『氷華の后と至高の巫女』
帝国歴326年、1月。
年が明けたばかりの帝都オクタヴィアは、深々と降り積もる冬の雪に包まれていた。しかし、オーレリア帝国の象徴たる白亜宮――その深奥に位置する後宮の大広間だけは、春の暖気を思わせる熱気と華やぎで満たされていた。
天井を彩る金箔のフレスコ画のもと、無数のシャンデリアが眩い光を投げかける。昨年の皇帝イリアードと皇后リゼリアの意向により、新たに三十名もの后妃や側室が入宮したばかりであった。正六品の承徽、正七品の昭訓、正九品の奉儀――色とりどりの煌美な衣装に身を包んだ三十名の新たな乙女たちが、緊張と野心を秘めた瞳で絨毯の上に整列している。
この絢爛たる新年祝賀会を主催するのは、帝国の母たる皇后リゼリアである。
「皆、顔をお上げなさい」
上座の玉座から響くリゼリアの声は、凛としていながらも、どこか慈愛に満ちていた。その麗しき面立ちには歳月を重ねた気品が宿り、見つめる者を自然と平伏させる威厳がある。そのすぐ傍らには、彼女の従姉妹であり、幼馴染であり、何よりの親友でもある貴妃セシリアが穏やかな微笑をたたえて控えていた。互いに視線を交わすだけで心が通じ合う二人の佇まいは、荒波立つ後宮における唯一の安らぎの風景でもあった。
しかし、その穏やかな空気のすぐ下層には、鋭い緊張の糸が張り詰めている。
皇后の斜め後方、皇太子妃シルヴィアは、氷のように冷ややかな表情で佇んでいた。二歳の皇孫女シェルランテと、一歳の皇孫子ソリスの母である彼女は、高貴な血筋にふさわしい気品を備えている。しかし、次男ソリスを懐妊して以来、夫である皇太子リアムとの溝は深まる一方だった。固く結ばれた薄い唇と、膝の上で握りしめられた扇が、彼女の内に渦巻く冷ややかな孤独を物語っている。
そのシルヴィアの視線の先――少し離れた下座に腰掛けるのは、皇太子側室の最高位である良娣・エレノアであった。 元は身分の低い女官に過ぎなかったエレノアだが、一歳の皇孫子オリオンを出産したことで一躍、正三品の位へと昇り詰めた。濡れたような漆黒の髪を揺らし、胸元をほのかに際立たせる絢爛なドレスを纏った彼女は、シルヴィアの視線を感じ取ると、艶やかな唇の端をわずかに押し上げ、優越感に満ちた笑みを浮かべた。自らの野心と魅力を隠そうともせず、皇太子の寵愛を誇示するかのように扇を揺らすエレノアの仕草は、二人の間の深い確執を象徴していた。
その緊張感を和らげるように、広間の側から足音が響く。 現れたのは、皇后リゼリアの面影を強く残す美しい皇女シンシアであった。
彼女が身に纏うのは、華美な貴族のドレスではなく、胸元に「四つ葉の紋章」が鮮やかに刺繍された、清廉な聖職者風のドレスであった。彼女が『真理の光教団』の高位たる『真光の巫女』の称号を得たことは、皇帝イリアードの許しのもと、帝国全土へと公表されたばかりである。生涯を神に捧げ、他家へ嫁がぬことを承諾させた彼女の存在は、教団の権威を背負い、次代の皇太子リアムの治世を揺るぎないものとするための、現帝の深謀遠慮でもあった。
シンシアのすぐ後ろには、四つ葉堂のココロギが静かに従っていた。教皇ゲンドラスの娘であり『至高の光巫女』という絶大な聖性を持ちながら、今は皇宮の礼拝堂に常駐する彼女の存在もまた、帝国の平和と権力を示す象徴として全土に知れ渡っている。
二人が歩むたび、聖歌の鐘のごとき静寂が広間に広がっていった。
「母上。新しき年を迎え、神々の祝福がこの白亜宮と、集いし后妃の方々に注がれんことを」
シンシアが深く頭を下げ、澄んだ声で祈りを捧げると、皇后リゼリアは優しく目を細めた。
「ありがとう、シンシア。あなたの祈りが、この後宮にまことの安らぎをもたらしてくれることを願っていますよ」
リゼリアはそう言い添えると、視線をゆっくりと広場全体、そしてシルヴィアとエレノアへと向けた。
「皇帝陛下の御心により、こうして多くの新たな家族を迎え、晴れやかに新春を祝えることを嬉しく思います。……後宮とは、ただ皇帝陛下をお支えするだけの場ではありません。帝国の安寧と、次代を担う尊き血脈を守り育むための庭です。互いに慈しみ、つつがなく務めを果たしなさい」
その言葉には、妻として、母として、そして帝国の母としての強い矜持が込められていた。言葉の裏にある「争いを慎め」という暗黙の戒めを感じ取り、新入宮の三十名の后妃たちは一斉に深く頭を下げた。
エレノアは扇の陰でふっと笑みを消し、シルヴィアはただ静かに、瞳の奥に蒼い炎を宿したまま微動だにしなかった。
貴妃セシリアが、そっとリゼリアの袖に手を触れ、小さく頷く。リゼリアもまた、幼馴染の温もりに胸を撫で下ろし、グラスを高く掲げた。
「さあ、宴をはじめましょう。帝国の栄光と、我らが愛する者たちの未来に、乾杯を」
「乾杯を――」
千の宝石が重なり合うような華やかな声が広間に響き渡る。
祝宴の器が奏でる繊細な音と、上質な葡萄酒の甘い香りが大広間に満ちていく。新たに召し出された三十名の后妃たちは、緊張を少しだけ和らげながらも、帝国の最高権力者たちが集う上座の様子を伺っていた。
「姉様、少し顔色が優れないのではなくて? 昨夜も遅くまで諸外国との書簡を改められていたのでしょう?」
貴妃セシリアが、手元の黄金の杯を傾けながら、隣のリゼリアにだけ届く小声で囁いた。その瞳には、幼馴染であり従姉妹であるからこそ察することのできる、深い情愛と気遣いが宿っている。
リゼリアは優美に微笑み、絹の手巾で唇を軽く押さえた。
「大丈夫ですよ、セシリア。シンシアが背負う運命の重さを思えば、私の一夜の微睡みなど……。それに、見ていらっしゃい。あの緊張感をほぐすのも、私の勤めですから」
リゼリアの視線の先では、皇太子妃シルヴィアと良娣エレノアの間に、目に見えない火花が散っていた。
「良娣エレノア。オリオンの健やかな成長、何よりです」
冷ややかな、しかし完璧な礼節を保った声で問いかけたのはシルヴィアだった。彼女は手にした白磁の杯を動かさず、視線だけをエレノアへ向ける。その瞳は、北国の氷原のように揺るぎない。
「ソリス様とシェルランテ様のお母上たる皇太子妃殿下から、そのようなお言葉をいただけるとは誇りに存じます」
エレノアは流れるような所作で一礼してみせた。しかし、その顔を上げた瞬間、唇に浮かんだのは恭順とは程遠い、艶然とした笑みだった。
「オリオンは成長が早くて最近、歩くようになりましたの。リアム殿下も『この子を見ると、政務の疲れも吹き飛ぶ』と、毎夜のように私の宮をお訪ねくださいますのよ。……おかわいそうに、ソリス様はお小さすぎて、まだ殿下のお心を繋ぎ止める術をお持ちでないのでしょうけれど」
「――エレノア」
シルヴィアの眉が微かに動いた。扇を握りしめる白く細い指先が、怒りでわずかに白く強ばる。
「言葉が過ぎますよ。身分の上下を弁えぬ発言は、その職位にそぐわないと自ら証明しているようなもの。男児を産んだとはいえ、貴女はあくまで側室。殿下の御心を推し量るような真似は慎みなさい」
「お戯れを、殿下。私が誇っているのは身分ではなく、殿下から賜る『愛』でございますわ」
勝ち誇るように胸を張るエレノア。二人の間に流れる空気は凍りつき、周囲の若い奉儀や昭訓たちは息を飲んでうつむいた。
その時――。
「二人とも、おやめください」
凛とした声が広場を静まり返らせた。 いつの間にか歩み寄っていたのは、皇女シンシアであった。胸に輝く四つ葉の刺繍が、シャンデリアの光を反射して神聖な輝きを放っている。その後ろには、影のように静かに寄り添う至高の光巫女ココロギの姿があった。
「ここは神聖なる新年を祝う場。そして、皇宮の安寧を示す場です。二人とも、兄上(リアム皇太子)の面目を潰すような真似はおやめなさい」
16歳とは思えぬ毅然としたシンシアの態度に、エレノアは一瞬目を見開いたが、すぐに優雅なお辞儀をして一歩下がった。
「これは……『真光の巫女』様。失礼いたしました。あまりにソリス様とオリオン様の未来を想うあまり、熱が入ってしまいまして」
シルヴィアもまた、小さく息を吐き出し、胸元で手を組んだ。
「申し訳ありません、シンシア様。……皇后殿下のお顔を潰すような真似をいたしました」
シンシアは二人を静かに見つめた後、そっとシルヴィアの手の上に自らの手を重ねた。その温もりに、シルヴィアの固く閉ざされていた瞳が一瞬だけ揺れる。
「シルヴィア義姉様。光はすべての者に平等に降り注ぎますが、陰を作るのもまた光の強さゆえ。焦ることはありません。幼きソリスとシェルランテのためにも、どうか心を穏やかにお保ちください」
聖職者としての清廉さと、皇女としての気品を兼ね備えたシンシアの言葉は、シルヴィアの刺さった毒針をそっと抜き取るかのように優しかった。
その光景を、上座から見守っていた皇后リゼリアと貴妃セシリア。
「シンシアも、すっかり頼もしくなりましたね……」
セシリアが感極まったように呟くと、リゼリアは静かに頷いた。だが、その瞳の奥には、深遠な母としての、そして 皇后としての憂いが宿っていた。
「ええ。ですが……彼女がこうして聖性を纏えば纏うほど、リアムの治世は磐石になる反面、あの子自身は人の世の幸せから遠ざかっていく。皇帝陛下のお考えは理解できますが、親としては……胸が痛みます」
「リゼリア……」
「けれど、これが帝国の定めに生きる者の宿命。さあ、泣き言はここまでですわね」
リゼリアは優美に立ち上がり、広間全体を見渡した。新たに加わった三十名の側室たち、そして愛憎を交錯させるシルヴィアとエレノア、神の威光を背負うシンシア。
オクタヴィアの冬の夜は、深々と雪が降り積もっていた。




