第02話 少女奮闘中
陰府月の意識が暗闇から戻る。やはりそこは進路指導室の前だ。
退院以来、初めて見えたビジョン。心臓はマシンガンのように恐ろしく早く血液を送り続ける。
おそらくは病院という特殊な環境から、不安や恐れからビジョンが見えたのかもしれない。そしてそれがたまたま当たってしまった。そう思っていた。
しかし、兄の死以降もビジョンは見え続けた。
それも今となっては、過去のことだと思っていたのだが、
「ここにきて見えてしまうだなんて……」
『普通の女子高生』実に抽象的表現ではあるが、陰府月にとってはこのビジョンさえ見えなければ『普通の女子高生』になれるのだ。
通り魔に刺された兄、心臓発作によって死んだ廊下ですれちがったお婆さん、医療事故の重い責任に耐えられず自殺した医師、他にも多くの人の死を事前に見ていた。
しかし、陰府月はそれを阻止しようとは思わなかった。兄の死という傷心ゆえだけではない、しょうがないこと、そう思っていた。
自分に未来が見えるのだとしたら、なにをやってもその未来は変わらないのではないのだろうかと考えてしまったのだ。
心臓発作や手術室での医療事故など一少女の力でどうにか防げるようなものではない。そう、諦めていた。
でも、今のビジョンは病院で見たものとは違う。少年は考え事をしながら歩いたために、トラックに轢かれてしまった。
これなら、助けられるかもしれない。
もしかしたら、今まで見てきたビジョンは助けてもらいたかったのかもしれない。
私に阻止してもらうために見せられていたのではないか、彼女にはそう思えてきたのだ。
しかし、陰府月は咄嗟には行動できなかった。
示しがつかないのではないかと考えてしまったのかもしれない。
今まで阻止しなかった死に対して、なぜこの少年の死だけは阻止するのか、言い訳を考えなければならなかったからだ。
もちろん、そんな必要ないだろう。その力の意味を理解し、救おうと決意したならば、その時こそ行動に責任が伴うものだ。
しかし、陰府月にとって慕っていた兄の死は重過ぎた。兄を救えなかったのに見ず知らずの人間を今更救おうとする行動の理由がなければならなかったのだ。
しかも、期待を裏切るようなずいぶん身勝手な理由が必要だった。
陰府月は考えた。人の命は大切だから?違う。
今まで見捨てた人達への謝罪のため?違う。
兄は人を救うことを願っているから?違う。
彼女の頭に浮かぶもの全てが綺麗事、悲劇のヒロインが立ち直るストーリーに仕立て上げようとする。
違う。
違う。
違う。
自分は身勝手で、意地汚い生物なのだと彼女は改めて思えてきた。
どんな理由を思い描いても、それは過去の自分を正当化するものばかり浮かぶ。
「人間は可哀想な生き物……」
ふと兄の言葉が口から漏れた。頬を一筋の雫が伝う。兄の表情、仕草、声。それらが彼女の頭の中で本物のように再現される。
『可哀想だから甘えていいんだ、人間は己の不完全に存分に甘えていいんだよ』
「……が悪いから
……寝覚めが悪いから!!」
自分がこれから通う学校で人が死んでたら寝覚めが悪いから。
結局、それが答えだった。
今までビジョンで見えた人々は助けなかったにもかかわらず、自分の通う学校では死者を出したくはない。
身勝手な答えだ。正当化の説明なんてない。
それは、動き出すには十分なほど薄情な答えだった。
急いで玄関に向かうが少年は既にいなかった。
「道は憶えてる、大丈夫」
陰府月は急いで来客用の靴棚から取り出した自分の靴に履き替え、ビジョンの中で見た少年の辿った道を追いかける。
もともと、身体能力は高くなく、その上ついこの間まで入院していた身体だ。
少し走っただけでも、息切れが起きる。
「だ……ダメだ……このままじゃ……追いつけない……」
あと二つほど角を曲がれば、占い師のいた通りにたどり着く。
「はぁ……はぁ……ちょっと休憩……」
電信柱に両手をつき膝をまげて息を整える。しばらく動かないだけでここまで体力が落ちるものかと思いながら、自分の四肢を見た。
「ちょっとスリムになってるかしら」
ダイエットは当分必要ないことを確認して満足すると同時にまた走り出した。余計なことを考えられる暇ができたのだから、もう走れると判断したのだろう。
しかし、気持ちでは走れるが、肉体はそれに答えてはいなかった。
ようやく、占い師の通りについた頃にはもう両足には乳酸が溜まり、大通りまで駆け抜けるような真似はできない状態だった。
そして、既に少年の姿は見えない。信号も赤く光っている。
もう、あの少年は断頭台に首を突っ込んでしまっている頃だ。あの信号が青に変われば、彼の命は断たれる。
あの少年の命を救えることができるとすれば、それは自分にしかできないことだ、そう陰府月は確信し足に力を込める。
何とか追いつき、彼の命と自分の業を救済してみせる。陰府月の頭にはそれしか存在しなかった。
ようやく占い師の前に通り過ぎるころには、陰府月は限界を迎えていた。
目の前を、息を激しく切らしヨタヨタと過ぎ去る少女を見た占い師の目は奇異というよりは驚愕の色を示していたが、陰府月にはそんなことを気にする余裕はなかった。
目の前の信号の色が変わったのだ。
一刻の猶予もない。なんとか、彼を思考の檻から解いて、その歩みを停止させなければならない。
絶望的な状況の中、陰府月には救える確信があった。その少女は、彼の動きを止める効果的な方法を知っていた。
「そのラブレター書いたの私なんです!!」
陰府月は一度大きく息を吸うとそう叫んだ。信号待ちをしていた人々が一斉にこちらを向く。
その少年も例外ではない。むしろ一際驚きを隠せない表情でこちらを向いていた。
数秒、時が止まるような空気を肌で味わった。陰府月の頬は急激に赤みを帯びる。
そして、暴走したトラックが彼らの視界の外を通り過ぎた、誰一人轢くことなく。
未来は変わった。
二子木尊が死ぬという未来は変えることができた。
陰府月は安堵からアスファルトの上にしゃがみこんだ。
陰府月には分かったことがある。
ビジョンは正確な未来を映し出しているということ、そして、その結果を変えることができるということだ。
「私が干渉することで未来が変えられるってことね……」
「あっあの、さっき叫んでいたことってマジ?」
陰府月が顔をあげるとそこには、自分が命を助けた少年がいた。正面からは初めてみる姿だ。黒みの強い茶髪、整髪料はあまり使ってないようでボリュームは多くはない。
ある程度整った顔立ち、身長も自分よりはだいぶ高く、今時の高校生という印象を陰府月は抱いた。
「ええっと、すいません嘘なんです。それはもうあなたの飛び散った血液よりも真っ赤な嘘なんです」
余計な一言を加えると陰府月は、スカートの後ろを払いながら立ち上がった。
「えっ、あれ?じゃあ、なんでラブレターのこと……誰にも見られないようにしてたのに」
二子木はそういいながら、陰府月の全身をその眼に収めた。腰の近くまで伸びた黒髪にはっきりとした二重の大きな目、手足は細く白く、お嬢さんといった印象を受けた。
陰府月は言葉に詰まる。当然であった。自分は未来をみることができて、それによって知ることができたなど人に話してしまえば、頭のおかしい女と思われてしまう。
しかも、その話がこの男を通じ校内に広まりでもしたら、後の高校生活が危うくなってしまう。
かといって、一部始終を見ていたことだけを伝えても、なぜそれができたのか、まさかストーカーではないかと思われてしまっても困る。
せっかく、寝覚めが悪いために助けたにもかかわらず、こんなところでさらに寝覚めの悪いどころが、実生活上に悪影響を及ぼす出来事が起こりかねない事態に陥ってしまった。
その時だった。
またもや、陰府月の脳内に映像が流れ出す。
建設中のビルから資材の鉄骨が垂直に彼の頭上に降ってくる。
気づいた時には既に遅く、けたたましい衝突音と共に、彼の血が目の前の陰府月の全身にこびりついた。
鉄骨は彼を潰したあとに横向きに倒れ、また大きな金属音をあげる。
ビジョンから冷めるや否や、陰府月は、あの、と声を掛け思い切り二子木の肩を突き飛ばした。
二子木にとっては不意な行動であったためにバランスを崩し、ちょうど手を後ろにつく姿勢で足は開かれた格好で1mほど後ろへと倒れこんだ。
「いって、なにす
二子木の言葉は彼の開脚した足の間に刺さった鉄骨の衝突音によってかき消された。
「足引っ込めないと危ないですよ」
状況の全く読めない二子木は空いた口が塞がらないままだったが、陰府月の言葉に応じて、両足をなんとか動かし後ずさりをする。
直後、鉄骨はバランスを崩し、二子木の左足があった位置へと倒れた。二度目の轟音に人々も集まり始めている。
「えっと……大丈夫じゃないですよね、これ」
「ちっちびった……」
二子木の制服のズボンは液体に滲んでいた。
「その…私の家近いんで、シャワー使っていきますか?」
「……あなたが神か」
陰府月は自分の些細な窮地を救ってくれた鉄骨に感謝しつつも、それによって引き起こされた騒ぎに飲み込まれたくは無かった。
二子木を引っ張りそそくさとその場から逃げ出すと、彼に配慮しなるべく人通りの少ない道を通って帰宅したものの、内心、小便を漏らした高校生を引っ張って帰るという極めて特殊な状況に戸惑いを隠せなかった。
『こういうの昼ドラにもなかったから、なんかこう、一緒に歩いているこっちが恥ずかしいわね……』
頬を少し赤くしながら進む陰府月に、二子木は死んだ魚のような目をしながら続いていた。
陰府月に手を引っ張ってもらってなければ、この場で歩みを止めてしまいそうなほどの絶望を味わっていたのだ。
ラブレターを貰い人生の中でもかなりの高みにいたにもかかわらず、そこからの下げ幅は半端なものではなかった。
占い師には一週間以内に死ぬといわれ、知らない女子高生に突き飛ばされたと思えば、予言通りに命の危機に瀕した。
おまけに公衆の面前で失禁するという到底普段では考えられない辱めと恐怖を味わったのだから、当然といえば当然だった。
そして、調子いい言葉を放っていたものの、目の前を歩く謎の女子高生は、果たしてどのような気持ちでいるのだろうか気になって仕方がなかった。
しかし、唯一の希望として、彼女がこのラブレターの差出人という可能性も二子木の頭の中では未だに残っていた。
昨今の若者の薄情さを考えると、失禁ダサ男など放っておいて、普通はその場から自分だけ逃げ出しているだろう。
しかし、彼女はそんな二子木を助けた。本人は毒を食らわば皿までもといった気持ちで救いの手を差し伸べたとしても、この行動は二子木に希望を与えた。
『口では違うと言っていたけど、ここまで助けてくれるなんて、しかもこんなカッコ悪いところをみせても見捨てなかったなんて、もしかして好きなんてレベルじゃなくて、ゾッコンなのでないか!?』
なんてことを考えられるほど、彼の心的外傷は回復していた。
『あら、よくわからない道に入ってしまったみたい……なにこのセルフ羞恥プレイ、善意で助けたのに』
『もし、彼女がラブレターの主じゃなくても、これだけしてくれるってことはやっぱり少し惚れられてるのかな、2人の女性に好かれちゃうなんてこれってやっぱりモテ期だろ』
同時にいくつもの未体験ゾーンに突入してしまった陰府月をよそに、二子木は普段通りの状態へと落ち着きつつあった。




