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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『2つの宝珠』帝国歴283年~298年
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『水鏡の余韻、帝王の激昂』

第五皇子イリアードと、ふたりの姪——リゼリアおよびセシリアとの婚姻が約一年後に迫ったある秋の夜。皇帝ヴィンセントは、自らの寝殿に側室フレデリカを呼び寄せていた。


広々とした寝殿には、ほの暗い蝋燭の光が揺らぎ、上質な香木の香りが漂っている。その静寂の中、繊細で澄み渡った古琴の音色がゆるやかに響き渡っていた。フレデリカが奏でているのは、彼女が女楽の時代から長年愛用し続けている銘琴『水鏡(すいきょう)』である。琴の音色は水面の波紋のように静かに美しく広がり、日々の政務に疲弊したヴィンセントの心を優しく解きほぐしていった。


ヴィンセントは椅子に深く身を預け、目を閉じてその調べに耳を傾けていた。正五品・婕妤という低い身分に甘んじながらも、自分に対して変わらぬ奥ゆかしさと深い慈愛を向け続けてくれるこの女性(ひと)を、ヴィンセントは心から愛していた。だが、今夜彼女を招いたのには、単なる情愛の交歓を超えた実利的な理由があった。


「……ふむ。相変わらず素晴らしい音色だな、フレデリカ」


「お褒めにあずかり、恐悦至極にございます、陛下」


一曲が終わり、フレデリカが静かに弦から指を離して頭を下げる。ヴィンセントは起き上がり、彼女の温もりを感じるように視線を送った。




◇

「イリアードの婚礼まで、残すところあと一年となったな」


ヴィンセントは酒杯を傾けながら、本題へと切り出した。


「皇子が成婚を迎えるにあたり、母であるお前とそろそろ決定しておかねばならぬことがある。イリアードに与える『封地(領地)』の選定だ。……だが、その前にひとつ疑問に思っていたことがあってな」


皇帝の視線が、わずかに鋭さを増す。


「通常であれば、成婚を控えた皇子は後宮の翡翠宮を出て、帝都内に新たな邸宅・居館を構えるのが通例だ。名門の出である他の側室たちならば、すでに一年も前から帝都の一等地に豪奢な物件を探し求め、内装や調度品の準備で大騒ぎしている頃合いだろう。……しかし、お前が帝都で邸宅探しをしているという噂を、余は一向に耳にしないのだ。いったいどういうことだ?」


通常であれば、帝都に居館を構えることで皇子は中央政界への影響力を保ち、豪奢な暮らしを送る。皇帝としても、最愛の側室の産んだ息子には帝都の一等地に立派な屋敷を与え、不自由のない暮らしを保障するつもりでいたのだ。


しかし、フレデリカは穏やかな笑みを浮かべたまま、愛用の古琴『水鏡』を愛おしむようにその細い腕で静かに抱え直した。そして、静寂を破るように静かに口を開いたのだった。




◇

「……陛下。我が子イリアードの居館を帝都に探さぬのには、理由がございます」


「理由……?」


「はい。イリアードに賜ります封地につきまして、どうか私めよりひとつの切なるご所望をお許しいただきたく存じます」


フレデリカは『水鏡』を脇の台にそっと置き、床に優美に伏した。


「イリアードに下賜いただく封地には……私の故郷である『アルヴェリア』を賜りたく存じます」


「……何だと?」


ヴィンセントの顔から笑みが消えた。アルヴェリア。帝国の最果てに位置するその土地の名を聞いて、皇帝の眉が跳ね上がる。


アルヴェリアは、見渡す限りの広大な湿地帯と鬱蒼とした沼地が広がる貧困の地である。作物は育ちにくく、年中不気味な霧が立ち込め、街道の整備すら覚束ない。いかなる権力者も、野心溢れる貴族も、決して望むことのない「見捨てられた死地」であった。


「正気か、フレデリカ!? あんな泥と霧にまみれた不毛の地を、我が息子の封地に望むというのか!? イリアードは皇子だぞ! 他の皇子たちのように、実りの豊かな中央の都市や港町を与えることだってできるのだぞ!」


「いいえ、陛下。あのような誰も望まぬ不毛の地であればこそ、いかなる権力者からの嫉妬も買わず、陰謀の標的とされることもございません。才乏しきイリアードが、二人の妻と共に静かに、そして安全に生涯を終えるには、アルヴェリアこそが最高の安住の地にございます」


どこまでも冷徹に、そして完璧に計算された「無欲」の主張。ヴィンセントは絶句した。彼女の徹底した保身と我が子を守る深謀に、背筋が寒くなるのを覚えたほどだった。


だが、フレデリカの言葉はそれでは終わらなかった。




◇

フレデリカは伏せた頭をゆるやかに上げ、愛する皇帝の瞳をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。


「……そして、陛下。帝国の古き国法について、お聞き及びかと存じます」


「国法……?」


「はい。成婚を果たした親王は、自らの封地を直接統治するため、帝都を離れてその地に移り住んで良いという決まりがございます」


「……あ、ああ。法の上ではそうなっている。だが、大半の親王は帝都の居館に留まり、代理の官吏を派遣して納めさせるのが常だ。わざわざ辺境の湿地に移住するなど——」


「イリアードは、成婚と同時にアルヴェリアへ移住いたします」


フレデリカの断言に、ヴィンセントは息をのんだ。しかし、真の狙いはその次に紡がれた言葉にあった。


「さらに国法には、こうも定められております。『成婚し封地へ赴く親王の母親たる側室は、後宮を退出し、子供の生活する居館および封地に移り住んで良い』……と」


「な……っ!?」


寝殿の空気が凍りついた。


「私めはイリアードの婚姻を見届けた後、正五品・婕妤の位を返上し、後宮を出て息子の赴くアルヴェリアへと同行いたしたく存じます。これにて、我が息子の安全は完全に保たれ、私めもまた、故郷の地で息子夫婦と共に静かな余生を送ることができます」


フレデリカの言葉は、完璧な論理と国法に裏打ちされていた。後ろ盾のない女官上がりの側室が、愛する息子を守り抜き、自身もまたドロドロとした後宮の権力闘争から永遠に抜け出すための、完璧すぎる密約——。


しかし、それは皇帝ヴィンセントにとって、耐えがたい「永遠の別れ」を意味していた。



◇

「戯れ言を……抜かすなーーーーっ!!!!」


ガシャーン!!!!と激しい音を立てて、ヴィンセントの手にした金細工の酒杯が床に叩きつけられた。極上の酒が赤く絨毯を染め上げる。


「陛下……!」


皇帝ヴィンセントは凄まじい形相で立ち上がり、肩を激しく上下させてフレデリカを睨みつけた。その全身から放たれる圧倒的な威圧感と激怒の情念に、部屋の隅に控えていた侍従たちは恐怖のあまり青ざめてひれ伏した。


「余を……余を捨てるというのか、フレデリカっ!? 息子の安全のため、後宮の安寧のためと言いながら……お前は余の元を去る口実をずっと考えていたというのか!?」


この激怒は、国法を盾に取られたことへの憤りでも、不毛の地を選ばれたことへの怒りでもなかった。ただひたすらに、自分が最も愛する女性が、自分を置いて後宮を去ろうとしていることに対する、一人の男としての猛烈な執着と怒りであった。


「お前が婕妤にとどまりたいと言った時も、余はお前の望みを聞き入れた! 息子を目立たせぬよう不遇に扱うことも耐えてきた! それもこれも、全てはお前をこの手元に留め置き、愛し続けるためだぞ! なぜそれが分からん!?」


ヴィンセントはフレデリカの元へ大股で歩み寄ると、彼女の細い肩を強く掴み上げた。その手は震えていた。


「許さん……絶対に移住など許さんぞ! イリアードにアルヴェリアを与えることも、お前が後宮を出ることも、このヴィンセントが断じて認めん! お前は生涯、余の側におるのだ!」


帝王としての尊厳も、冷徹な統治者としての仮面も剥ぎ取られ、ただ一人の愛に狂う男としての本心を剥き出しにするヴィンセント。


しかし、強く肩を抱えられながらも、フレデリカは決して瞳をそらさなかった。その瞳には、皇帝への深い感謝と愛おしさ、そして決して揺らぐことのない母親としての、そして一人の女性としての冷徹な『覚悟』が湛えられていた。


「……陛下。私をお愛しくださるからこそ……どうか、どうかお許しくださいませ」


古琴『水鏡』がほのかな夜風に揺れ、悲しく静かな余韻を室内に響かせる中、皇帝と寵妃の深き愛執の葛藤は、一年後の祝宴に向けて更なる波乱を予感させるのであった。

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