、とすると……」
「十人もの人間を操る力は並みではない。ここらにそれほどの魔力を操る者がおるとも思えませぬ」
トウラが顎に手を当てて深く考えながら言った。
「目星をつけましたとおり、この土地に真実の石があるとみて間違いないでしょう。あるいは、先ほどすれ違った若者が持っていたのやもしれませぬ」
「そうか……でかしたぞ、トウラ。それがわかったなら、この程度の出費は惜しくはないな。はっはっは」
マーディアスは頬をゆるめた。
……やっぱり、あれが目的なのか。真実の石を手に入れて、何か願いを叶えてもらうつもりなのだ。どんな願いかは知らないけれど、こんな廃墟寸前の町まで何人も引き連れてくるくらいだから、靴を鉛に変えるだけではすまないだろう。マーディアスの頬のゆるめ方は、子供がバッタの羽をもぎ取るときのそれと同じで、あたしは少しずつ不安になってきていた。レジェンが眉をひそめたのも、よそものというだけでなく、同じものを感じ取ったからに違いなかった。
隣町から来る行商人に、噂を聞いたことがある―――魔法使いの一族や、あるいは魔石の売買に携わる貴族が、同盟を組んで真実の石探索をおこなっているそうな。目的はすなわち、凋落著しい魔法文化の復興。貴魔石の起こす奇跡の能力を神のように祭り上げて、魔法から離れて科学へ向かう人心を取り戻そうとしているのだ。閉山を見届けてきたあたしには、そんな未来は想像だにできないけれど、どうやら彼らはそれを信ずる一派のようだ。
とと、そんなことを考えてる場合じゃない。
トウラの視線が、さっきから一点を見つめて動かない。見ている場所は、研究室だ。……気づかれて、いる。
もちろん研究室には、魔法のための道具が雑然と出しっぱなしにしてある。魔法事典も、真実の石のページを開いたままだ。
トウラは、マーディアスにそっと耳打ちして、自分はさっさと店を出た。外で煙草を吸い始めたようだ。
一方それを聞いたマーディアスは、あたしに一歩二歩と詰め寄ってきた。
「なるほど、貴様はウェイトレスなどではなく、魔法使いというわけだな?」
何を訊かれるかはあらかた読めていたのに、いざ迫られると脚が震えてきた。震えながら後ずさった。ぎくりと凍りついた表情は、ごまかしようもなかった。「あは、は、は、そうみたいです……」
マーディアスはさらに迫ってきた。あたしの背中が、とんと店の壁についた。彼はあたしの頭上に手をつき、覆い被さるようにして、言った。
「私は真実の石を捜しているのだ」眼光鋭かった。「おまえが、持っているのか?」
あたしは体中をこわばらせながら、首だけをぶるぶると横に振った。
「私は真実の石を手に入れねばならん、手に入れるまでは都に帰らぬ誓いを立てた。手がかりを求めて世界中を旅し、ついにこの辺境に魔力の動きありと調べをつけて駆けつけたのだ。……嘘をつくとためにならんぞ。ほんとうに貴様が持ってはおらんのだな?」
あたしは体中をこわばらせながら、首だけをこくりこくりと縦に振った。
「では、さっきの若者が真実の石を持っていたのか? 魔法使いが何も知らんとは言わせぬぞ」
あたしは体をこわばらせた。今度は首すら、動かなかった。
彼の頭の中には、真実の石のことしかないらしかった。長きに渡り探し求めたあらゆる願いを聞き届ける霊験の石を、いよいよ見つけたという歪んだ期待感が、表情を歪ませ、鬼気迫るものにしていた。彼は破滅など怖れていなかった。いや、こんなにも真実の石を信じて探し続けた自分に、破滅などもたらされるわけがないと思っているらしかった。……その表情のはしばしを見るにつけ、怖くてたまらなかった。
「さぁ言え、真実の石は、どこだ?!」
「さ、さ、さぁ、どこでしょうか……」
真実の石なんて知らないとはっきり言えればそれが早いのに、態度がそう言ってないんだって、自分でもよくわかる。こういうとき、レジェンなら、顔色ひとつ変えずに「あ、いま庭に蒔いてきた」とか「あれイケるんだよな、マヨネーズつけると」とか言ってのけるに違いないのだ―――つくづくうらやましい!
「知っているんだな」
背の高い貴族に、上からさらに顔を近づけられて。
「はい……」
あたしは、観念せざるをえなかった。
- 9 -
イナばあちゃんがひどく憤慨したが、マーディアスは、あたしをみじめなほど乱暴に店の外へ突き出した。外でパイプ殻を捨てていたトウラが、驚いて立ち上がった。
あたしの襟首をつかんだまま、マーディアスは言った。
「さぁ、レジェンとやらのところまで案内してもらおうか」
「そうはいっても、どっちへ行ったんだか……」
店を出るとそこは町の目抜き通りだ。かつては魔石鉱を積んだ馬車がしげく行き来したものだが、今や往来はまるでなく、建ち並ぶ家は空き家ばかりだ。かんかん照りの日差しが地面に陰影を貼りつけ、動くものは何ひとつ見当たらない。
さて、この町で、レジェンの行きそうなところ……って、レジェンは保安官なのだ。パトロールの名目で、どこにでも行くしどこにでも入る、それが許される立場だ。住民は少ないが、かつては栄えていた名残で、町全体の広さはかなりのものがある。いったん見失ったら、足取りを探すのは難しい。
「事務所で戻るのを待っていた方がいいと思いますけど」
「その間に使われたらどうする!」マーディアスが怒鳴った。……もう存分に使っていると思います、という言葉をぐっと飲み込んだ。彼が警戒しているのは、〈レジェンが分不相応な使い方をする〉ことだ。もしそうなったら、レジェンには〈破滅が訪れ〉、そして石は〈空間を転移して消えてしまう〉……事典によればそういうことになる。マーディアスは、石が消えてしまって探索が振り出しに戻ることを危惧しているのだ。
こんな奴に使われるくらいなら、石なんて消えてしまった方がどれほどよいかと思うけれど……レジェンにもし〈破滅が訪れる〉なんてことになったら!
身を固くしたあたしの肩を、マーディアスはきつくつかんで振り回した。
「さぁ、急げ! 居場所がわからぬとはいわせん!」
ずいぶん無茶を言う。わからないものはわからない。このまま何もわからなければいい、と思いながら―――あたしの目は聡かった。道の端の、きつい日差しに乾ききった砂の上に、レジェンの靴跡が並んでいるのを見つけてしまい、そこであたしの視線は固まってしまった。
マーディアスはすぐにそれに気づいて、わかりやすい奴だ、とにやりほくそ笑んだ。
すぐさま部下に指を突きつけて指図した。
「あの足跡を追え!」
はっ、と敬礼して、部下が駆け出した、そのときだった。
びゅうぅ、と一陣の風が吹き抜け、店の前で渦を巻き、去っていった。汗も引っ込む、涼風だった。……ひと吹ききりで、町にはまたすぐによどんだ蒸し暑さが戻ってきた。そして、乾いた砂の上の足跡は、風によって魔法のようにかき消えていた。……魔法?
- 10 -
「なんてことだ! いまいましい風め!」
足跡が消えてしまったことで、マーディアスは一気に不機嫌になった。またあたしの襟首をひっつかんでまくしたてる。
「何か他に手がかりはないのか!」
そのとき、老魔法使いのトウラが、パイプを握ったまま間に入ってきた。
「まぁまぁ閣下、落ち着いて考えることですぞ」
脳天から煙を出しそうな勢いのマーディアスをなだめて、続けてあたしに言った。
「おぬし、〈人捜し〉の魔法を知っているかね」
「知ってますけど……」
その名の通りの魔法だ。対象となる人物の居場所が、たちどころにわかってしまう(ただし、魔法をかける者は、その人物のことをよく知っていなければならない。だからこの老魔法使いは、術は知っていても今日会ったばかりのレジェンの場所を探し当てることはできない)。便利な一方、対象の意識が見つかるまで魔力を広範囲に行き渡らせなければならないので、魔石の消費量がきわめて多い魔法でもある。
あたしは答えた。
「そんな大粒の魔石、この土地にはもう残ってないです」
トウラはだまって部下をひとり呼ぶと、その男が担いでいた荷袋をごそごそやって、中から紙に包まれた石を取り出した。包みをはがすと、中から出てきたのは、最高の状態に研磨された、真実の石に劣らない大きさの、立派な魔石だった。これなら、人捜しの魔法を十回使ったってお釣りがくる。
「差し上げよう。もし彼を捜し出してくれるのならば」
トウラは言った。しわだらけの手から、あたしの手にどすりと渡された巨大な魔石。予想外の重みに、背筋にしびれが走った。
「あの、……レジェンを見つけたら、どうするんですか」
「我々が欲しいのは真実の石だけだ」今度はマーディアスが割り込んできて言った。「おとなしく渡せばよし、したがわぬなら―――力ずくでも」
レジェンがおとなしくしているわけがない。彼のガンベルトは、飾り以外のなにものでもないけれど、代わりに彼の舌先がマシンガンになるだけのこと。
……もしあたしが、彼らをレジェンのもとに案内したら、彼は、力ずくで石を奪われてしまうか―――嘘でその場を切り抜けようとするだろう。力ずくに立ち向かうだけの嘘をついたら、真実の石は彼を〈破滅〉させてしまうんじゃないか、あたしはそう思った。
とたんに体中の毛がぞっと立ち上がるのを感じた。
実際のところ、レジェンはたいした人物じゃない。頭は悪い、馬力はない、金遣いは荒い。それでいて、自分がうまくやれればそれでいい、口先ばかりのワガママ男。レジェンとあたしはしょっちゅう憎まれ口を叩き合っているので、町の人に下手な勘ぐりを受けることもあるけれど、あんなのの女房になるくらいなら行かず後家の方がマシだ。
でもあたしは、レジェンの嘘が大好きだ。レジェンがいなくなることを、あたしは心の底から怖れた。こうべが自然に垂れ、目に涙がたまってきた。
「イヤです」
あたしは、首を横に振り、顔を背けた。
「使えません」
「なんだと?」マーディアスはあたしの首をつかんで引きずり上げた。「この場でおまえを辱めれば、悲鳴でやつがすっ飛んでくるかもしれんな? あぁ?」
「閣下っ」トウラがマーディアスを押しとどめた。「そう手荒になさいますな。少し、この老いぼれと話をさせてください」
- 11 -
トウラはあたしを、イナの店の裏手、いくぶん涼しい建物の陰へと導いた。空の酒樽に腰掛けて、懐からまたパイプを出すと、タバコを詰めて、火をつけた。
火は指先から出ていた。それくらいの魔法は朝飯前なんだろう。魔法と向き合った年期が、あたしとは決定的に違っているようだった。
その差異はすなわち老いでもあった。彼は一見好々爺だった。深緑のローブに杖を抱え、頭を柔らかい布の帽子で隠していたが、その下からは一本の毛ものぞいていない。パイプをふかすゆったりした手つきは、三軒先のご隠居にそっくりだ。
しかし、パイプから立ち上る長い紫煙の向こうのしわくちゃの顔、肉の落ちた頬は、老い進むことを拒んでいるようだった。事実、衰えた体にむち打って、長旅を厭うことなく続けている。眼光だけがマーディアスに劣らず、若々しかった。この町の人々は、レジェンはなおのこと、誰もそんな目をしていない。
煙を一条ぷぅっと遠くに吐くと、思ったよりも柔和な声で、トウラは話しかけてきた。
「それにしても暑いな、この町はいつもこうかね……」
「今日は、特に」
「そうかね」
ひとつうなずいてから、トウラはパイプをいったん傍らに置いた。
「さて、少し話をしようか、お嬢さん。我々は話し合って折り合いをつけていかなければならないようだから」
あたしも小さくうなずいて、膝を合わせてかしこまった。
「まずはあるじの無礼を詫びよう」トウラは膝に手をつき深く頭を下げた。それから、小声で言った。「どうも閣下は頭のめぐりが極端でいかん。人のため魔法文化のためと思い詰めると、大義名分がかえってまなこを曇らせる……まぁ、これは内々の話にしておいてくれたまえよ」さすがに雇い主の悪口は大きな声では言えないようだ。トウラは再びパイプをくわえた。
「とはいえかの石は、金を積めば買えるというものではないのでな」
それはそうだ。欲しいものがあれば願えばいい。真実の石を持つ者にとって、金銭など無用だ。
「ことにあたっては力のみが頼り、とは閣下もよくおっしゃられていたが、お嬢さんにまで手をかけるとは思わなかった。探索の長旅を始めてもう三ヶ月になるか、ぼんぼん育ちの方だから、焦りも疲れもこの老いぼれよりこたえているご様子」
すぅ、ぱぁ、すぅ、ぱぁ、と、ゆっくり話しながらゆっくり吸っていたトウラは、また傍らにパイプを置き、また頭を下げた。
「……お嬢さん。真実の石の入手に協力してはいただけないだろうか。真実の石は、必ず社会のために使う。約束する」
彼がそう思っていたとしても、あのマーディアスという男が本当にそう思っているかは定かでなかった。この話を聞く限りは、トウラはそう悪い人ではなさそうだったけれど、あたしはどうしても警戒を解くことができなかった。
- 12 -
あたしが目をそらしたまま黙っていると、トウラは話題を変えた。
「魔法を研究しているのかね」
「……はい」
「わしも、魔法の研究者だ。……長年、真実の石について研究してきた。だからこそ今、マーディアス閣下と目的をおなじゅうして行動している。……その目的とは、魔石の枯渇によって凋落した魔法文化の復興だ」
「噂には、聞いています」
「そうかね。なら話は早い」トウラは目を細めた。「もしも我々が真実の石を手に入れたならば、まず厳重なる管理体制を作った後に、少しずつ魔石の鉱脈を復活させることから始めようと思っている。一足飛びに大望を成就させようとすれば、真実の石の怒りに触れよう。狂王ブカサドが狂行軍を成功させ得たのも、真実の石に少しずつ手の届く望みから伝えていったからだと言われる。まぁ彼は後年、その力を侮り、破滅を呼び込むことになるわけだが……」
「破滅……」
「真実の石が、その者と関係を持ったという事実を隠蔽しようと試みるのだといわれている。つまり、真実の石のもたらす破滅とは、〈口封じ〉だ。死ぬ、狂気に冒される、舌と手足をもがれる刑に処される、終わりはさまざまだが、真実の石に破滅をもたらされた者は、二度と知恵もて言葉を操ることはできなくなる。その愚を冒さぬように使っていかなければならない」
自分の研究成果を披露できることがうれしいようで、トウラは機嫌よく、舌先もなめらかだ。彼は本当に自分の研究が好きで、だからこそあのマーディアスという傲慢なパトロンに頭を下げ、真実の石探索という老骨にむち打つ旅に、不平も言わず加わっているのだろう。だが彼の語る内容は、あたしの背筋に、また別の怖気を走らせた。真実の石のもたらす〈破滅〉は伝説でも誇張でもなんでもなく、直接に確実に所有者の人生を奪うのだ。レジェンは、いったい、どうなるのだろう。
「それなら……」あたしは言った。「真実の石にとって、〈分不相応な願い〉って、どんなものですか」
「ふむ。言葉通りにとらえてよいと思う。その人間の器に収まらないことは、分不相応なことだ」
「……太陽とポーカーしたい、と言ったら、どうなりますか」
「?」トウラはたぶん何の冗談かと思ったろうが、あたしの目は真剣だった。「……なるほど、レジェンというのはそういうことを口走る男かね」
「はい」
「ふむふむ。わかっているのは、判断するのが真実の石自身だということだ。真実の石は、語調や言葉をきちんと聞き、人間と同じように解釈して、判断をくだす。しかし、真実の石が把握できるのは語気の強弱だけで、顔の表情や周囲の状況までは読むことができない。また、人間は問い返すことができるが、真実の石は問い返さず一度で判断してしまうのだ。言葉が足りなければ判断を誤る。言葉が多すぎればよけいな判断をくだす。思い通りに伝えるのは難しい。……本当に太陽が地に下りてくるかもしれんし、因果のなさに捨て置かれるかもしれんし、あるいは真実の石にも限界はあるだろう」
「……真実の石の、限界とは?」
そう訊くと、トウラは満足げにひとつうなずいて、口調を少し変えた。それは、袖を引いて誘うかのような。
「調べてみたくは、ないかね」
あたしは目をしばたたかせた。
「魔法の研究をしていると言ったが、いまこの町で、満足のいく研究ができるかね?」
……図星だった。あたしは、この町でできることのほとんどをやりつくしていた。本当は、もっと多くの文献から知識を得たかったし、もっと難しい、魔石をふんだんに使う実験をしてみたかった。この町で、ひとりきりで続けていたら、永遠にできないことだ。
「マーディアス閣下は、閣下と呼ばれるとおり、魔石流通に携わる勅任閣僚を代々務めてきたお家柄だ。潤沢な資金を持っていらっしゃるし、魔石の入手も思いのままだ。おぬしの望む研究環境をすぐにでも提供できる……どうかね、ともに真実の石を、そして魔法の未来を研究してみるというのは?」
あからさまにいえば、買収しようとしているのだろう。でもその言葉には真剣みがあったし、あたしにとっても願ってもない話だった。
「真実の石を、魔法文化の復興のために使うよう、レジェン君を説得してはもらえないだろうか。個人の欲望にゆだねると、必ず破綻をきたす。歴史がそうだった。……唐突にやってきて、短い時間で難しいことを頼んでいるとは思うが、どうか考えてはくれまいか」
あたしの心は揺れた。
トウラはあたしよりずっと多くのことを知っている。
あたしももっと多くのことを知りたいと望んでいる。
あたしはこの町から飛び出して、もっと多くのことを知るべきなんだ。そのチャンスがあるなら、迷わず飛びつくべきなんだ。ベストの選択が目の前にある。
あたしの今なすべきことはレジェンの手から真実の石を取り上げることで、トウラの望みは真実の石を手に入れて魔法を復興させること。この取引に応じてレジェンを捜し出し、あのマーディアスの手に渡る前にトウラに真実の石を委ねる。そうすれば、すべては丸く収まって、そのうえあたしは願ってもない研究環境を得る。
でも。
怖かった。
あたしは、ううん、この町の若者たちはみな、山が閉じていった寂しい歴史を知っている。そのとき、大人たちの間で、いくつもの約束が交わされ、いくつかは守られ、いくつかは反古にされた。起きたたくさんの出来事は、その多くが悲観的で、中心に立っていた大人たちはどうにかしようと必死だった。そして、いったいどんな状況であるのか、子供たちに丁寧に説明する言葉を持ち合わせなかった。あたしたちは、いつの間にかやってきた別れや悲しみを、目に見えるものも見えなかったものも、その軽重を計る力もなく、黙って受け入れていた。
その中でレジェンは、嘘ばかり言っていた。嘘はときとして暴走し、あるいは彼がときとして真実を語るとき、彼はいつも罰を受けるはめに陥った。それでも彼は嘘をつくのをやめなかった。無邪気な嘘を突き続けてあたしたちを笑わせていた。さびれた町を守るのは、権力でも、暴力でも、財力でもないんだって、レジェンはそのことを小さい頃から自覚しないまま体現していた。
あたしにとって、嘘か真実かわからなくなる真剣な言葉より、人と人とをつなぎうる他愛のない嘘の方が、よほど信じるに足るものだった。
あたしがもし本当に知識を求めて旅立つのなら―――そのときは、必ず、レジェンの嘘に送り出されたい。ここにある信じる糸を失ってまで、旅立つ勇気は、あたしにはない。
- 13 -
しばらく時間が経った。あたしは押し黙ったままだった。
「いつまでかかる、トウラ!」
マーディアスの怒鳴り声が響いてきた。
「時間切れのようだ」トウラはため息をついて言った。「こういう魔法の使い方は主義に反するが、やむをえん。申し訳ないが、お嬢さんの記憶を少々お借りするよ」
トウラはやおら立ち上がると、あたしの手をつかんだ。そしてつかむのと逆の手に小さな魔石をかざし、呪文を唱え始めた。他人の記憶を読みとる魔法だった。あたしはその手をふりほどこうとしたけれど、骨張った手に込められた力は、思ったよりもずっと強かった。
やがて魔法の効果が、光の輪となってあたしの腕を上ってきた。この輪が頭にまで達してしまったら、記憶をいいように奪われてしまう……あたしにそれを防ぐだけの力量はなかった。光の輪が首まで達し、なんだか息苦しくなってくる。このまま、あたしの脳味噌から、レジェンの記憶が出ていってしまうんだろうか……。
救いの手をもたらしたのは、それは、たぶん、レジェンだった。
すっと、辺りが暗くなったのだ。雲がかかったかと思えば、さにあらず。空を見上げると、巨大な円形の何かが空を覆っていた。白っぽいが、雲ではない。円の中心からは細い棒が八方に向かって飛び出し、その棒と棒の間に布が張ってある。布ごしの日差しが、うすらぼんやりと地面に届く。布にはところどころ穴が空いていて、そこからは変わらぬ暑い日差しが光線となって地に降り注いでいる……。
これは傘だ。ばかでかいパラソルが、町を覆い尽くしたのだ。……レジェンのしわざに、決まってる!
「なんと、これは……」
トウラは目を剥いて空を見上げた。光の輪は、意識の集中がとぎれたせいか途中で止まってしまい、腕をつかむ力も緩んで、その隙にあたしは手を振りほどいた。
「ふむふむ、なるほど……」
トウラはなぜだか感心して、あごに手を当て、幾度かうなずいていた。
悠然と大地に突き立って日光を遮り、町をそっくり日陰にした、パラソル。柄が突き立っているのは、採掘場だろうか。その柄も、見た目にはとても細く見えるけれど、遠目で見るからそう思うだけで……目の前まで行ったら、ひとかかえもふたかかえもある、古代の神殿のような極太の柱であろうことは確実だった。まったく、レジェンのやることなすことには神様もあきれていることだろう。
- 14 -
巨大パラソルにうろたえたのは魔法使いだけじゃなかった。どすどすと砂を踏む音がして、せっぱつまった表情で現れたのは、むろんマーディアスだ。
マーディアスは、あのパラソルが、破滅をもたらすレベルのもの───つまり、真実の石が姿を隠してしまう結果につながると思ったのだ。彼にとって、それだけはあってはならないことだった。
「これはいったいなんだ?! 真実の石にもしものことがあったらどうするつもりだ!」
くってかかるマーディアス。トウラはあごに手を当てたままで、例によって彼をなだめる口調で言った。
「いえ閣下、これは、ものは大きいが、決して破滅をもたらすものではありません」
だが、さすがに目の前にこんなばかでかいものが居座っては、なだまるものもなだまらないのだった。
「なぜそんなに安穏としていられる! 狂王が月を手に乗せようとしたことと、このばかでかい傘と、どう違うというのだ!」
「月は現実にありますが、あのような傘は現実にはございません。そこが違います」
「ではあの傘はいったいなんなんだ!」
あたしは、ふたりのやりとりから、あとずさりして間を取った。耳をふさいだけど、それを通してもマーディアスの怒鳴り声は伝わってきた。彼の言葉が、次第に思慮のない支離滅裂なものになっていくのがわかる。こんなにあからさまに、怒りの感情を表に出す人を、あたしは久しく見ていない。
怒鳴るマーディアスを後目に、悠然とあったパラソルは、現れたと同じように唐突に、わずかに霞みがかったかと思うと、すぅっと姿を消した。……レジェンのことだから、飽きたのかもしれない。だがそうして真実の石をもてあそぶことは、マーディアスの怒りの火になお油を注いだ。
「まただ! まただ! ヤツめ今すぐ引き裂いてやる! 今すぐここに連れてこい!」
「その持ち主の居所がわからぬかぎりは、焦ってもしょうがありますまい」
「急げと言っているんだ! わからんのか!」
らちが明かないと思ったのか、マーディアスは突然今度はあたしに向き直り、突進してきて胸元をひっつかみ、口角泡を飛ばした。
「貴様がさっさとそいつを連れてくればこんなことにはならなかった! 今すぐヤツを連れてこい! イマスグニダ!」
トウラはなぜこんな人間に従っていられるのだろう? それが魔法使いの末路というものなのだろうか? 閉山のときに繰り返された大人たちの怒鳴り合い、罵り合い、揉み合い、忘れていた不快な記憶がなぜだか心によみがえってきて、あたしは固く目を閉じ、耳を押さえた。つばきと怒声が飛び交う空間に、頭から吸い込まれてしまいそうな気がした。
けれどマーディアスは、耳を押さえる手を引き剥がして、声をねじこむように怒鳴った。
「キイテイルノカ!」
負の感情が心に容赦なく触れてくる。あたしは恐怖に侵されて、身を固くした。今すぐここから、逃げ出したかった。
逃げ出したいと、はっきり心に思ったとき、
あたしの目の前が一瞬暗くなって、体が急に軽くなって、ほんとうにあたしはその場所から姿を消した。……次に見たのは、レジェンの顔だった。
- 15 -
「よ」
「レジェン……」
「クオレ、知恵貸してくれよ。どうにかならんかな、この暑さ。……どったの?」
飛び交う虫の羽音に重なって、のどかな声が聞こえた。
あたしは日なたに立っていて、レジェンは日かげに座り込んでいた。
単純なるレジェンは、帽子を取って、汗を拭った。今しがた飲んだビールが、もう汗に変わってしまったらしかった。
彼は、今日の暑さに対してひたすら悩み続けていたのだ。彼はただほんとうに知恵を貸して欲しくて、クオレ、そこにいるんだろと、真実の石に伝えた。あたしの心の声が聞こえたとかそういうんではなく、タイミングが良かっただけだ。
それでも、あたしの目から、涙がぽろりとこぼれ落ちた。
そこは、採掘場跡への入り口だった。鉱夫の住まいや精製所だった建物が、道の両脇にずらりと並んでいるが、いまはクモやネズミが住人で、人っ子ひとり住んではいない。ただじりじりと日差しが照りつける中で、最盛期に威を張るために築かれたアーチが、崩れかかりながらも心地よい日陰を作り出していた。町の名のプレートがついていたはずだが、落ちてなくなってしまっている。
レジェンはその土台石に腰掛けていた。何年も離ればなれだったような気がして、涙腺がゆるんだまま、あたしはぼぅっとレジェンの顔を見つめた。
レジェンはどうしていいのかわからなくなったらしく、ぽりぽりと頭をかいた。
あたしは涙を拭いた。困らせても、しょうがない。でも、いつもの顔が見られて、とてもうれしかったのだ。
「だいじょぶ?」
「うん、大丈夫」あたしは笑ってみせた。「……さっきの、風とか、パラソルとか、レジェンがやったの?」
「うん。……ここまで上ってきたはよかったんだけど、やっぱし今日は暑いからさ。もうひとやま越えるのかと思うと、ちょっとしんどいなーって思って。……ま、ともかく日陰に入んなよ」
あたしは、手招きに応じて、レジェンの隣に座り込んだ。
マーディアスら一行がいきなりイナの店を訪ねてきたことからもわかるとおり、保安官事務所やイナの店があるあたりは町の入り口だ。そこから目抜き通りがずぅっと鉱山入り口まで続いている。道はゆるやかな登りとなってアーチに至り、ここから道は幾度か分岐して、左に大きくそれていくと第一採掘場、少し先で右にそれていくと第二採掘場だ。ここまでは、あたしも魔石を拾いによく来る。もうひとやま越える、というと、さらにその先へ進んだところにある、第三採掘場になる。
この町が開かれた当時からある二つの採掘場は、露天掘りで掘り進めたのだけれど、第三採掘場は、巨大な断層が形成した切り立った斜面の腹に、大きな横穴を空けて掘り進むことで魔石を掘り出した。開かれたのはあたしが生まれる少し前で、当時としては最新の高度な掘削技術がいくつも導入され、町の未来を担う大採掘場になるものともてはやされた。しかし予想ほど鉱脈は見つからなかった。維持管理の手間暇がかさむ上に、落盤事故も続発し、未来を嘱望された採掘場は、閉山にあたって真っ先に閉じた採掘場となった。
魔石の原石も、おそらくはここが最も多く残っているはずだが、なにぶん危険ということで、採掘場への道も採掘坑の入り口も、完全に封鎖されている。鉄条網の扉に頑丈な錠前が取りつけられ、鍵は町長だけが保管しているはずだった。だから、そう簡単には入れない。
「第三採掘場へ行くつもりだったの?」
「この石使えば鍵なんてちょちょいじゃん! ずいぶん入ってないからさ、行ってみたいんだよ」レジェンははしゃぎながら言った。
「……わざわざ山越えていかなくたって、さっきあたしを呼んだみたいに、空間転移ですっ飛んでいけばいいじゃない」
あたしがそう言うと、レジェンは目をぱちぱちさせた。
「さすがクオレ、頭いいなぁ!」別に頭のできの問題ではないと思う。
「いや、それでさ」レジェンは続けた。「とにかく今日は暑いから。何とかしようと思ってこいつを使ってみたんだけど、うまくいかないのな。風吹けって言ったら一回しか吹かないしさ。だから先に日差しを何とかしようと思って、太陽にバケツをかぶせてみたんだけど何も起きなくて」
太陽が巨大な星であることは、この町の学校でも教えているはずなのだが。星の彼方にすっとんでいくバケツを想像して、あたしの涙は完全に引っ込んでしまった。
「それで、あのパラソル?」
レジェンはうなずいた。「あぁいう日の当たり方は、お百姓さんたちに悪いと思って、すぐ消した。なんとかならないかなぁ」
「……雨を降らせればいいんじゃないの?」
レジェンはびっくりした顔であたしを見た。
「さすがクオレ、頭いいなぁ!」
……風を吹かすことを思いついた人間が、なぜその次に雨を降らすことを思いつかないのだろう。もちろんそんなレジェンが次に取った行動はこうだった。
「さっそく降らそう! おい、石、一発どしゃぶりで頼むぜ!」真実の石がきらりきらめいた。
とたんに蒼天にどやどやどやと雲が湧き出しかき曇り、稲妻までがひらめいて、空から大粒の雨が落ちてきた。細いアーチは、日陰を作りこそすれ、雨を防ぐほどの幅がない。
「ちょ、ちょっと! 濡れちゃうよ!」
「大丈夫!」
レジェンはあたしの手をぎゅっと握ると、
「ここはもう、第三採掘場なんだから!」真実の石がきらりきらめいた。
- 16 -
採掘坑の入り口で、鉄条網の扉を通して、ざぁざぁと降り落ちる雨を眺めた。使われなくなったトロッコが、すっかり錆びついて、坑の外で雨に濡れていた。……鍵の内側にいるというのが、なんだか不思議な感じ。
「なんでここに来ようと思ったの?」
隣に立って、いっしょに雨を眺めているレジェンに、尋ねてみた。声は、坑道の奥にも響いて、かすかにエコーした。
「真っ先に思いついたのが、それだったから」
「真実の石を使えば、欲しいものが手に入るとか、好きなお酒が飲めるとか、思わなかった?」
「思ったけど、そんなん、後でいいじゃん」
まぁ、それは、確かにそうだ。でも何となく釈然としない。レジェンらしいといえば、そうかもしれない。
いちおう、訊いてみた。
「あの人たち、けっこうまじめに真実の石を探してるみたいよ。……渡して、役に立ててもらう気はない?」
「やなこった」
「なんで?」
「オレが最初に見つけたんだから、オレのモンだ」
困った男だ。
「落とし物入れに入っていたものを、勝手に使ってるくせに」
「だったらなおさらあいつらのモンにゃならねぇよ」
「レジェンが持ってると、ろくなことにならないでしょ。……ホントに破滅が来ちゃうのよ。あたし、レジェンがそうなっちゃうのは、いや」
「心配すんなって、言ったじゃん」
「どうしてそうきっぱり言えるの?」
「なんとなく」
……つくづく、困った男だ。
「それよりクオレ」
「なに?」
レジェンは親指で、背後―――つまり、坑道の先、真っ暗闇の奥の奥を指差した。
「探検しようぜ」
「本気?」
「だってさ、ガキの頃、探検しようって言ったらクオレったら暗くて怖いからいやだって」
覚えている。
すべての採掘場は、危険だからと子供の立ち入りが禁じられていた。当然、禁断の地は子供の興味を惹きつけてやまなかった。とりわけ、最新式の機械がうなりを上げ、屈強な男たちを毎日吸い込んでは泥だらけにして返す第三採掘場の坑道は、町の子供たちの憧れの的だった。……ていうか、この町には、〈憧れの的〉として選択しうる対象が他にほとんどなかったのだ。
第三採掘場を閉じるか閉じないか大人たちの協議が大詰めに入っていた頃、ストライキが長引いたことがあった。大人は誰も坑に入らず、かといって閉ざされるでもなく、たいした監視もない―――そういう状況を発見したのがレジェンで、さっそく探検隊が組織されたが、あたしは怖がってそれに加わらなかった。
探検は結局、出発からわずか三〇メートルで断念された。出発の際にうっかりえいえいおぅと鬨の声をあげてしまい、それを誰か大人に聞きつけられたのが原因だった。その大人の弁によれば、勇敢なる探検隊はおやつだの遊び道具だのはびっしり担ぎ上げながら灯りを持っていくのを忘れ、その地点において膝を震わせながら名誉ある撤退について議論をしていたそうである。
「まさか、『真っ先に思いついた』のが、あのときの続きってこと?」
「そういうこと! なんつぅかあれは、ずぅっとのどに小骨が刺さったような感じでさぁ、いつかきちんとケリをつけておきたかったんだよ。……クオレにもないかな、そういうのがひとつやふたつ?」
「そりゃ、ないとはいわないけど……」あんたには百や二百はあるでしょう、という言葉を飲み込んだ。
「……それともクオレ、やっぱり怖い?」
あきれるを通り越して、あたしはもう何も言えなかった。小さく首を横に振ってみた。
「よぅし、それなら行こう! 今ならこの坑道の中も明るくてきれいだからさ」真実の石がきらりきらめいた。
するとそのきらめきが、そのまま貼りついたかのように、岩の壁全体が淡く青い光を帯びた。
「いいカンジだなぁ」レジェンがうれしそうに言って、歩き出す。「出発!」
- 17 -
坑道の奥へ、レジェンはのっしのっしと突き進む。しかたないから、ついていく。
どうやったら、レジェンから真実の石を取り上げられるだろう。……それができたら、あたしは、どうしよう? そう考えたとき初めて、あたしは自分に真実の石を使うつもりがまるっきりないのに気づいた。願いがかなうことより、欲望の虜となって良心を失うことより、破滅を怖れていた。それがレジェンだろうと、自分だろうと、あるいは他の誰かだろうと、破滅という状況が訪れることを、怖れていた。
───真実の石を、誰かが必ず持っていなければならないのだとしたら、いちばん破滅の確率が低そうなのはレジェンだ、だったら、レジェンが持っているのがいいのだろうか、そんなことを思って、あたしはレジェンの背中を見つめた。……おや。明るいところにいたときはよくわからなかったけれど、レジェンの肩、脱いだつば広帽子を首から背にぶら下げている辺りに、ぽうっと白く光る煙のようなカタマリが浮いている。ゴミか何かと思って払おうとしたら、勝手にふらふらと飛び回る。なんだろう……?
かつての探検隊の最高到達地点は、あっという間に過ぎてしまった。坑口からの光が弱まり、逆に、真実の石が醸し出した青い光の方が強くなっていく。
足元がどうにかわかる程度の、薄暗いものだったけれど、そのブルーはとても鮮やかだった。たそがれの闇だけを抽出したみたいに幻想的な空間が生み出されていた。先へ少しずつ進むと、岩の凹凸で変わる光の陰影が、なんだか揺れているように見える。あたしは海を見たことがないけれど、昏い海の底というのは、もしかしたらこんな感じだろうか。
坑口は、結局一カ所しか作られていない。非常用の坑道がもう一カ所あったが、閉山直前の落盤事故で埋まったままだ。ここからまっすぐな横坑と下る斜坑、下りきると横坑がずっと続いている。横坑と斜坑の分岐点が、いくらか広く、天井の高いドーム状の空間になっていた。
ここまで来ると、もう入り口からの光も届かない。深い青、淡い青、ぐるりと首を回すだけで、青が降り落ちて迫ってきた。わずかに地にこぼれた原石や、掘るに値しなかった細い鉱脈が強く輝き、星のようにまたたいて、夜空に包まれているみたいだった。打ち捨てられた古い掘削道具も、にぎわいを増す青のオブジェ。輝きながらさらに奥へと続くトロッコの線路は、あたしたちをどこへいざなおうとしているのだろう……。
これも、真実の石のしわざなんだ。
少し寂しげで単調ではあるけれど、自分も青のオブジェのひとつとなっていると、なぜだか落ち着いて、幸せになれそうな気がした。あたしは、この空間になら、ずっといてもいいと思った。
「いいカンジだなぁ」また同じつぶやきをレジェンが漏らした。
だが。
「いい感じだ、まったく」……背後で声がした。老いた弱い声だったが、この空間ではよく響いた。トウラだ。
魔法による光の球が天井に向かって投げ上げられた。その球は太陽のようにまぶしく輝いて、空間を昼間と同じ明るさに照らし出した。青い幻想的な空間は、たちどころにかき消されてしまった。
トウラは難しい顔で言った。
「おもしろいな、少年。実に結構! だが、すまんがわしもいつまでも遊んではおれんのだ」
- 18 -
「いつの間に……」
あたしは目を丸くした。
「申し訳ないが、お嬢さんを〈人捜し〉させてもらった。短い会話だったが、あれくらい顔を合わせていればわしには十分だ」
トウラの眼光は先刻よりさらに鋭かった。
「少年。その石はおぬしには使いこなせぬ。おぬしにはもう破滅の兆候が出ているぞ」もしかして、レジェンの肩に乗っている白い煙のことだろうか。「速やかに預からせてもらう」
トウラの手の中に新たな魔法が生まれていた。ミルク色の霧の球―――〈沈黙〉の魔法だ! あの霧に包まれると、何もしゃべれなくなる。真実の石は、口にした言葉に反応する、したがってしゃべれなくなれば真実の石は使えなくなる理屈だ。隙を与えるつもりがないのだろう、トウラの魔法の発動は尋常でなく速く、霧の球はただちにその手から放たれた。
反射的に体が動いていた。あたしはレジェンの前に立つと、小さな魔法陣を虚空に描いた。それが、可能な限りすばやく作れる魔法障壁だった。トウラから渡された魔石を使うことに、一瞬ためらいはあったが、振り切った。
沈黙の魔法球が魔法障壁に当たり、魔力同士のぶつかり合いがかすかな火花を散らす。―――ふつうなら、つまり技量が同程度なら、沈黙の魔法は魔法障壁にぶつかった時点で消えてしまうはずだった、だが霧の球は、回転しながら幾度も幾度も障壁に挑みかかってきた。力量の、絶対的な差だった。
「お嬢さん、おぬしは彼に真実の石を持たせたくないのではないのか……!」
トウラが苦々しく言った。あたしは答えられなかった。
「だが、魔力をその程度にしか扱えぬのでは、わしの魔法は防げんよ。精進が必要だっ……はっ!」
トウラは、力強く腕を前に突き出した。新たな魔力がそれに乗って霧の球へと注ぎ込まれた。霧の球が勢いを増し、尖った矢じりのような形状に変わって障壁を貫こうとする。ダメだ、防げない!
けれどレジェンはこの勝負を見ながらにやにやしていた。その手には、真実の石が握られていた。
「大丈夫さ。クオレは魔法じゃ誰にも負けない。負けないったら、負けない」真実の石がきらりきらめいた。
弱々しい魔法障壁は、霧の矢じりが何度ぶつかろうとも、びくともしなくなった。
「時間をかけすぎたか……」トウラはつぶやいて、手を下ろした。霧の矢じりがすっと姿を消した。レジェンに真実の石を使うつもりがある以上、こうなったらトウラに勝ち目はない。
トウラは大きく手を広げながら、大きくため息をついた。
「降参だ、少年。少し話し合おう」
- 19 -
「思ったよりあきらめが早いなぁ。もう少しごちゃごちゃとごたくを並べるかと思ってた」
レジェンが失敬なことを言った。
「おぬしは、我欲なしに石を使うようだからな。それは真実の石との正しい向き合い方といえる。……真実の石について、深く学んだことでもあるのかね」
「うんにゃ」
「知らずに、あのパラソルか。なるほどなるほど、知識の多寡ではなく、器というものだろうな。わかってきた気がする。やれやれ……」
トウラは少しくたびれた様子で、手近の乾いたガラクタにどすりと腰を下ろした。それから、あたしの前でしたのと同じように、パイプを取り出して、たばこを詰めて、火をつけた。レジェンも地べたにあぐらを組んで座り込み、片膝に頬杖をつくと、イナばあちゃんの店でしたように、指先でくるくると真実の石を回し始めた。
先刻トウラが天井に投げ上げた魔法の灯りは、今も煌々と明るく、あたしたちを照らし出した。真実の石も、存在を主張するかのようにきらきらと輝く。
「それが真実の石か」トウラはゆっくりパイプをふかしながら言った。「長年追い求めてきたものだというのに、おぬしの手にあると、まるで芝居の小道具だな。どうも調子が狂っていかん……だが、平常心で向き合えるのはよいことだ」
トウラは、ぐっと顔を近づけて、レジェンを説得し始めた。「まずは単刀直入にうかがおうか。その石を、我々に譲ってはくれんかね」
「やなこった」レジェンは即答した。
「なぜかね」
「あんたらが気に食わん」
トウラは肩をすくめた。「違いない。無礼は詫びよう。だが、それは我々にとってぜひとも必要なものなのだ。……これも何かの縁だ、どうだろう、君も都でわしとともに真実の石を研究してみんかね」
「勉強だとか研究だとか、興味ない」
答えは予想通りだった。彼にはあたしのような悩みはない。
「では、君はその石を、今後どうしていくつもりかね」
「使いたくなったら、使いたいように使うさ」
「やれやれ、困った……器がわかっても、同じ土俵には立てぬか」
トウラは、寂しそうな目をした。
「だが、どうしても必要なのだ。今こそ必要なのだ。真実の石なかりせば魔法文化はついえる。その一念でわしはここまで来たのだ。わかってほしい」
レジェンも寂しそうな目をした。あたしがいままで見たことのない、どこかへ遠ざかる視線だった。
「そうかな。オレには、必要なものなんて、何もないけどな」
トウラとレジェンはしばらく見つめ合っていた。
やがてレジェンは石を回すのをやめてひっつかみ、言い放った。「こんなもんはさ」
まじめくさった顔のままで、真実の石を握った手を、トウラに向けて軽く前に突き出した。「今すぐこの世からなくなった方が……」
レジェンはそう言って、そして扉をノックするように肘を曲げ、その手を軽く振り上げて振り下ろした。「いいんじゃないのかな?」
───握っていた手を開く、すると真実の石は手の中から消えていた!
あたしは目を丸くした、ましてトウラのうろたえようといったらなかった。
「ま、まさか、今の言葉を真実にしてしまったのか?! 真実の石が消えることをおぬし自ら望んだのか?!」飛びかかるようにレジェンにつかみかかってわめき散らし、それから力なくひざを突き、呆然として頭を抱えた。「それだけは……それだけはしてほしくなかった……」
レジェンはにやりと笑って、左手をポケットに入れ、真実の石を取り出した。……手品だ。レジェンならやりそうなことだ。そういう彼の性格を知っているあたしでさえ、いつの間にポケットに移ったのかわからなかったから、トウラが驚くのも無理はない。彼はほぅ、と大きくため息をついた。
「あまり年寄りを驚かせんでくれ。……わかった、わかった、まずはおぬしを所有者として認めよう。マーディアス殿はどうにか説得することにして、時間をかけてその使い方を相談させてはくれまいか……」
トウラは立ち上がり、裾についた砂を払った。そこで、思い出したように、口を開いた。
「そうだ、だが少年、ひとつ忠告しておかなければならん。その肩に乗っている白い煙だがな……」
トウラがそこまで言いかけたとき。
レジェンが弾けるように立ち上がり、坑道の入り口の方を凝視した。……遠くから、足音が響いてくる。
ここにあたしたちがいることは、誰も知らないはずだ。立ち入り禁止のこの場所に、いったい誰が?
「マーディアス閣下だろう、おおよその場所は伝えておいたからな」トウラが言った。
「外、今、雨でしょう? どしゃぶりなのに、わざわざここまで?」
「ははは、ふつうなら泥まみれだろうが、そこはわしが魔法をかけてある。閣下がきれい好きなこともあるが、荷が濡れたり汚れたりしても何かと困るのでな」
「火薬の匂いだ」突然レジェンが言った。目を見開き、彼らしくない真剣な表情になっていた。
「そう、火薬が湿気ると、銃が撃てなくなるから───」
言いかけて、トウラも足音のする方角をにらんだ。自分の言葉通りに、魔法が役に立ったことを察したのだ。
坑道を抜けてきたマーディアスの部下はいずれも、銃を持つ者たちだった。残りの段平持ちの部下は、坑口で見張りをしているものらしかった。彼らはドームの中に入ると列をなし、いっせいに銃を構えた。銃は既に弾が込められ、いつでも撃てる状態だった。さほど広くないこのドームはむろん射程内で、身を隠す場所などあるはずもない。
続いてマーディアスが現れた。会ったときと同じ薄笑いを唇の端に貼りつけて、銃手の隊列の後方に立った。
「封鎖していた扉の錠は壊させてもらった。……ここは、閉山して立入禁止なのだな」マーディアスは言った。「我々は、真実の石を手に入れさえすればいいのだ。他のことを考える必要はない」
「閣下……!」
トウラが目をむいた。
「ここならば、銃声すらも気づかれることはない。死体も数日は見つかるまい。全滅させてでも、真実の石はこの手にいただく」
レジェンが、真実の石を握りしめる。何か言おうと、口を開きかけた。
マーディアスはむろんそれを許さなかった。手がさっと振り上げられ、……五挺の銃が、いっせいに火を噴いた。
- 20 -
奇跡は起こらなかった。一瞬閉じた目を開き直しても、光景は変わらなかった。
銃弾はすべて、確実にレジェンの体を貫いていた。血が激しく噴き出し彼はのけぞって倒れた。その手から、ぽろりと真実の石が落ちた。
「レジェン!」
あたしの叫びをかき消すように、マーディアスの鋭い指令が飛んだ。
「次弾装填!」
銃を持った五人の部下がいっせいに遊底を引く。薬莢が吐き出され、銃身に新たな弾丸が装填された。その銃口はあたしとトウラに向けられていた。どんな魔法も、引き金を引くより早くは発動しない。マーディアスの意図は明白だった。
「これで邪魔者はいなくなる」その声は悦びに満ちていた。射線上に入らないようにしながら、レジェンの取り落とした真実の石にゆっくり近づいていく。
トウラは、あたしに目配せをしてから、マーディアスに言った。
「……閣下。はじめからそのつもりでしたな? わしは真実の石を捜し出すまでの、ただの道具にすぎぬと?」
「それは私のせりふだ。貴様こそ、私を差し置いて、先に真実の石を手にするつもりだったろう?」
「すべては魔法の復興のため。閣下の意思がそこから遠く離れているならば、それを抑えるのもわしの役目。真実の石を個人の欲望に委ねてはならんのです!」
トウラはそうしてマーディアスの気を引いていた。その間にあたしはそろそろとレジェンに近寄った……だが、ほんの数歩で銃声が轟いて、あたしの足下に着弾した。動くなという脅しだった。
「トウラ。真実の石に限っては、理想も正論も、手に入れた後で考えることだ。それでよいではないか。……そこに転がっている男には、どうせ理想も正論もないのだろう!」マーディアスは吐き捨てるように言った。「真実の石を手に入れてはならぬ者がいるとすれば、まさしくそいつに他ならぬわ!」
近づけた数歩で、レジェンの様子が少し確認できた。よかった、まだ息がある、致命傷はなかったのだ。「チクショォォゥ……」のどの奥から、絞り出す声。
「しゃべっちゃダメ、レジェン! また撃たれちゃう!」
しかし出血がひどい。このままじゃ、時間の問題だ。血がだくだくと流れ出し、うつぶせに倒れた体の下に池を作り始めている。このままじゃ……。
「まだ、声を出せるか。だがもう動けまい。石はもはや私のものだ」
マーディアスは、その鮮血の色も、立ちこめる臭いも、まるで苦にならないようだった。視線は、真実の石に釘づけだった。石は、倒れたレジェンの体から一メートルほどのところに、所在なく転がり、トウラの放った魔法光を受けてきらきら光っている。
ゆっくり一歩一歩、噛みしめるようにマーディアスは近づいた。地面が少しでも揺れると、真実の石が壊れてしまうかもしれないと怖れているようだった。希少なものは脆弱だと、そうあらねばならないと、心から信じているのだった。
滑稽な抜き足差し足で進みながら、マーディアスは石のそばに横たわるレジェンに言った。
「まったくコケにしてくれたな、ガキめ。だが、命乞いをするなら、命だけは助けてやってもいいぞ。この私が、真実の石を使って、助けてやる───貴様とは違い、私は石を人助けに使うのだ。正しいことに使うのだよ」
マーディアスはついに真実の石にたどりつくと、がっと革靴で踏みしめた。転がらないように押さえ込み、それから、体を曲げ、手を伸ばして拾い上げようとする。
レジェンはぎりぎりと歯を食いしばり、踏みつけられた真実の石を見つめていた。
マーディアスの手が真実の石に触れようとしたその瞬間。
レジェンが、残った力を振り絞り、マーディアスの足下に飛びかかった。
何しろ片足を球に乗せていたのだ。バランスを崩すマーディアス、その足下から転がり出す真実の石。
「撃てぇ! 奴を撃てぇ!」マーディアスは叫んだが、あたしとトウラを狙っていた部下たちが狙いを切り替えるには、わずかに時間がかかった。
そのわずかな間に、レジェンは転がった真実の石をつかみ取り───目を固く閉じて、声の限りに叫んだ。
「オレは死なねぇ!」真実の石はぎらりぎらめいた。明らかに異質な輝きだった。
- 21 -
マーディアスの部下たちは引き金を引いたが、たった七文字の言葉は、握りしめた真実の石に確実に届いていた。そしてその言葉は、───真実となった。
新たな弾丸に、レジェンは片眼と心臓を確実に撃ち抜かれ、倒れ伏した。だが、すぐに立ち上がった。
保安官バッジの星の角がひとつ折れている。シャツとベストには弾痕がいくつも空き、そのすべては血にまみれて、もはや元の色はほとんど残っていない。血はまだだくだくと流れている。指から、裾から、したたり落ちる。傷を押さえることすらもせず、ふらふらと、生気のない顔でレジェンは歩き出した。膝にも弾丸が当たっていて、彼はびっこを引き引き、少しずつ少しずつ、マーディアスのいる方へと歩み寄っていった。
ただ一カ所、残されたもう片方の瞳にだけ生気があった。怒りとか、憎しみとかを超えた、あたしがマーディアスに感じたのなどよりはるかに恐ろしい負の感情に満ちていた。レジェンの中にそんな感情があることを想像したことがなくて、あたしは思わず顔を覆った。がくがくと足が震えて、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られたけど、今度は誰も助けてはくれなかった。耐えきれずにとさりと膝を落としてへたり込んだ。レジェンは、やっぱり、他愛ない嘘だけを言ってなくちゃいけなかったんだ。
マーディアスの部下らは、その異様な姿に悲鳴をあげた。死人が立ち上がって歩き出したのだから当然だ。恐怖に駆られて、何回も何回も遊底を引き、何発も何発も銃弾を浴びせ、だがレジェンは撃たれても撃たれても歩調を変えなかった。レジェンが一歩迫るたびに、射手は一歩退いた。
「痛くねぇ」レジェンは低い声で言った。「傷なんか、一瞬で治っちまう」真実の石がぎらりぎらめいた。
レジェンの傷が治っていく。撃ち込まれたはずの銃弾が、傷口から吐き出されてぼとりぼとりと地面に転がる。撃ち抜かれた眼球が生々しく蘇る。やがて傷はすべて消えてしまった。けれど、シャツにいくつも穴が空き、血に塗れていることには変わらず、無傷の体には違和感しかなかった。
マーディアスもいちどは後ずさりをしたが、すぐにその表情は、歓喜のそれに変わった。
「すばらしい! 不死すらも、かなう望みだったのだな!」
マーディアスは腰にぶら下げていた剣をすらり抜き放つと、レジェンに斬りつけた。無防備なレジェンは、なすがまま袈裟懸けにばっさり斬られた。血がまた激しく吹き出す、だが、切り裂かれたシャツの下で傷は見る見るうちに治っていく。
「すばらしい!」マーディアスは今度は銃を持った部下に駆け寄った。「おい、もう一度撃ってみろ!」部下はひるんでいた。するとマーディアスは有無を言わさずその銃を取り上げた。自分で狙いを定め、レジェンを狙って引き金を引く。弾丸はレジェンの頭蓋を貫き、彼は頭から血しぶきをあげてのけぞった。だがそれすらもすぐに治ってしまい、再び歩き出した。血の気のない顔、鈍い動き、そして死なない体。太古から伝わる不死の怪物のようだった。
「すばらしい!」マーディアスの歓喜はさらに高まった。
- 22 -
そのとき、レジェンの周りに、ふっ、ふっ、ふっ、と何か白い煙のカタマリが続けざまに浮かび上がった。今まで彼の肩をふわふわしていた煙の動きも激しくなっていた。レジェンがそうなるのを、待ちかまえていたみたいだった。
「いかん……」トウラが、うめいた。「レジェン君は、破滅する。おそらくはもう止められん……」
「どういうこと……?」へたり込み青ざめたまま、あたしは尋ねた。
「真実の石がもたらす破滅には前兆があるのだ。今までに破滅に追いやられた者どもの霊魂が、新たな所有者を同じ破滅に導こうとする……あの白い煙は、まさしくその悪しき霊魂だ。彼らは、レジェン君の心に生まれた負の感情に寄り集い、煽り立てている。新たな仲間が増えることを、心待ちにしているのだ……」
「そんな……」
恐れていたことが起きてしまった。レジェンには破滅がもたらされてしまうのだ。やっぱり、真実の石は手にしてはいけないものだったんだ。
あたしは絶望しかけていた、だが賢明なるトウラはあきらめずにまだ頭を巡らせていた。すぐに決断し、あたしに叫んだ。
「おぬし、〈三号筒型退魔法陣〉を描けるか?!」
「え……」
「描けるのか?!」有無を言わせぬ声だった。声に押されて、あたしはよろよろと立ち上がった。
「えっと、……南なら、なんとか」
「よし、今すぐ南底礎陣を描け! わしは北底を描く! きやつの背の高さより大きく描くのだぞ、精いっぱい手を伸ばせ!」
〈筒型退魔法陣〉は、ふたりで作成する立体の魔法バリアだ。ふたりの魔法使いが相対して立ち、自らの前面の空中にそれぞれ円形の魔法陣を描くと、双方の魔方陣の間の空間を筒型に切り取り、その空間から人間以外の魔力や霊力を持った存在を完全に排除する。ふたりぶんの力を相乗する分、その効果は非常に高い。ただし魔石の消費も膨大だ。
あたしとトウラは、正しく南北に位置して、レジェンを間に挟むように立った。
レジェンはといえば、剣を投げ捨てたマーディアスと揉み合っていた。マーディアスは、力ずくで真実の石を奪い取ろうとしていた。彼は相変わらず、自分が石を手にするべきだと信じていて、一方で、自分が真実の石に滅ぼされる可能性など、微塵も考えていないようだった。
あたしは虚空に魔法陣を描き始めた。退魔法陣なんて二三度実験で描いただけで、うろ覚えだ。思い出せ、思い出さなきゃ。レジェンを破滅させたくない。あたしの耳に「クオレは、絶対負けない」という言葉がよみがえった。
もみ合うレジェンとマーディアスの頭上、ドームの天井付近に、白い煙のカタマリが新たに浮かび上がった。むくむくと入道雲のように膨らんでいき、大きくなるにつれ、彫りの深い壮年の男の顔立ちにはっきりと変化していく。その顔の口がゆっくりと開いて、何か言葉を発した。意味を成さぬ、ドームの空気を鈍く震わすだけの声だったけれど、それを聞いたとたん、魔法陣を描く手がかじかむほどの寒気が心の中に入り込んできた。石よもういいだろう、かの者に我々と同じ破滅をくれてやれ―――そう言っているようにしか、思えなかった。あの顔は、いったい……?
トウラが叫んだ。「狂王ブカサドだ! ヤツほどの妄念が取り憑いたら、二度と正気には戻れぬ! 取り返しがつかなくなるぞ! 急げ、娘!」
何体かの悪霊はすでにレジェンに取り憑いていた。体の周囲にまとわりつき、目を覆い、鼻を覆い、口から中に入り込んだ。そのたびに、レジェンの表情が醜く歪んでいくように見えた。……もしかするとそのせいでレジェンの容赦がなくなったのだろうか、レジェンがマーディアスを荒っぽく蹴倒して、揉み合いに決着がついた。
「こいつがほしいのか? あ?」
レジェンは、曇る瞳で、マーディアスに真実の石を突きつけた。
「ほしいだろうな? すばらしい石だ、まったくな! 真実の方が、真実になることの方が、そりゃあうれしいさ!」
違う! ……あたしは心の中で悲鳴を挙げながら、魔法陣の最後の仕上げをしていた。
「くれてやるよ」声もまた、肺から血を喀くかのように濁っていた。「真実を」
嘘でいいの。レジェンは嘘でいいの。どこまでも他愛のない嘘で、いいの。
「さぁ。オレが、これから言うことは、真実に、なる」
……嘘よ、全部嘘!
「てめぇなんざ、」
「き」
「え」
「て」
「し」
「ま」
「描陣完了! 発動せよ!」あたしとトウラが同時に叫んだ。筒型の空間が、中心の軸から金色に輝き始める。その直径は勢いよく広がり、描いた魔法陣の円周と同じ大きさに達し、魔力に満ちた退魔空間がレジェンを包み込んだ。
トウラの狙いは的中した。魔法の効果で、レジェンにまとわりついていた悪霊たちは、すべて退魔空間の外へと弾き出され───真実の石もまた、レジェンの手のひらからこぼれ落ちた。レジェンが最後に発した「え」の声は、石に伝わらなかった。
いったん退魔空間ができてしまえば、もう大丈夫だ。「レジェン!」あたしはその中に飛び込んで、レジェンを抱きしめた。レジェンは、……レジェンは、あたしの腕の中でぼろぼろと涙をこぼした。「ありがとう、クオレ」レジェンは言った。「ごめん、クオレ」レジェンはその言葉もつけくわえた。
傷は確かになくなっていたけれど、あれだけ血を流したのも確かだ。レジェンの顔色はひどく悪かった。あたしは、レジェンに肩を貸して、空間の外へ連れ出し、壁際で回復魔法を施した。レジェンは泣きじゃくりながら、ありがとうとごめんを繰り返していた。なぜ彼が泣くのか、なぜ謝るのか、わかるような気も、わからないような気もした。
- 23 -
一方で、真実の石は落ちて地面を転がり、ちょうどドームの中心点で止まっていた。マーディアスが見境なく追いかけ、飛びついて拾い上げた。
「やった! やったぞ、ついに真実の石を手に入れた……っ!」
それ以外のものは、彼の目にも耳にも、もはや何も入ってはいかなかった。周りに、レジェンから離れた悪霊たちがわっと押し寄せたことを、彼は理解していなかった。
「私が、私が望むのは、そうだ、まず私をヤツと同じに不死の体にしてくれ! 傷など一瞬で直るようにしてくれ!」真実の石はぎらりぎらめいた。「かなったのか? かなったのだな? はははははこれでもう怖れるものなど何もないぞ。あとはゆっくり、ゆっくりとな。何を望む? 何を願う? 何を真実となす? あぁ、いざとなると言葉が出てこぬ……魔法の復権? そんなことはどうでもいいことだ。どうにでもなることだ。私は、私の、私だけの、誰にも思いつかない、誰にもまねできない、歴史に残るような、それを聞けば誰もが私のことを思い出すような、すばらしく偉大な望みを、いくつも、いくつも、いくつも、実現して、真実になる、まごうことなき真実になる、ははは、……石は私の手にある、不死にして不屈の私の手にあるのだ、二度と手放さぬ、誰にも渡さぬ、私のもの、私の願い、すべては真実になるのだ!」
狂王ブカサドの霊が、ゆっくりとマーディアスの頭上に降りていった。
「はは、はは、」マーディアスは、顔をゆがめて笑い続け、
そして言った。
「私は、私は、……月を掌に乗せてもてあそぼうぞ!」
マーディアスに、破滅がもたらされた。
幾度となく鳴り響いた銃声、大声、そういったもろもろが、もともと弱く落盤を繰り返していた断層を刺激していたのだ。
本当に真実の石の呼び起こした災いだったのか、ただマーディアスの笑い声が引き金になったのか、それは知らない。
ドームの天井が崩れ、あまたの悪霊に囲まれた男の頭上に───その頭上にだけ、巨大な岩が降り注いだ。砂埃が、舞い上がる。笑い声が甲高い悲鳴に変わり、埋もれて、消えた。
……マーディアスの言葉は真実となっていた。すぐさま部下たちによって掘り出されたとき、彼は生きており、しかも無傷だった。だが瞳はいつまでも虚空をさまよっていた。口元からはよだれが垂れ下がっていた。正気を失い、顔に貼りついたままの欲望にゆがんだ薄ら笑いを、彼は永遠に解くことはできなくなったのだ。トウラの知るいかなる回復魔法も効果はなく、彼が二度と意味のある言葉を発することはなかった。
彼の手からこぼれ落ちて、再び転がっていった真実の石は、音もなくいずこかへと姿を消していた……。
- 24 -
「君たちも早く脱出したまえ。また落盤が起きるかもしれない」
と、トウラは言い、白墨で地面に長距離空間転移の魔法陣を描き始めた。
複雑な術式を、慣れた手つきでためらいなく描いていく。その顔は、高揚と落胆に疲れ果てていたが、晴れやかな笑みも薄く重なっていた。幕切れがどうあれ、長い旅の終わりに安堵していた。
魔法陣を描き終わると、彼は部下どもをその中に集めた。マーディアスは、その中のひとりが担ぎ上げた。
「床につかせるくらいの義理はある。このまま、宿か病院のある町まで跳ぶことにする。本当に、すまないことをした……」
そう言って、トウラは深々と頭を下げた。
多数の人間を長距離転移させるには、相当の魔石が必要だ。それを指摘しようとしたあたしを、トウラはさえぎった。
「閣下から賜った魔石を使い切りたいのだ。彼のために使う魔法はこれが最後だろうからな。浪費だとは思うが、これもけじめだ」
魔法が発動し、魔法陣が光を放ち始めた。転移が始まり、トウラたちの姿が少しずつ薄れていく。
去り際に、トウラはぽつりとつぶやいた。「もしかしたら、真実の石は、レジェン君のような持ち主を、ずっと探していたのかもしれんな。我々は、愚かだった……」
魔法陣の光が消えると、後にはあたしとレジェンが呆然と残された。
坑内のドームに、ふたりきり。隣に立つレジェンを見上げると、彼はなんだか照れくさそうに、そっぽを向いていた。頭をかくようなしぐさで手を頭の後ろに回す。
帽子もシャツもベストもぼろぼろの血まみれ、折れ曲がった保安官バッジ、傷や体力は魔法で癒えているが、痛々しい姿であることには変わりない。はやく、元のレジェンに戻してあげたかった。
「あたしたちも、戻ろっか」あたしはつぶやいた。「魔石、足りるかな」
トウラにもらった魔石は、退魔法陣でほとんどが消費されて、あとは豆粒大のものが残るだけだ。あたしとレジェンを空間転移するに足りるかどうかあやしい。足りなければ、歩いて帰るしかないが、外は大雨のはずだ。耳を澄ますと、坑口から、かすかに雷鳴が聞こえた。傘なんかないから、ずぶ濡れで帰るしか……。
あたしははっとした。あの雨はレジェンが真実の石で降らせたものだ。石が消えた今もなおその効果が切れないとなると、……もしかして、永遠に降り続くのだろうか?
すると、「大丈夫だよ」レジェンが相変わらずそっぽを向いたままで言った。
「ここはもう、イナの店なんだから」レジェンの帽子の中から、きらりきらめく光が放たれた。
……あたしたちは、言葉通りに、イナの店の玄関口に立っていた。
土砂降りの雨が、軒や地面を叩いている。まだ日が傾き始めたくらいの時間のはずだが、垂れ込める雲の下、町中が夜のように暗かった。イナの店の中からは、畑仕事ができなくなった町の人たちの、早々にのんだくれてくだを巻く声がした。
まぎれもなく、空間転移で戻ってきたのだ。……あたしは目を丸くした。
「……なんで?」
レジェンは黙って、先ほどから後頭部に触れていた手を、首からぶら下げたつば広帽の中に差し入れ、
……真実の石を、取り出した。
「元に戻るとこは、元に戻してやって、くれないかな」レジェンは石にささやいた。「ついでに、オレも、死ねる体に戻してほしい。元に戻すのもたいへんだと思うけど、そこんとこ、ヤな顔しないでよろしく頼むよ」石は、きらりきらめいた。
突然雨が止んだ。雲が切れ、薄日が差してきた。レジェンの姿も、服も、折れ曲がった保安官バッジも、元通りに戻っていた。この半日の間、まるで何も起きなかったかのように。
……イナの店の中から、おぉ、やんだか! と歓声がした。何人かは店の外に飛び出して、ぬかるみの中で陽気に小躍りを始めた。
「おやお帰り。どこへ行ってたんだい? あの連中は、もう帰ったのかい?」
イナばあちゃんも店の外に顔を出した。あたしたちの姿を見つけて不思議そうな顔をしたが、深く考えることはないようだった。
「それにしてもいいおしめりだったねぇ! もしかして、あんたが魔法でやったのかい? あっはっは、まさかね、あんたにそんな大それたことできるわけないよねぇ」
勝手に決めて、返事を聞きもせず、今度は、外で踊っている連中を怒鳴りつけた。
「ほぅらあんたたち! どろんこ遊びはいいかげんにおし! 酒手踏み倒して逃げたりしたら承知しないよ!」
……何もかもが笑い話になったようだった。この町は、ずっとそんななんだろう。
それより、あたしは目を見張っていた。今日はいろんなことがあったけど、驚いたというのではこれがいちばんだった。レジェンの手の中にあるものは、紛れもなく、マーディアスを破滅させて消えていったはずの、真実の石だ。
「どうして……消えた、はずじゃ……」
「答は簡単」レジェンは言った。
「おれが落とし物入れでこいつを見つけて、最初に言ったことは、『キレイだなぁ、こんなキレイな石がもう一つあったら、クオレにプレゼントしてやるのに』だったってこと。……ホレ、やる」レジェンはあたしに真実の石を押しつけた。
こころなしかうれしくなさげに、レジェンは最後にこう言った。
「真実なんてものは、ポッケに入れておくくらいでちょうどいいんだよ」
- 25 -
しばらく経ったある日、あたしのもとへ一通の郵便が届けられた。差出人は、トウラだった。
挨拶文や謝罪文の後に続いて書かれていたのは、真実の石が手に入らず残念至極、魔石の枯渇は変わらず深刻で、魔法文化の未来はなお暗い、といった愚痴だった。
今回の一件について、トウラは、すべてを隠蔽することにしたそうだ。むくろ同然の姿で戻った雇い主に、さらに恥を塗ることはないと、部下たちにも重々言い含めたらしい。だが、彼が失敗したことだけは広く話が伝わり、真実の石探索熱は一気に冷めてしまったという。どうやらトウラも他の魔法使いも、いや、魔法の歴史そのものが、真実の石は複数存在しうること、望めばいくらでも分割できる存在であることに、まったく気づいていないらしかった。
それはそうだろう。真実の石を手にした者は、その力が自分以外の者の手に渡るなど決して望まないだろうし、真実の石を知る者は、真実がふたつあっては困るから、そんなことはありえないのだと誰もが思い込みたがる。
無限の魔力を持つ真実の石をうまく使えば、魔法の復興などすぐになされるだろうと想像はできたが、あたしはすべてを胸のうちに秘めることにした。
そんな魔法談義の後に、本題があった。
マーディアスの実家が、彼の散財がもとで、ついに破産したこと。したがって、トウラが解雇されたこと。どうにか次の奉公先を見つけたものの、そこは彼の高齢を難渋しているらしいのだ。後継者を育成すること、が、採用に際して彼に課された条件だった。しかし都会では、もはや魔法使いになりたいと望む子供はいない。みんな銃を構える兵隊にあこがれている。そこでトウラはあたしに白羽の矢を立てた。……先だっての非礼は重々謝罪する、都に来て、魔法の研究をしないか、と。
あたしはその手紙を、黙ってレジェンに見せた。
読んだ後、レジェンは言った。
「オレ、明日から風呂に入るのやめるわ」
「……?」
「そうしたら、都までニオイが届くだろ」
「バカ!」
あんまりな言いように、あたしはレジェンをひっぱたいて、……そうして、旅立つことに決めた。
- 26-
閉山のあおりで、鉄道の敷設は隣町までで途切れていた。あたしたちの町の方へ、大きなバッテンを描いた車止め。逆方向、荒野のはるか先へ、細いレールが伸びている。
よそゆきの服に身を固めて、あたしは駅のホームに立った。リボンのついたカンカン帽に、大きな革鞄。きっとアンバランスで、似合っていないんだろうけど、そんな背伸びを、今はしなきゃいけないような気がしていた。
レジェンを先頭に、町のみんなが、見送りに来てくれた。花束はなかったけれど、このあたりにしか生えない小さなサボテンの種苗をせんべつにもらって、あたしは列車に乗り込んだ。
汽笛が鳴り響き、出発を告げた。
汽車の動輪が、がしゅ、がしゅと重たげに音を立てて回り出す。小さなキティとラディが、ホームを飛び降りて競走を始めた。レジェンも一緒になって走り出す。大きく両手を振りながら、おさなごふたりを追い抜いていく。
あたしは、車窓から、見えなくなるまでレジェンに手を振り返していた。見えなくなって、腰を落とした。開業直後の物珍しさが消えた列車に乗客は閑散としていて、コンパートメントにはあたしひとりしかいなかった。
レジェンの嘘を喜び、レジェンの破滅を心から怖れたあたしが、いま、レジェンの居場所から去っていく。あたしはきっと、あの町に二度と戻らないだろう。ふるさとを捨てたひとりの若者に、成り下がる。
駅も町も荒野の向こうに消えてしまったあと、もうひとつのせんべつ、レジェンにもらった真実の石をポケットから取り出して、窓際の小さな卓に、サボテンの鉢といっしょに並べた。
陽光を瑠璃色に乱反射する真実の石を透して、モザイクに刻まれた外の荒野をじっと見つめ続けた。
レジェンが、町のみんなが、世界中の人たちが、ずっとずっと幸せでありますようにと、あたしは小さな声でつぶやいた。
真実の石には、決して、手を触れることなく。