第五十三話
天上の運命と地獄、そして勇者カタリの決戦が行われようとしているほんの少し前の話だ。
バレスティア黄金帝国の首都エストリムにて、三月恭子――勇者として召喚されたはずの少女は狂乱のさなかにいた。
もはや何者も自分を縛るものはいない。自分は力を手に入れた。
誰にも侵されない、誰の拒絶も受けない。そんな無限の力だ。
言いようのない絶頂と多幸感が彼女を包む。
ただ、一点。彼女には大切な友達からお願いされた用事があった。
それは、多くの人々をゾンビ――友達にし、小さな地獄を創りだして欲しいとの事だった。
三月恭子はそれがどのような意味を齎すのかは理解していない。
ただ、彼女の友人がそういうのであればそれは常に正しいことなのだ。
友達のために何かをするのは当然だ。
彼女はひどく狂っていたが、冷静な判断を下せる程度には理性が残されていた。
バレスティア黄金帝国、祝祭の広間。
普段ならば風光明媚なその景色が人々に帝国の威風を知らしめ、同時にその卓越した都市造形と憩いを与える観光地。
その場所は、死者の群れで溢れかえっていた。
それらは殆どが恭子に対抗しようとした愚かな勇者や戦士、兵士たちなどであったが、中には天使までもが居た。
それらが踊り狂っている。
「皆さん! もっともっと踊って下さい! 皆仲良くしましょう! 死んでしまえば皆友達です! もっともっと、もっともっと楽しみましょう!」
どこから用意したものか、恭子がマイクで死の群衆に語りかけると、意志のない瞳が歓声を返す。
それはまるでアイドルのライブステージを思わせる熱があったが、同時に人として正常な存在は一人たりとていなかった。
果たして何をしているのだろうか?
上空を舞う天使すら、その異様な光景に手出しを躊躇し観察に徹している。
近づくことは出来ない。地上に下りようものなら溢れるゾンビに襲われ彼らの仲間入りだ。
上空から攻撃しようとも恭子の不可思議な魔法と能力によって同じ末路を辿る。
ただ呆然と観察することしか出来ない。
世界中が戦乱に巻き込まれた最中であって、不思議なことにその場所だけが争いのない空白の場所と化している。
そんな奇妙な光景が続いていた。
やがて不思議な現象が起きた。
それは突然だったのか、それとも何かしらの存在の意図するところであったのか、空が血のような朱に包まれ、大地が腐り始めたのだ。
建物が秩序を失ったようにいびつに変形を起こし、あちらこちらで不気味な唸り声を上げる。
天使が困惑し、驚愕し、目を見開き、ようやくこのふざけた宴会が何らかの儀式だと気づいた頃には、すでに手遅れだった。
――この世界には、共感魔術という物が存在する。
それはある種の原始的な法則に基づいて行われる、もっとも古い魔法だ。
あらゆるものは、同じく似た何かによって影響を受け、同時に影響を与える。
雨乞いのために大地や人形に水を撒くといった行為に代表されるそれは、最も簡便で最も世界の法則に根ざしているものだ。
そう何かを真似するということは、そこに何かを呼び寄せるということも意味している。
地獄を真似たのであれば、地獄が噴出するのは道理であった。
腐った大地から門がせり出してくる。
恭子はわーっと可愛らしく叫びながらファンのゾンビに抱えられて被害の及ばない場所まで逃げる。
現れたその門は、異様そのものだった。
どの様な精神であれば、このような意匠を思いつくのであろうか?
悪魔や死者と思わしき様々な生物が彫られ、正面の目立つ位置には何かを考える様に座り込む男性の彫像が彫り込まれている。
その像の名前は、考える人と言った。
かくて地獄の門が開き、亡者が溢れだす。
遠目に狂乱の様子を観察していたバレスティアの人々は驚愕に目を見開き、慌てて被害を受けないであろう場所へと逃走を開始する。
当然逃げ遅れる人々も現れる。
溢れだした亡者が波の様に世界へ浸透し、やがて人も大地も満たされない飢餓の糧としてくらい尽くされようとしたその時、異様な事態が起こった。
本来ならば人々にとっての敵であるはずのそれは、迷うこと無く天使を攻撃し始めたのだ。
失われたはずの魔法、次ぐ者のいなくなった技、この世界では生まれなかった武器。
ありとあらゆる攻撃が我が物顔で空を覆う天使たちを撃ち落としていく。
たまらず地上に降りた天使たちも末路はさほど変わらない。
延々と湧き出す亡者の波に押しつぶされ。血と臓物をまき散らしながら霧散していく。
白金に輝き、聖堂教会の聖書では世界でもっとも美しいとさえ評される天使。
それらも、肉塊となってしまえば見分けはつかなかった。
どこかで天を統べる存在が激昂する。
同時にこの状況を引き起こした存在の嘲笑が流れてきた。
地獄の亡者は、天の軍勢に対する憎悪でまみれていた。
天に対する反攻の狼煙が上がる。
ここに戦力は拮抗し、世界はその未来を紡ぐための一筋の希望を得たことになる。
◇ ◇ ◇
だが、それはフローレシアが存在する世界での出来事。
日本が存在するカタリの故郷たる世界では依然として人類は劣勢に立たされている。
否、天使たちの攻勢は苛烈さを増して人々に振りかかっていた。
この世界にて天使の軍勢がすべて滅ぼされようとも、向こう側の世界にて天使が勝利し世界が破滅すればそれで彼らの勝利だ。
天使たちはそのことを十分に承知していた。
地獄の門の召喚に共感魔術が使われた様に、世界もまた共感している。
2つの世界の片方でも死滅すれば、覆しようのない根源的な法則を持って、もう一つの世界も崩壊してしまうのだ。
現在世界にはもはや科学技術の粋を持った機器ですら計測が困難なほどの天使が出現している。
人口密度が多い都市部はもちろんのこと、すでに天使の大群は地方まで進出しており逃げ惑う人々をその文明の証しごと粉砕している。
各国の軍隊は効果ありと認められた実弾兵器以外の光学、衝撃兵器などをかき集めてなんとかその勢いを削ごうと奮戦しているが焼け石に水程度の効果しかもたらさない。
天使の大群は、人類を根絶やしにしようとまる害虫でも駆除するかのように殺戮を繰り返している。
すでに各都市の主要な施設は破壊されてその機能を喪失し、人々が避難する強固なシェルターにさえ攻撃が行われている有様だ。
人々が空を仰ぎ見る。
晴天だったはずの空は、天使の大群でうめつくされており、もはやあれほどに眩しかった太陽を拝み見ることすらできない。
人類は絶望に包まれ、天使の顔が喜悦に満ちる。
だが人類がこの程度で滅びるであろうか?
過去様々な困難に見まわれ、それでも立ち上がり、足りないとばかりに自らで殺しあっていた人類が、来るとわかっていて尚指を咥えてこの時を待っていたのだろか?
「ははは! 朽ちよ人間! 朽ちよ文明! 我らが手ずから最後の審判を下してやろう!」
天使の軍勢を指揮する大天使が、偉大なるその名に似つかわしくない下品な笑みを浮かべて人類を罵倒している。
天使を傷つけるものはない。
人々が反抗できる余地など無い。
今回の功労で自分は更に高位の位階に上り、より多くの天使たちの羨望と崇拝を集めるのだ。
10の軍団と100万の天使を統率し、日本の破壊を命じられた大天使は自らの勝利を信じて疑わなかった。
人類は無力なのか?
――先の疑問の答えは、一発の銃声によって明らかになった。
「さぁ、頭を垂れて自らの運命を受け入れるが――」
一人の天使が逃げ惑う人々を睥睨し、魔法を放つために手に持つ槍を掲げたと同時であった。
一発の弾音は、やけに煩く響き渡る。
純白の羽が舞い。鮮血が飛び散る。
唖然と自らの胸元に空いた穴を見つめるのは、先程まで絶対的強者であった天使の一人だ。
ぐるりと白目を剥き、まるで猟師に撃たれた鳥の様に無様に落ちていく。
戦場に居た誰もが、信じられないと言った様子で眺めていた。
だが、
「な……に!?」
風切り音が連続して鳴り響く。
あれほど無慈悲に人々を脅かした天使が、まるで羽虫を叩き落とすかのように撃ち落とされていく。
指揮官である大天使は自らの額に飛翔する何かを剣で打ち払うと、くるくるとどこかに向かって弾き飛ばされようとするソレを慌てて手に取る。
それは、彼にとってはなんの変哲もないただの弾丸であった。
「これはっ……!! しかし……!!」
大天使は困惑する。
今でも仲間の天使たちはどんどん数を減らせていっており、目に見えてその圧力は減じている。
こちらの世界における兵器は恐ろしいほどに正確にその目的を果たす。
恐らく距離にして数キロは先になるであろう発射場所より正確に天使の額を狙撃してくるのだ。
「なぜだ! なぜ神の加護を受けし我々が死ぬ! 魔力を操れない貴様らの、変哲もない鉄の礫に! なぜ我々が傷つくのだ!」
今までは魔力を持たない鉄の塊ゆえに笑っていられたが、ことそれが天使の肉体に傷つけることが可能となると話は別になってくる。
それは精強なる彼らの軍をもってして、なお敗北を予期させるものだ。
だが、腑に落ちない。
なぜ魔力や魔法と言った物が存在しないこの世界で、天使を傷つける方法を得たと言うのか。
『マニ車ってご存じですか?』
「誰だ!?」
大天使は慌てて周囲を確認する。だがその姿はおろか気配すら感じない。
その言葉はどこからとも無く響いてきた。
大天使の彼は知る由もなかったが、それは狙撃場所より志向型の拡張器で放たれる言葉であり声の主は本堂叶と呼ばれる少女――勇者カタリの妹だった。
『チベット仏教に伝わる経典を彫ったありがたい仏具でして、くるくると回転させるだけで経典を唱えることと同じ効果があるんですよ』
「な、何を言っている! いや、そんな馬鹿な……」
その声は至極楽しそうだった。
まるで出されたなぞなぞの答えがわかり、出題者に正解を確認しているような、そんな無邪気な声音。
事実、叶がその天使に声をかけたのは特に意味は無い。
強いて言うのならば、彼が浮かべる驚愕の表情と、絶望のまま死にゆくさまを眺めたいというひどく嗜虐的なものだ。
『性能の評価が出来ていない不安がありましたが、十分効果がありましたね。レーザー刻印によって顕微鏡レベルで刻まれたあらゆる宗教の退魔経文。毎秒百万を優に超える回転数から生み出される滅法はいかがでしょうか?」
「お、おのれぇぇぇ!!」
神秘を強引に科学でねじ伏せるその所業。ありえぬ手法に大天使は憤怒の叫びを上げる。
同時に弾丸の雨が飛来した。
一体どこに隠していたのか、どこからとも無く破壊した兵器群と同じ兵器がまるで蝗の大群のように湧いてくる。
呪法により蒼く発光しながら天使の命を狩る弾丸は、もはや只の礫ではなく死を齎す雨だ。
「まさか、私が密かに研究していた対お兄ちゃん救出用の武装まで利用されるなんて……。悔しいけど、一本取られたと言っておきましょうか」
聞く者のいない無機質な機械蠢くその場所にて叶は一人口を尖らせて己の不満を吐露する。
当初彼女の目的は異世界に囚われた兄の救出だった。
独自のネットワークとその類まれ無い才能を持って、兄の居場所を突き止めた彼女は最終的に異世界すべてを敵に回すつもりで軍勢の準備を行っていた。
魔法世界に対して致命的ダメージを与えうる特殊能力を有した兵器の製造開発。
それらは一部の者しか存在を知らず、何らかの目的を持って異世界へと本堂カタリを送り出した彼女の家族に対して完全に隠し通せていると踏んでいた。
だがそれすらもどうやら掌の上で踊らされていたらしい。
本堂家の女性に漏れずプライドが高い叶はその事実を知るや激昂する。さりとてもう一方の冷静な部分が彼女を凶行に走らせるのを止めた。
目的は兄の救出なのだ、他のありとあらゆる事柄はすべて付随する枝葉でしか無い。
彼女は自らの目的を履き違えるほど愚かではなかった。
「とは言え、不満のぶつけ先があるのは幸いでした。必殺マニ車弾の製造データも同盟国に送りましたし、程なくして世界は救われちゃうのです!」
世界中からリアルタイムに共有される戦況データが刹那の速度で計算され、人類が勝利する確率を数値としてはじき出す。
「重畳、重畳……」
電子の光だけが忙しなく点滅するコントロールルーム。
急速に上昇する文字の羅列を眺めながら、本堂叶は愛しい兄と再開する日を想像しながら心底楽しそうに笑った。
ここにカタリの故郷における人類による反撃の狼煙がようやく上がり、彼ら天使にとっての終末のラッパが高らかに鳴り響いたのであった。
◇ ◇ ◇
戦況は大きく傾きを見せる。
一見すると変化は内容に感じられるが、勝利の旗はその色を替え少しずつであるが天の軍勢は数を減らしていく。
門からは随時新たな天使が供給されているが、それも限界が訪れたのかだんだんと数は減り今や散発的に顔を覗かせるだけだ。
一方地獄の門からは今も亡者がこれでもかと溢れだし、新たな獲物を嬉々として屠り大地を赤く染め上げている。
勝敗は決したも同然だった。
やがて唐突に天の門が掻き消える。
どの様な意図があったのか、もしくは諦めたのか。
天上の運命が門を維持するための魔力を遮断したのだ。
日本側では今までの劣勢が嘘の様に天使たちが駆逐され、フローレシア側でも帰る場所を失った困惑に動きを止めた天使たちが地獄の亡者に囚われて急速に瓦解していく。
空を埋め尽くした天使の軍勢はこうして敗北した。
天上の運命は怒り狂っていた。
すべてが自分の思い通りに行くと考えていた彼は、今まで失敗ということを体験したことのなかった。
それはすなわち神の加護であり、自らが神に許されたという傲慢な思い込みが彼にはあった。
膨れ上がった自尊心と傲慢さは、前後不覚になるほどの怒りを彼にもたらした。
暴走した神の代行者は最終手段に出る。
それはすべての元凶、ありとあらゆる可能性の発露、
本堂カタリの抹殺だ。
天上の運命が自らの意志を貫き通すのならば、彼を殺す以外に方法はない。
特異点でありすべての原因である本堂カタリを殺さなければ、彼の存在そのものが否定されてしまう。
無様で愚かしい思考は、かつての叡智に満ちたそれとは対照的にもはや一欠片の輝きさえ残されていない。
やがて絶叫が世界を迸る。
大地も、空も、亡者も人も、残った天使さえも巻き込み発生した強大な魔力の竜巻はやがてすべてを飲み込むかのように終息する。
同時に時空が軋み、歪む。
人知を超えた存在の降臨に世界ですら悲鳴を上げた。
――天上の運命。
すなわちそれは光り輝く神の国の蛇。
直径や、大きさなどを測るのも馬鹿らしくなるような巨大さ。
鱗はソレ一枚が家ほどの大きさもあり、金剛石を超える強度はどのような武器を持ってしても傷つけるのは困難だ。
虹色に輝く瞳は点滅を繰り返し、その度に別種魔力がその呆れ果てる程に長い身体から実体を伴って溢れ周辺を破壊していく。
声は世界へと届き、その力は無限大にも思える。
過去、今、未来。
そしてあらゆる時間軸と可能性の世界。
神を代弁し、全てを自らの意のままに操ってきた存在はただ一人の男だけを見つめている。
視線の先には、人類すべての希望を背負った一人の男が居た。
「さーってと、本性を現わしやがったな!」
男の名前は、本堂カタリと言った。
「カタリ! 行くよ! これがいわゆるラストバトルだ!」
最後の戦いが、ここに始まる。




