8 かぐや姫の憂鬱
「少し、言い過ぎたでしょうか」
開け放たれた扉に目を留め、香月は息をついた。
「いいんじゃない? あのくらいおどしておけば」
「彼女は思いこみのはげしい子です。無茶なことをしなければよいけれど」
「警察だって見回りを強化するでしょ? 徘徊してればすぐに補導されるわよ」
「さてと」と言って、小笠原もソファから立ちあがる。
「あたしも行くわ。なにかわかれば知らせるから」
「吉報をお待ちしております」
ヒラヒラと手をふり、スーツの背中は扉のむこうに消えた。
ほぅ、と息を吐き、けだるげに背もたれに身をあずける。冷えた紅茶に目をとめ、その琥珀色の湖面に視線をそそぐ。
――龍。
あなたが居なくなって、もうひと月も経つのね。
わたくしのかわいい弟。そして、青龍家屈指の符術士。足が不自由とはいえ、彼は自分のささえとなってくれていた。
失ってから気づくもの。
――わたくしも、愚か。
いそがしさにかまけ、身近にあるものをおろそかにした罰。弟のこころの闇に気づくことができず、結果的に一番大事なものをなくしてしまった。
彼の消えたこのひと月、ぽっかりと内側に生まれた空洞は、いつだってこの身をのみこもうとする。時とともにひろがり、苦しみから逃れたいと渇望する心をとどめているのは、東家直系の血を絶やすべからずという責任。科せられた鎖を、もはやより所としている。
だからかもしれない。
春日日和という人物でなくてもよかったのかもしれない。
許嫁などというつながりに、すがりついただけかもしれない。
だれかに龍の代わりをつとめてほしかった。
自分の近くにいてほしかった。
自分がこんなに弱い存在だなんて、思っていなかった。
「駄目ね」
物思いにふけると、とたんに弱いこころがでてくる。
こんな事では駄目。
歯を食いしばってでも生きねばならない。
龍を手にかけたのは自分。
咎は自らの手で贖わねばならぬ。
だれかにゆるしを乞うべきではなく、生きつづけるかぎり背負わなければならない緋色の十字架。たとえその重荷に胸が押しつぶされようと、なすべき事は果たさねばならぬ。
チチチ、とさえずる声に、物思いは中断された。
窓辺に、一羽の鳥らしき影がある。
椅子から立ち上がる。
香月が近づくとすぐに羽ばたいて離れてしまった。
真昼の日差しに目を細め、細い指で押し開く。
チチチ。 チチチチ。
チチチ。 チチチチ。
チチチチチ。 チチチ。
無数の鳥。
――ではない。
鳥を模した札にかりそめの命を吹きこまれた百羽に及ぶ式符の群れ。窓の外を埋めつくすように羽ばたいている。
鳥と呼ぶには薄く、たよりない羽根の中央には、まぶたをもった巨大な目玉がせわしなくまばたきをくり返す。
手をさしのばすと、一羽がその指に止まる。
瞳を閉じる。
濁流のように流れこむ映像。
式符の視た、あらゆる光景の一切がもれなく意識へ流れこんでくる。
暗い路地。家屋のなか。下水道。ビルのダクトシュート。
ふつうの目で視ることのできない偵察隊は、すみずみまで街に忍びこみ、あらゆる情報を式主につたえる。
指をはらって式符を追いはらう。
「――狡猾な」
これだけ式符をとばしても尻尾さえつかませない。
索敵の範囲を広げるべきだろうか。
――結界を張っているのやもしれぬ。
あれはみせしめ。
ただの殺人鬼なら、あんな場所に死体を置き去りにはしない。
犯人は、近い場所から愉快に事態をながめているはず。
あきらめてはならない。
仇をとると、約束したのだから。
「ゆきなさい」
香月が告げると、式符の鳥たちはくもの子を散らすように四方へ飛んでいく。
残されたのは、変わり映えのしない景色。広大な敷地の向こう、音のしない街並みで営まれる、平穏という日常。
つむじ風が吹きこみ、黒髪をなびかせた。
目を伏せて、ほつれた髪をはらう。
窓の桟に指を添わせ、誰にも聞かれないよう、つぶやく。
――わたくしは、かぐや姫。
物語の中の彼女も、飽きることなく、窓から外を眺めたのだろうか。不可能を可能としてくれる殿方を待ちわびて、けれど果たされることがないと知り、定めのままに月へ戻ることを選んだ。
宿命を、受け入れた。
――”かぐや”は、わたくし。
どれだけ手を伸ばそうと届かない景色に思い焦がれる。
がんじがらめに巻き付いた鎖の束が、望みのすべてを拒絶する。目の前の平穏な日常すら、この身には過ぎたもの。
吹き込む風に身をさらし、彼女はしばらくのあいだ、外に広がる景色を飽くことなく眺めつづけた。




