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年下領主に粉挽き小屋を追放された花嫁ですが、三度目の水車替えで工房の鍵と食卓の席を得ました

作者: 朝比奈 灯
掲載日:2026/09/08

「返せ」と言うより先に、鍵が鳴った。


 私の掌からではない。エルワン様の指の中で。


 真鍮の小さな鍵は、昨日まで私の腰に下げていた。嫁入り道具の銀櫛より軽く、真珠の耳飾りより地味で、けれど私にはいちばん値打ちがあった。それを夫は、きっちり二度、確かめるように握り込んだ。


「今日から粉挽き小屋へ入るな」


 嫁入り三日目、夫は私から小屋の鍵を取り上げた。新婚の数え方としては、ずいぶん景気が悪い。


「理由を伺っても?」


「危険だからだ。妻を水車や石臼のそばで働かせるつもりはない」


 黒髪の下の灰色の目は私を見ず、小屋の水音ばかり見ている。


「あの洪水の日に、君まで……」


 そこで言葉を切り、鍵を上着へしまった。危険、妻、入るな。三語とも命令としては立派だ。夫婦の相談としては、挽く前の麦より粗い。


「ご英断です、領主様」


 粉の一粒もついていない臙脂の上着を着たブラージュが帽子を脱ぎ、深々と腰を折った。


「奥方様の安全こそ第一。飾りの奥方に粉の良し悪しは分かりませんし、現場は私どもにお任せいただくのがよろしいでしょう」


 エルワン様が水門の確認へ顔を向けた途端、ブラージュは背後の徒弟二人へ顎を振った。


「そうだな?」


 徒弟たちは口を開きかけた。


 ブラージュの指が、壁に掛かった二枚の寝床札を弾く。


「そうだな?」


「はい」


「奥方様には、危険です」


 同じ返事を二人分。声量だけはブラージュ一人分だった。


 小屋の隅では、女工が回る石臼へ身を寄せ、木べらで詰まりを掻き出していた。なるほど。危険は身分を見分けるらしい。ずいぶん器用だ。私は篩なら選べるが、そこまで選り分けのよい危険は知らない。


 母屋へ戻されると、長卓には朝食が並んでいた。焼いた玉葱、塩漬け肉、黒パン、六つの椅子。


 家令、帳場係、エルワン様、ブラージュ、職人代表、スペラ、空席なし。


 私の椅子だけがない。


「奥方様のお食事はお部屋へ運ばせます」と家令が言った。


 青い麻の作業布を畳み、婚礼の金糸帯ではなく、それを膝へ置いた。寝室はある。食事も来る。手だけ不要、と。なかなか念入りな花嫁扱いである。


「明朝、私の実家から冬麦三百袋が届きます」


 卓上の手が止まった。


「日没までに、三工程だけ試させてください。篩、石の目、水車の掛け替え。結果が悪ければ、私は母屋へ戻ります」


「必要ない」とエルワン様。


「必要です。三百袋を悪い粉にすれば、冬のパンが減ります」


「ブラージュがいる」


「では彼の道具と私の道具へ、同じ麦を通しましょう。同じ石、同じ水、同じ時間。身分も婚礼衣装も粉には混ぜられません」


 ブラージュが笑った。徒弟たちも、寝床札を見て口の端を上げた。


 スペラが赤い頭巾を直し、銅のパン印を卓へ置く。


「私は出来た粉しか買いません。領主様の粉でも、奥方様の粉でも、焼けなきゃ鶏の餌です」


 商売人は清々しい。愛想を篩にかけて全部捨てている。


 私はエルワン様の上着に隠れた鍵を見た。


「では、一つずつ確かめましょう」


    *    *    *


 一つ目は篩。


 ブラージュが運ばせた輸入篩は、縁に金色の金具が光り、網目まで新品らしく澄ましていた。対して私が選んだ地元の篩は、木枠の角が擦れ、持ち手だけ濃い飴色になっている。働いた道具の顔だ。


「値が六倍違います」とブラージュ。


「粉は値札を読めません」


 同じ冬麦を一杯ずつ。女工が合図に合わせ、二枚の篩へ落とした。


 私は口を挟まず、腕も出さなかった。しゃっ、しゃっ、と穀粒が踊る。輸入篩から落ちた粉は早い。見栄えのよい道具は、見栄えのよい速さで仕事を終えた。


 ただし麦皮まで一緒に。


 地元の篩は遅い。擦れた縁に指を掛け、女工が細かく向きを変えると、粉の山は低く、白く、粒が揃った。


 私は両方を指先で擦り、黒布の上へ線を引いた。一方はざらつき、茶色い皮が残る。もう一方は薄く均一に延びた。


「速く落ちるのは網目が広いからです。こちらは粉を選んだのではなく、通るものを全部通しただけ」


「実際に焼くまでは分かりませんな」


 スペラは返事の代わりに両方を舌先で確かめ、地元の篩の粉を指で擦った。


「こっちです。水の入りが揃う。明朝の窯なら、私はこっちを買う」


 徒弟の一人が擦れた篩を見直した。ブラージュの眉がぴくりと上がる。


「一度なら偶然です」


 六倍の値札、一度の偶然、残る逃げ道はあと一つ半。私は心の帳面へ丁寧に記した。


 エルワン様は粉へ手を伸ばし、二本の指で擦った。それでも鍵は返さない。


「判定は三度目まで保留する」


「ええ。では、一つずつ確かめましょう」


    *    *    *


 二つ目は石の目。


 石臼が回るたび、ぎゃり、ぎゃり、と濁った音がした。粉挽きが嫌う音だ。石同士が麦を挟まず、熱を噛んでいる。


 私は石臼を止めさせ、上石を吊った。


 石肌は青く光っていた。美しい、と言いたいところだが、あれは宝石の青ではない。擦れ、焼け、溝が死にかけた青だ。指を近づけただけで熱が上がってくる。


「すべて同じ向きに目を立てています。これでは麦が外へ流れず、同じ場所で潰され続けます」


「その方が細かくなる」とブラージュ。


「焦げます」


 私は目立て槌を取った。青い作業布を膝へ敷き、石の一角だけ、古い溝へ斜めの逃げ道を刻む。かつ、かつ、かつ。金属音が水音を切り分け、白い石粉が苔緑の袖へ散った。


 上石を戻し、少量の麦を入れる。


 目立てしていない側の粉は黄みを帯び、掌で握ると熱が残った。刻み直した側から出た粉は白く、さらりと冷たい。


 女工たちが順に触れた。誰も復唱しない。ブラージュの号令がないのではない。触った手が、もう答えを持っているのだ。


「実家の粉挽きから答えを聞いていたのでしょう」


「石に?」


「何?」


「私の実家の職人は、この石に会ったことがありません。石が私へ教えました。ずいぶん大声で」


 ぎゃり、ぎゃり。まったく、告げ口の激しい石である。


 エルワン様は青く焼けた面と、私の槌を見比べた。私が石から降りるとき、その手が袖へ伸び、触れる寸前で引っ込んだ。


「三度目までだ」


 一つ目は篩。二つ目は石の目。


 さて、三つ目まで挽かれるのは麦か、領主様の思い込みか。


    *    *    *


 雪解け水は、私たちの都合を待たなかった。


 午後になると水路は灰緑に膨れ、泡立つ水が水車の羽板へ噛みついた。ごう、ごう、ぎしり。軸受けが低く鳴る。古い水車を外し、替え輪へ掛け直す予定だったが、次の一袋が石臼へ落とされた。


「止めてください」と私。


「出来高が遅れております」


 ブラージュはエルワン様の前で帽子を胸へ当てた。


「明朝には三百袋が参ります。今夜のうちに在庫を挽かなければ、奥方様のご実家にもご迷惑が。安全には十分配慮いたします」


 エルワン様が増水した取水口を見る。


 その間にブラージュは帽子を被り、徒弟へ声を浴びせた。


「あと四袋だ。入れろ、早くしろ! 寝床が要らんのか!」


「軸が鳴っています」


「女工は詰まりを掻き出せ。手を止めるな。お前の名前も控えるぞ」


 女工が回転中の石臼へ木べらを差し入れた。


 私はその手首をつかみ、引いた。


 石臼の縁で木べらの先が弾け、壁へ飛ぶ。


 エルワン様が振り返った。ブラージュの声がたちまち細くなる。


「奥方様が急に手を出されまして。やはり女主人を危険へ近づけるべきでは——」


「その女主人を遠ざけた場所で、女工の指を代わりに入れるのがあなたの安全ですか」


「出来高を守るためです」


「では軸が割れたら、出来高を背負って水車を回してください。臙脂の上着は羽板に映えますよ」


 エルワン様の口元が動いた。笑うところではない。残念、私も半分しか冗談ではない。


 水車がもう一度鳴った。


 ぎいい、と長い音。


「全員、石臼から離れて!」


 今度はエルワン様が命じた。


 麦袋が止まり、小屋に水音だけが満ちる。私は新しい替え輪のそばへしゃがみ、寸法縄を一周させた。


 指二本分、足りない。


「ブラージュ。この替え輪は、うちの軸径ではありません」


「輸入品です。最新式で、丈夫な樫を使っている」


「樫にも寸法はあります。高価さで太くはなりません」


「楔を多く打てば合う!」


「隙間へ楔を詰めれば、荷重が一点へ寄ります。三百袋どころか三十袋で割れる」


 ブラージュは徒弟を睨んだ。


「保管中に縮んだのだ。水へ漬ければ——」


「納品札を」


 家令が帳面から一枚抜いた。


「注文された軸径は、当小屋のものより二寸小さい。受領署名はブラージュ殿です」


「商人が書き違えた!」


「高い篩ほど、言い訳まで細かく通すようですな」


 普段、匙を置く音まで事務的な家令が、そこで一度だけ鼻を鳴らした。頂点でそこへ打ち込むか。見事な目立てである。


 日没までは、あと一刻半。


 正しい替え輪はない。古い輪は軋み、増水は続く。明朝には冬麦三百袋。


「地元の車大工が昨年外した補助輪を、北倉庫へ置いています」と女工の一人が言った。「欠けた羽板を直せば使えます」


「寸法は?」


 徒弟が両手を広げた。


「この軸と同じです。ブラージュ様が古くさいから燃やせと……まだ、燃やしてません」


 よろしい。命令違反一件を、本日の功績欄へ移そう。


「運んで。水門を半分まで閉めます。縄を二本、楔は乾いたものを十二本。羽板は欠けた三枚だけ交換。石臼を吊ったままでは軸が抜けないから、上石を先に外します」


 ブラージュが鼻で笑った。


「女一人の指図で、誰が動く」


 職人たちの目が、私とエルワン様の間を往復した。


 ここで命じれば、私は領主夫人の権威を借りるだけになる。それではブラージュの帽子が私の青い布へ替わるだけだ。


「同じ道具と同じ時間で、私の段取りを試してください。失敗すれば日没までに分かります」


「危険だ」とエルワン様。


「ええ」


「水位はまだ上がる」


「だから閉めます」


「君は小屋から出ろ。指示だけ外から——」


 また手を消す話だ。


 私は軋む水車、壁の寝床札、夫の上着に隠れた鍵を順に見た。


「では、一つずつ確かめましょう」


 エルワン様が息を止めた。


「一つ目は篩。二つ目は石の目。三つ目は、あなたの思い込みです」


「思い込み?」


「私を作業から消せば、守ったことになるという思い込みです。水車を知らない人だけ残して回す方が、よほど危ない」


「だが、あの洪水で——」


「今は水門を閉めます。エルワン様、右の巻き上げ機へ。私の合図で三歯ずつ。速く落とせば水圧で門が跳ねます」


 領主へ命じた。


 ブラージュが勝ち誇った顔をした。身分違いだと叫ぶ用意まで見える。顔に字幕が出るとは便利な男である。


 だが、エルワン様は外套を脱いだ。


「三歯ずつだな」


「はい」


「次は?」


「縄が張ったら止める。私が手を上げたら、もう三歯」


 彼は巻き上げ機の取っ手を握った。


「分かった。指揮は君に返す。全員、ダルヤの指示に従え」


 小屋の空気が動いた。


 最初に女工が私の左、水門の合図が見える位置へ立った。次に寝床札を外されかけた徒弟二人が縄を取る。石工が目立て槌を持ち、車大工が楔箱を蹴り寄せる。


「水門、三歯!」


 エルワン様が回す。


「上石、半尺上げて固定!」


 縄が張る。


「補助輪を軸の右へ! 羽板を水へ向けないで、寝かせたまま運んで!」


 返事が重なった。


「はい、ダルヤ親方!」


 誰かが初めてそう呼び、次の者も続けた。


「縄、張りました、ダルヤ親方!」


「楔十二本、ここです!」


 私の名前が、小屋の梁から梁へ渡っていく。領主夫人ではない。飾りでもない。粉挽き職人の名前だ。


 水門が半分まで下りたところで、古い軸が跳ねた。


 縄が一本、甲高く切れる。


「伏せて!」


 濡れた縄が鞭のように走り、道具棚を薙いだ。青い作業布と目立て槌が戸口から水路へ落ちる。


「あっ」


 槌の銀色が一度だけ泡の間に光り、青い布がほどけた。母からもらった婚礼の金糸帯より、何年も汗と石粉を吸った布が流れる方が、ずっと痛い。私の名札が水に奪われたようだった。


 軸が傾く。


 私は支え柱へ飛びつこうとした。


「ダルヤ!」


 エルワン様の腕が腰へ回り、私を後ろへ引いた。


「離してください。楔を打たないと軸が落ちます」


「外へ出ろ」


「またですか」


「縄が切れたんだぞ!」


「見ました。私の槌まで持っていきましたからね!」


「道具は買える!」


「手を出せる職人は買えません。守るなら、私の手を消さずに守って」


 彼の指が私の袖をつかんだまま止まる。


 傾いた軸受けから木屑が落ちた。あと半刻もない。


「私を抱えて外へ運べば、今度こそ水車が壊れます。ここに残すなら、指揮をさせてください。妻だからではなく、分かる者として」


 エルワン様は私の袖から手を離した。


 代わりに、落ちかけた支え柱へ肩を入れた。


「どこへ立てばいい」


「そこです。動かないで。領主の仕事ではなく、今は重しの仕事です」


「ずいぶんな役だな」


「重要ですよ。石より言うことを聞くなら」


「努力する」


「楔、四本! 細い順!」


 徒弟が走る。私は軸受けの隙間へ一本目を差し、石工が別の槌で打つ。二本、三本。水車が震えるたび、エルワン様の肩へ濡れた黒髪が貼りついた。


 補助輪が運び込まれる。


「縄を掛け替えます。左を先に引いて、輪を斜めに入れる。羽板が水を受ける前に軸穴を合わせて!」


 ブラージュが戸口で叫んだ。


「私の号令を聞け! そんな古い輪では出来高が落ちるぞ!」


 誰も動かなかった。


 彼は寝床札へ手を伸ばした。


 女工が先に二枚とも外し、自分の胸へ抱いた。


「それはあなたの札じゃありません」


「雇っているのは私だ!」


「雇用主は領主家です」と家令。「あなたには配置権を預けていただけです」


「なら全員解雇だ! 私に逆らう者は——」


「解雇しない」


 エルワン様が支え柱を担いだまま言った。


「給金も寝床も領主家が維持する。ダルヤの取り分から出させることもしない。彼らは自分の技量でここにいる」


 徒弟たちの踵が床を踏み直した。


「左、引け!」


 私の声で縄が張る。


 古い輪が軸から抜ける。欠けた三枚を替えた補助輪が傾いて軸へ入り、車大工が穴の位置を読み、女工が羽板を押さえ、石工が楔を打つ。一本ごとに輪の歪みが消えていく。


 最後の楔。


「水門、一歯!」


 エルワン様が巻き上げ機へ戻った。


 細い水が羽板を押す。補助輪が一度、重く回る。二度目は軽く。三度目には軸鳴りが消え、石臼の下から粉が落ちた。


 白い。


 焼けた黄みのない、冷たい粉だった。


 誰かが息を吐き、次の瞬間、小屋じゅうの手が鳴った。粉まみれの掌、節くれ立った指、赤くなった手首。女工たちは肩を抱き合い、徒弟は拳を突き上げた。


「ダルヤ親方!」


「回った!」


「三百袋、挽けます!」


 うむ。麦より先に、領主様の思い込みがきれいに挽けた。目の細かさは上等である。


 スペラは待っていなかった。


 小さな試し窯で焼いていた丸パンを、木板ごと運び込む。表面は金色に膨らみ、銅のパン印がくっきり残っていた。


 彼女は丸パンを二つに割った。


 ぱり、と薄い皮が鳴る。白い湯気が立ち、均一な気泡が現れた。スペラは一切れを女工へ、一切れを徒弟へ渡し、残りを職人たちへ回す。


 噛んだ者から顔が上がった。


「甘い」


「皮が軽いぞ」


「冷めても硬くならない粉だ」


 スペラは擦れた地元の篩へ新しい粉を通し、指で擦った。


「明朝からダルヤ様の粉をください。三百袋分、その次の冬麦も。袋にはダルヤ様の名を」


 取引先の注文。職人たちの声。回る水車。


 これだけ揃えば、臙脂の上着一枚で覆えるものではない。


 ブラージュがエルワン様の袖をつかんだ。


「お待ちください、領主様。輸入品は必要だったのです! 商人から購入額の一部を戻すと言われたから選んだだけで、私も小屋の利益を——」


 自分で言った。


 小屋の全員が彼を見た。


 ブラージュは自分の口を押さえ、それから急いで帽子を脱いだ。


「違います。今のは、その、取引上の慣例で——」


 家令が帳面を閉じる。


「購入額に応じた私的な取り分。寸法違いの受領。軸鳴りを承知での稼働命令。女工への危険作業の強要。寝床を用いた復唱の強制。十分です」


 エルワン様がブラージュの胸へ手を伸ばした。


 銀色の粉挽き頭の標章を留める針を外す。


「ブラージュ。今この時をもって、粉挽き頭の職を解く。帳場へ私物と受領記録を渡し、小屋から出ろ」


「領主様、長くお仕えした私を、こんな女の——」


 職人たちが一歩、私の側へ寄った。


 一人、二人ではない。徒弟も、女工も、石工も、車大工も。粉で白くなった肩が並び、ブラージュから私までの床を塞ぐ。


 スペラは銅のパン印を持ち上げた。


「私が買うのは、この人の粉です」


「ダルヤ親方の粉だ」


「私たちはダルヤ親方の指示で働きます」


「寝床を取られても、もうあちらには立ちません」


 最後の声へ、エルワン様が答えた。


「寝床は取らせない。誰一人だ」


 家令はブラージュから標章を受け取り、戸を開けた。


 ブラージュは職人たちを押し退けようとしたが、臙脂の袖へ触れる者はいない。道が開いたのは私たちの間ではなく、外へ向かう一筋だけだった。


 磨いた靴が濡れた敷居を滑る。


 彼は標章のない胸元を押さえ、泥水へ片足を落とした。振り返っても、復唱する徒弟はいない。戸は家令の手で閉まり、掛け金が下りた。


 よし。


 高価な篩でも通せなかった大きなごみが、ようやく外へ出た。


 職人たちが笑い、また水車へ向き直る。仕事は残っている。ざまぁで冬麦は挽けない。その辺り、粉挽き小屋は現実的だ。


 だがエルワン様だけは動かなかった。


 濡れた鍵を上着から取り出し、掌へ載せている。水路へ手を入れたらしく、袖口から雫が落ちた。


 もう一方の手には、青い作業布があった。


 泥に濡れ、端が裂れている。目立て槌も徒弟が拾い上げていた。女工たちが桶の水で布を洗い、石工が槌の柄を拭く。青は濡れて深くなり、夕暮れの中で川底の宝石のように光った。


「ダルヤ」


 公の場で、初めて名前だけを呼ばれた。


「五年前の洪水で、君は流されかけた。あの日、君まで失うのが怖かった」


 途切れていた言葉が、ようやく最後まで届いた。


 彼の手の中で鍵が鳴る。


「父を失った直後だった。小屋も領地も守らなければならないと思った。君が妻になって、ここへ来て、それで……危険から遠ざければいいと決めた。君に尋ねもしなかった」


「はい」


「守るつもりで、君の仕事と席を奪った。ブラージュの報告だけを聞き、職人たちが何をされているかも見なかった。領主としても、夫としても、私が間違えた」


 灰色の目が、今度は水車ではなく私を見る。


 職人たちも、スペラも、家令もいる。逃げ道のない場所で、彼は頭を下げた。


「すまなかった」


 私は洗われた青い布を受け取った。冷たく重い。けれど私一人の手には戻ってこなかった。女工が洗い、徒弟が槌を拾い、石工が柄を拭いた。私の道具は、皆の手を通って帰ってきた。


「私も、あの日のことを覚えています」


 エルワン様が顔を上げる。


「あの日、あなたは腰まで水に入り、職人の家族へ麦袋を運んでいました。倉庫が崩れかけているのに、子どもの寝床と翌朝のパンを先に守った」


 五年、言わなかったことを、ここで初めて口にする。


「私はあの日、あなたの妻になりたいと思いました。妻なら、その隣で同じものを守れると思ったから」


 彼の唇が開き、閉じた。


「では、ここに——」


「条件があります」


 ここで頷けば、また誰かの命令で置かれる妻になる。恋情は契約の代わりにならない。パンの香りほど腹持ちもしない。


 私は指を一本立てた。


「工房の共同鍵。私が自分で開け、自分で閉められるもの」


 二本目。


「粉挽き職人としての正規の給金。妻の小遣いではなく、働いた分を帳簿へ記すこと」


 三本目。


「長卓に私の席。部屋へ運ばれる食事ではなく、毎晩ここで働く人たちと食べられる席」


 四本目。


「私の職務を、領主一人の命令では奪えないこと。解任には家令、職人代表、主要取引先の立会いと、理由の記録を必要としてください」


 家令がすでに帳面を開いていた。仕事が早い。さすが、夕食時に椅子を数え間違える以外は有能である。


「徒弟と女工の給金、寝床は?」


「領主家が保障する」とエルワン様。「君の給金から差し引かない。ブラージュの不正分は領主家の監督責任として補填する」


「共同鍵は?」


 彼は真鍮の鍵を差し出した。


「今日返す。予備ではない。私の鍵と同じ錠を開ける」


「職務は?」


「家令、職人代表、スペラの署名を入れた雇用証書を今夜作る。私だけでは奪えない」


 スペラが丸パンを掲げる。


「取引先代表として立ち会います。粉が悪くなれば容赦なく切りますが」


「望むところです」


「給金は粉挽き頭と同額」とエルワン様が続けた。「共同管理の責任分も加える」


 私は最後の指を折らず、彼を見た。


「食卓の席がまだです」


 長卓に、私の椅子はない。


 エルワン様は辺りを見回した。領主命令で椅子を運ばせれば早い。だが彼は口を開かず、職人たちへ判断を預けた。


 最初の徒弟が走った。


 物置から、背の低い木椅子を抱えて戻る。もう一人が布で座面の粉を払い、女工が青い作業布を背へ結んだ。


 それを長卓の空いていなかった場所へ押し込むため、職人たちは自分たちの椅子を少しずつずらした。


 一人が少し。


 もう一人が少し。


 長卓の端ではなく、真ん中に、一脚分の場所が生まれる。


「ダルヤ親方の席です」


「明日もここへ座ってください」


「明後日も」


「三百袋が終わっても」


 粉の白い手が、順に椅子の背へ触れた。


 エルワン様はその椅子の前で、鍵を私の掌へ置いた。


 命じる形ではなかった。私の指が閉じるまで、手を離さず待った。


「領主としてではなく、夫として頼みたい」


 声が一度、掠れた。


「私たちと働いてほしい。私と同じ家へ帰って、同じ食卓で食べてほしい。ダルヤ、残ってくれないか」


 工房の鍵。正規の給金。奪われない職務。皆が空けた食卓の席。


 それが揃って初めて、私は鍵を握った。


「はい。エルワン」


 職人たちの歓声で、水車の音が消えた。


    *    *    *


 初雪の頃には、白い粉袋へ青い糸で「ダルヤ」と縫い取られるようになった。


 スペラのパン工房へ運ばれるたび、銅の印を押した受領札が戻ってくる。女工たちは篩、袋詰め、目立て補助と技能ごとに給金が記され、徒弟の寝床札には領主家の封蝋が押された。誰かの機嫌では外せない札だ。


 日が暮れる。


 私は最後の粉袋を数え、自分の鍵を錠へ差した。


 かちり。


 隣ではエルワンが帳簿を抱えて待っている。青い作業布は洗って繕われ、私の栗色の髪を包んでいた。目立て槌は腰にある。


「明朝、東の石を直したい」と私。


「朝食の後では駄目か」


「粉挽きに朝食を待たせるおつもりで?」


「妻に朝食を食べさせたい」


「ではパンを二枚」


「三枚にしろ。昼まで戻らないだろう」


 命令口調が戻ったかと思えば、内容が食事である。粒はまだ少々粗いが、噛める程度にはなった。


 同じ家へ帰る。


 暖炉の橙色が長卓を照らし、黄金色の丸パン、白い粉を振った花形菓子、琥珀色の蜂蜜壺が並んでいた。私の椅子には青い座布が張られ、隣の椅子との間へ、鍵を二つ置ける小皿がある。


 パンを割ると、白い湯気が上がった。


 私は半分をエルワンへ渡し、蜂蜜をたっぷり落とす。働いた後の甘味は、遠慮すると道具に失礼だ。


 食べ終えたら、青い作業布をほどいて夫婦の寝室へ持ち帰る。朝になればまた髪へ巻き、小屋へ戻る。


 鍵が鳴り、パンが割られ、私の椅子が一つ増えた。


 これなら明日も、きちんと帰ってこられる。

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