◆プロローグ ある少年の好機
「まさか、これって、らっラブレター!?」
夕日が差し込む生徒玄関にただ一人、茶髪で痩身の男が硬直していた。
すでに下校ラッシュは過ぎ去り、ただグラウンドからの若さみなぎる声だけが響いている。
男の名前は、二子木 尊。
小中高と現在進行形で非モテ街道まっしぐらの冴えない彼は、人生最高の瞬間と言うものを体感していた。
彼の下駄箱の中に封蝋のされた便箋が入っていたのだ。
下駄箱の中の便箋。男子高校生からすれば、それが何を指すか、一目瞭然である。
二子木は手紙を懐にしまい、下駄箱の扉を勢いよく閉めた。
踵を返して旧校舎へと抜ける通路を渡り、誰も使わないトイレの個室に入る。
震える手で封蝋をはがし、大きな深呼吸をしてから中身を取り出した。
「『一週間後の放課後、屋上であなたを待ってます』って……やっぱりこれってラブレターじゃないですか!!」
思わず、手に力が入り手紙が形を変えた。
今まで女性との縁があまりなく、幼馴染とばかり過ごす日常であった二子木にとって、まさに青天の霹靂だったのだ。
「ついに、ついに!俺にモテ期が!モテ期がきたんだぁぁぁ!よっしゃっよっしゃよっしゃあああっひょおおおおおおおおおおお!!!」
そう叫んだ後、ある程度正気に戻った彼は、誰にも見つからないように学校を後にした。
道端の花でもネコでも話しかけたくなるような陽気さのまま、鼻歌を鳴らし意気揚々と家へと帰る。
その様は制服を着ていなければ、近所の主婦に通報されそうなくらい気持ち悪い。
そんな喜びの絶頂にいる彼が、この後どれほど奇想天外な出来事に巻き込まれるのか、この時の二子木は知る由もなかった。
◆
進路指導室、旧校舎と新校舎の間にある8畳ほどの部屋で進学資料などがおかれている。
主に名目通りの使われ方をするが、生徒の相談や呼び出しをくらう時にも頻繁に使用される。
そんな部屋の中に、二人の人間がいた。
白髪の混じった髪を後ろに流している初老の男性教師、そして、腰に届きそうなほど長くきれいな髪をした少女、その二人が向かい合って座っている。
机上には数枚の書類が置かれ、夕日が彼らを淡く切なく照らしていた。
白髪混じりの教師は目線を下に落とし黙りこくっている。どうやら書類をチェックしているらしい。
少女はそんな教師に、ブラウスの合間から覗く胸元を見せつけるように、机に身を乗り出し教師に顔を近づけた。
「せ・ん・せ、まだですか……」
抜けるような甘い声だった、まるで誘惑でもしているような。
その声に教師は観念したかのか、少女に目線を向けた。
「ああ、待たせたな陰府月、手続きはこれで全部終わりだ。明日から私のクラスで2年生としてちゃんと復帰できるぞ。あといくら暇だからって昼ドラみたいなまねごとをするな、気が散るだろ」
その言葉を聞くと少女は、先ほどまでの様子とは打って変わって、丁寧な微笑みを浮かべ立ち上がった。
「あまりにも手続きが遅いものでしたから、つい。病院にいる間はいつも昼ドラが見られたので、これから見られなくなるのは少しさびしいですね。教師と妻と女生徒の泥沼愛憎劇はとても見ものでした。とくに夫の不倫相手に気付いた妻が学校に乗り込むあたりはもう心臓がはらはらとぉ……」
「陰府月、お前の個人的な感想は聞いてない。お前の復学手続きは特例だったからな。本来ならまた一年生をやってもらうところだが、学校外期末考査やビデオ授業といった本校初の試みの下、厳正な審査の結果ここにいたるんだ。それに君自身の特殊な事情もある。もうあれはあまり見えなくなったのか?」
「ええ、だいぶ良くなりました。普通の女子高生として生活していけそうです。ではこれで失礼いたします」
「自己紹介のあいさつ、ちゃんとかんがえておけよ」
その言葉を聞いた少女は、深く一礼をして進路指導室を後にした。
玄関に向かおうとすると、痩身の男が同じ方向へと向かうのが見えた。
陰府月は、誰もつかわないと聞いた旧校舎の方から来たのだろうかと思い、珍しいわね、とつぶやく。
その時だった。
脳に電流が走る。
視界がボヤけ、瞳孔が開き、心臓の鼓動は急激に加速する。
強烈な吐き気と寒気と共にひざから崩れ落ちた。
陰府月はこの感覚を知っている、初めてアレが見えた時と同じものだと。
退院以来一度も起きていなかった症状だと。
脳に痺れる衝撃が走り、目の前が闇に塗りつぶされた。