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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴324年
231/287

『咲かぬ花びら、揺れる炎』

残雪の散らす冷気が、白亜宮の回廊を白く濡らしていた。三月後半。春の息吹はそこまで迫りながらも、宮廷を包む空気は氷の針のように冴え返っている。 生後四か月を迎えようとする皇女シェルランテの無邪気な声だけが、重苦しい後宮の沈黙を宥める唯一の救いであった。

皇帝イリアードは、豪奢な刺繍が施された揺り籠を愛おしそうに見つめていた。その顔には目尻を下げた柔らかな笑みが浮かんでいたが、視線を傍らに控える皇太子妃シルヴィアへ移すと、一転して痛ましげな険を帯びた。

「……シルヴィア。苦労をかけるな」 「滅相もないことでございます、陛下」

シルヴィアは深々と頭を下げた。言葉こそ穏やかだが、その瞳の奥には冷たい炎が揺らめいている。政略結婚とはいえ、命を賭して愛娘を産み落とし、夫であるリアムにも確かな情愛を抱き始めていた矢先のことだった。

皇帝付きの女官エレノア――己の身分の低さを野心で塗り潰し、あろうことか皇太子にすがりついて密通を果たした女。リアムへの愛が冷め果てた分だけ、エレノアという泥棒猫への激しい敵意と憎悪が、シルヴィアの胸を焦がしていた。

「あやつも呆れた愚か者よ。皇太子の身でありながら、そのような浅はかな女に惑わされるとは!」

怒りを再燃させたイリアードが声を荒らげると、静かに歩み寄ったのは皇后リゼリアであった。そしてその隣には、貴妃セシリアも控えている。

「陛下、どうかお心を静めくださいませ」

セシリアが静かに諫めた。

「エレノアなる女官、以前より陛下にまで不躾な色目を向けておりました浅ましいお調子者にございます。シルヴィア様のお心を思えば断腸の思いですが、今は皇太子の不始末を内密にするわけにはまいりません」 「うむ……セシリアの申す通りだ。だが、許すわけにはいかん」

憤怒に震える皇帝に対し、皇后リゼリアは至極冷徹な、しかしすべてを見通した瞳で小さく首を振った。リゼリアの血に宿る『リヴィエール』の異能――人の心の機微を精神干渉で読み取る力は、息子の過ちの真因をとうに突き止めていた。

リアムの心にあったのは、後宮の奥深くに佇む『四つ葉堂』の巫女、ココロギへの叶わぬ恋情だ。神職という聖域に守られた彼女へ手を伸ばせぬ渇きと焦燥。その心の隙間に入り込んだのが、野心に満ちたエレノアの甘言だったのだ。

「陛下」

リゼリアの鈴を転がすような声が室内に響く。

「リアムの不始末は皇家全体の責任。息子の咎は不問とし、処分のすべては私にお任せください。皇家の尊厳と責任は、守らなくてはなりません」 「……分かった。リゼリア、お前に任せる。シルヴィア、そしてシェルランテのためにも、然るべき裁きを下せ」

イリアードはそう呟くと、再び孫娘の小さな手を愛おしそうに握りしめた。

◇

後宮の北に位置する『四つ葉堂』。穏やかな神気が満ちる礼拝堂で、巫女ココロギは一人、神前に捧げる花を生けていた。

同年代の皇太子リアム。後宮という閉ざされた世界で、爽やかな風のように現れる彼に、ココロギはほのかな憧れを抱いていた。けれど、自分は神に身を捧げる巫女。リアムには美しい妃と、生まれたばかりの可愛らしい皇女がいる。この想いは胸の奥底に秘め、決して叶わぬものだと自分に言い聞かせていたはずであった。

それなのに――。

(……なぜ、こんなにも胸が苦しいのでしょう)

リアムが女官エレノアと関係を持ったという噂は、この四つ葉堂にまで届いていた。 完璧なはずの皇太子が見せた過ち。そして、自分には決して向けられることのなかった異性への欲望が、別の女へと注がれたという事実。 ココロギは震える手で花の茎を切り落とした。心の奥が引き裂かれるような強い痛みに、彼女は溢れそうになる涙を必死で堪えることしかできなかった。

◇

「……母上」

執務室で一人、頭を抱えていた皇太子リアムのもとへ、皇后リゼリアが足音もなく姿を現した。

「リアム。己が犯した罪の重さは理解していますね」 「私は……」

リアムは言葉を詰まらせた。妻シルヴィアへの申し訳なさ、シェルランテへの罪悪感。そして何より、ココロギへの鬱屈した情念から逃げるためにエレノアの誘惑に流された己の弱さが、酷く恥ずかしかった。

「言い訳は不要です。あなたは皇太子であり、この国の秩序そのもの。個人的な感情の鬱屈を理由に、身分を弁えぬ女の手を握った代償は、あなた自身がその背に負い続けなさい」

リゼリアの静かな圧迫感に、リアムはただ項垂れるしかなかった。

「あなたは全領民の男性の手本とならなくてはならないのです。逃げることも隠すこともしてはいけません。エレノアを側室にして責任を取り、シルヴィアへは、一生をかけて贖罪しなさい」 「……はい、母上」

三月の終わり。白亜宮に吹き付ける風はまだ冷たい。破れかけた絆、憎悪に揺れる妃、傷ついた巫女の心、そして己の野心を遂げる女官――それぞれの欲望と誇りが交錯する白亜宮で、全知の母リゼリアはまだ未熟な息子をあるべき姿へと導くのであった。

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