『鬼神狂乱』
五十万の大軍を擁しながら、アルストラーナ帝国の皇帝ベグ・バールは、アンチアルマの城壁を前にして苛立ちを募らせていた。
「……補給部隊がまた全滅だと? どこのどいつの仕業だ!」
天幕に響き渡る皇帝の怒号に、前線の将たちは一様に平伏した。
原因は、突如として戦場に現れた聖ゲンドラス教国軍、そして彼らが「西の砦」を拠点に展開した神速の遊撃戦にあった。本来そこは天然の岩山を崩しただけの空地だったはずが、彼らは一夜にして強固な砦を文字通り『建設』してしまったのだ。
一万騎の聖教国軍は、枢機卿ヴォルフラムが秘裏に募った教団の志願兵五百と合流。そのうち三千五百が西砦の守備に就き、残る七千の精鋭が、アルストラーナの本拠地ガザルカガンドから送られる糧食や軍需物資の輸送隊を、網の目の如き機動力で次々に血祭りにあげていた。
胃袋を掴まれた五十万の軍勢は、動くこともできぬ巨大な大蛇と化しつつあった。
「おのれ、聖ゲンドラスの白鼠どもめ……!」
ベグ・バールは卓上の地図を叩き割らんばかりに睨みつけた。
「状況を打破するには、あの忌々しい西砦を根こそぎ叩き潰すほかない。全軍に告ぐ! 標的をアンチアルマから西砦へ変更せよ。蟻の這い出る隙間も残さず、踏み潰せ!」
アルストラーナの巨獣が、その重い鎌首を西へと向けた。
◇
西砦の防壁に立つルシアの瞳に、地平線を埋め尽くす黒い津波が反射していた。
「来たわね、ベグ・バール。頭に血の上った覇王の息子らしい、大雑把な進軍だこと」
ルシアは不敵に微笑み、背後の将兵たちを振り返った。その隣には、静かに錫杖を構えるヴィオ、丸盾を握るビー・スー、そしてローブを羽織ったココロギが控えている。
「ルシア様、敵の先鋒が間もなくこの砦の射程に入ります」
ビー・スーの報告に、ルシアは短く頷いた。
「全軍、死力を尽くして防戦しなさい。ただし――『予定の時刻』が来たら、未練なくここを捨てるわよ」
「御意」
◇
ビー・スーの低く引き締まった声が応じた。彼の瞳には、ルシアの壮大な計略を完遂せしめんとする冷徹な意思が宿っていた。
突撃の咆哮とともに、アルストラーナの猛攻が開始された。数の暴力が西砦の石壁へと叩きつけられる。三千五百の聖騎士たちは、降り注ぐ矢の雨を盾で凌ぎ、狭い胸壁から執拗にクロスボウを放って敵を削り続けた。
しかし、相手は五十万。波状攻撃は途切れることなく、砦の防壁は徐々に悲鳴を上げ始める。
その激戦の火の手を、アンチアルマの東門から望遠鏡で捉えていた男がいた。
オーレリア帝国軍の総大将、 アルヴェリア親王イリアードである。
「……ルシアが、西砦が囲まれている!!」
冷静沈着を以て知られる『軍神』の顔が、恐怖と焦燥に歪んだ。西砦を死守せんとする聖教国軍の防戦は凄まじいものだったが、衆寡敵せず、砦の各所から黒煙が上がり始めている。
「全軍に通達! 南のヴェロニカ砦五万、東のフェルゼンヴァルデン砦五万、そして本隊十万――総勢二十万、今すぐ出撃せよ!」
「か、閣下!? 敵の誘い込み作戦はどうされるのですか!」
副官が悲鳴のような声を上げるが、イリアードは聞く耳を持たなかった。
「うるさい! 娘を見殺しにできるか! 敵の背後を突き、アルストラーナを挟み撃ちにする! 遅れる者は軍法会議にかけるぞ!」
「娘様ですか?どちらに!?」
怒りで目を曇らせた軍神は、なりふり構わず剣を抜き、自ら先頭に立って城門を飛び出した。
◇
西砦の攻防は苛烈を極めていた。
門が破られ、アルストラーナの兵が雪崩れ込んでくる。守備隊三千五百は善戦した。誰もが命を捨てて戦っているように見えた。
だが、火の手が本丸に達したその瞬間、ルシアはヴィオとビー・スーに目配せをした。
「潮時よ。みんな、 退却の準備はいい?」
「いつでも」と、ビー・スーが丸盾を背負い直す。
次の瞬間、激しい爆発と共に西砦は炎に包まれ、崩落した。アルストラーナの兵たちは勝利の鬨の声を上げた。聖ゲンドラス教国軍は全滅し、あの忌々しい少女も炎の中に消えた――誰もがそう確信した。
だが、それは「虚」であった。
崩れ落ちる炎のカーテンの裏側、地下へと続く隠し通路の暗闇を、ルシアたちは音もなく駆け抜けていた。
「見事な逃げっぷりでしたね。ルシア様」
ビー・スーの言葉に、ルシアは走りながら不敵に笑った。
「当然でしょう? 誰が本当にあんな場所で玉砕するもんですか。ベグ・バールも、そして……お父様も、綺麗に引っかかってくれたわね」
ルシアの真の目的は、この平原での籠城戦などではなかった。
敵の全神経がアンチアルマと西砦に集中し、全軍が前線に傾避した今、アルストラーナの背後は完全に「空っぽ」なのだ。
「目指すはグラッデェの本拠地ガザルカガンド、そしてアルストラーナ帝国の首都ラーナ。敵の本陣を根こそぎ奪い去ってあげるわ」
炎上する西砦を背に、ルシア率いる本隊は、夜陰に乗じて遥か西へと疾走を開始した。
◇
「ルシアーーーーッ!!」
引き裂かれた喉から放たれたのは、人間のそれとは思えぬ獣の咆哮だった。
イリアードの視界は、娘を呑み込んだ西砦の火炎と同じ、悍ましい紅一色に染まっていた。脳髄を灼くのは、底なしの絶望と、それを瞬時に燃料へと変えた純度百パーセントの殺意。オーレリアの『軍神』と呼ばれた男の天稟は、今や一兵卒をも戦慄させる『鬼神』の狂気へと反転していた。
「引くな! 押し包め! 敵の総大将は正気を失っているぞ!」
アルストラーナの将軍がすかさず激を飛ばし、鉄盾を並べた重装歩兵の壁でイリアードを阻もうとする。
だが、その守りはあまりにも無力だった。
「邪魔だァァァッ!!」
愛馬の腹を血が滲むほどに蹴り、突撃したイリアードは、大刀を一閃させた。凄まじい踏み込みから放たれた一撃は、最前列の鉄盾を紙細工のように叩き割り、その背後にいた兵の甲冑ごと肉体を斜めに両断する。
噴き上がる鮮血の霧をまともに浴びながら、イリアードの突撃は微塵も減速しない。
「化物め、突き殺せ!」
左右から突き出された十数本の長槍。これまでのイリアードであれば、冷静に見切り、最小限の動きで受け流していただろう。しかし、今の彼は違う。
「おおおおおッ!」
迫る槍衾に対し、彼は避けるどころか自ら肉薄し、左腕でその数本を強引に抱え込んだ。肉が裂け、血が滴るのも構わず、力任せに槍兵たちを引き寄せる。体勢を崩した敵の首筋へ、電閃の如き逆袈裟の斬撃が容赦なく叩き込まれた。
一瞬にして三つの首級が宙を舞う。
返り血で白髪を赤黒く染め上げ、血涙を流すかのように目を見開いたイリアードの姿は、まさに地獄の阿修羅そのものであった。
「ひ、悲鳴を上げるな! 囲め! 囲んで数を頼みに圧殺しろ!」
騎馬民族グラッデェの精鋭たちが、三日月刀を掲げて左右から馬を寄せ、イリアードを完全に包囲する。
しかし、その包囲網が完成するより早く、イリアードの狂気に呼応したオーレリア軍二十万の「親衛隊」が地平線を埋め尽くしていた。
「閣下に続け! 狂い死ね! 敵を一人残らず肉片に変えるのだ!」
総大将の常軌を逸した戦い振りに、オーレリアの兵たちの恐怖心は完全に麻痺していた。彼らは防衛戦の緻密な陣形を投げ打ち、ただイリアードが開けた血の風穴へと狂ったように雪崩れ込む。
西砦の勝利に湧き、完全に油断していたアルストラーナ軍の側面は、この二十万の「狂戦士」たちの突撃を受け、文字通り豆腐のように崩れていった。
「な、何なんだ、こいつらは……! 正気じゃない!」
グラッデェの騎兵が恐怖に顔を歪め、手綱を引こうとした瞬間、その視界に馬ごと跳躍するイリアードの姿が映った。
「失せろ」
低く地を這うような呪詛と共に振り下ろされた大刀が、騎兵を馬もろとも脳天から真っ二つに叩き斬る。
飛び散る肉片と内臓の雨の中、イリアードの瞳はなおも、遥か後方に佇む皇帝ベグ・バールの本陣だけを凝視していた。
「ベグ・バール……お前の首で、ルシアの墓標を飾ってやる……!」
一歩進むごとに、アルストラーナ兵の骸が築かれていく。数を頼みにしか戦えぬ五十万の巨獣は、たった一人の父親の絶望が呼び覚ました暴風に、ただ蹂躙されるがまま引き裂かれていくのだった。




