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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴322年
199/287

『暴走馬車のココロギ』

ヴェロニカ峠の空気は、肌を刺すほどに冷たく澄み渡っていた。 険しい岩肌が剥き出しになった谷合の砦に陣を敷くのは、御年七十二歳のヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼ。 帝国大将軍として数々の戦功を挙げ、太尉として、正一品の最高大臣としてオーレリアを支え続けてきた不世出の傑物である。 此度、太尉の職を辞するにあたり、これを生涯最後の軍務と定めた彼は『征西将軍』の地位とヴェロニカ砦5万の指揮権を授かり、アルストラーナの侵攻に備えていた。

白い髭を風になびかせ、ヴァレリオは静かに大弓を手にする。老齢とは到底思えぬ真っ直ぐに伸びた背筋と、大岩のごとき頑強な体躯。傍らに控える副官が、緩やかに傾く陽光の角度を測りながら低く囁いた。 「ボルゲーゼ様、時期は満ちました。敵は長時間の対峙に焦りを見せ、陣形が弛んでおります」 ヴァレリオの鋭い眼光が、遥か遠方の陣幕の隙間、馬上で指図を出す敵将の姿を完璧に捉えた。 「よかろう。老兵の引き際、あの首級で彩ってやるとしよう!」

ヴァレリオが大きく右手を掲げると、背後に控えた将兵たちの息遣いが一つに重なった。 「太鼓を鳴らせ! 鬨の声を上げよ!」 一瞬にしてヴェロニカ砦を揺るがす、地響きのような陣太鼓が鳴り響く。極限まで鼓舞されたボルゲーゼ軍の士気が頂点に達した。ヴァレリオは一騎当千の愛馬の腹を蹴り、急斜面を雪崩のごとく駆け下りる。

「敵将、覚悟――ッ!」 雷鳴のごとき咆哮が谷間に轟いた。 高所から突如として一気に駆け降りてくるヴァレリオの威勢は、まさに天から振り下ろされた神罰そのものであった。前線を容易く打ち破り、群がる敵兵を大薙刀の一閃でつぎつぎと薙ぎ払いながら、一直線に敵本陣へと肉薄する。 「な、何事だ!? 奇襲か!」 動転した敵将が槍を構え直した時には、すでにヴァレリオの馬が眼前に迫っていた。 白髪を振り乱した老将の眼光が、死神の如く敵将を射抜く。ヴァレリオは大刀を頭上に高々と掲げ、全霊の力を込めて振り下ろした。

――ズシャァッ!

甲冑を断ち割り、肉を裂く凄まじい手応え。敵将の身体が力なく馬上から崩れ落ちていく。 自軍の将が討たれた瞬間、敵陣の中に絶叫と大混乱が広まった。 ヴァレリオは血煙の中から高々と敵将の首級を掲げ上げ、夕日に向かって咆哮を上げた。

――ん? なんだ、あれは?

数々の戦場をくぐり抜けてきた歴戦の猛者の目が、遥か彼方に発生した奇妙な光景を捉えていた。


◇

「ひ、ひいいいッ!? なんでえええええ!?!?」

荒涼としたアンチアルマの平原に、場違いな少女の悲鳴が突風のように響き渡った。 少女――ココロギは、激しく揺れる馬車の御者台で泣きじゃくりながら、手綱を必死に握りしめていた。視界は涙でぐしゃぐしゃに滲み、鼻水を拭う余裕すら存在しない。 間違えたのだ。完全に、そして致命的なまでに。 危機を脱するために発動させたはずの異能『空間跳躍』の座標指定を、パニックのあまり盛大に二度も狂わせてしまった。 目指す先は、大好きな主人・ルシアが待つ「西の砦」。確かにこの平原をこのまま一直線に突っ切れば砦へと辿り着く。しかし、目の前に広がっていたのは……見渡す限りの鉄と漆黒の群集であった。 なんと、あの冷酷無比なる「アルストラーナ帝国軍」五十万の大軍勢が隙間なく展開する、まさに死のただ中へと飛び込んでしまったのだ。

「うあああああんっ! ルシアさまぁぁぁ! たすけてぇぇぇ!!」 ココロギの絶叫とともに、馬車は猛烈な勢いで帝国軍の最前線へと突撃していく。 「な、何だあの馬車は!? どこから現れた!?」 「敵の奇襲か!? いや、乗っているのはただの泣き叫ぶガキだぞ!?」 あまりに唐突な空間の歪みと、そこから現れた暴走馬車に、百戦錬磨の帝国兵たちすら一瞬絶句した。しかし、そこは血に飢えた軍勢。すぐさま最前線を任されている騎馬民族「グラッデェ」の部隊が素早く動き出した。 「ハハハ! 命知らずの小娘が! 捕らえて奴隷にしてやるわ!」

地響きのような蹄の音を立て、強靭な肉体を持つグラッデェの騎馬兵たちが、獲物を囲い込むように馬車の左右から迫り寄る。鋭い三日月刀が、西日にギラリと不気味に反射した。 「来ないでぇえええ! 近寄らないでぇぇぇっ!!」 恐怖が頂点に達したココロギは、目をぎゅっと瞑り、手綱を無我夢中で振り回した。 その瞬間、彼女の秘められた異能が、極限のパニックと連動して暴走を始める。 馬車を中心にして、局所的な空間の歪みが連続して発生したのだ。 右側から手を伸ばそうとしたグラッデェ兵の馬が、空間の捩れに足を取られて豪快に転倒する。左側から迫った騎兵たちは、突如として現れた真空の断層に弾き飛ばされ、悲鳴を上げて落馬していった。

「ひいいっ! ゴメンナサイ! ゴメンナサイいいっ!」 ココロギ自身には、攻撃しているつもりなど毛頭ない。ただ死に物狂いで前だけを見つめ、ルシアの元に辿り着きたい一心で泣き叫んでいるだけだ。だが、その悲鳴と涙の軌跡を追うように、馬車の左右では空間が次々と爆ぜ、追いすがるグラッデェの精鋭たちがなぎ倒されていく。 「な、なんだあの馬車は……! 近寄ることすらできんぞ!」 「化物か!? どんな秘術を隠しているというんだ!?」 圧倒的な恐怖と混乱が、瞬く間に帝国軍の先鋒を包み込んだ。五十万の大軍が誇る鉄の陣形が、たった一台の、ボロボロと涙を流す少女の馬車によって強引に穿たれていく。 「ルシアさまあああああっ!!」 猛進する馬車は、煙と砂塵を巻き上げながら、悲鳴を合図に帝国軍の重包囲網を一直線に撃ち破っていく。目的地である西の砦は、もう目と鼻の先であった。

緑の『四つ葉のクローバー』の紋章を掲げる、西の砦。いわゆる『聖ゲンドラス教国』が待機する拠点である。 城壁の上から望遠鏡を覗き込んでいたルシアが、突如として絶叫した。 「ココロギ!? なんで!? 危ない……今すぐ出るわ! ヴィオ! ビー・スー! ついてきて!!」 相変わらずの主人の無茶ぶりに、ヴィオもビー・スーもただ頷いて従うしかなかった。 (ココロギ!? なぜ? どうしてこんな場所に!?) 疑問を口にする余裕など一瞬たりともない。ただ今、彼女を救うために出撃するのみであった。


◇

アンチアルマの城壁の上。 肝心の宿敵・アルストラーナの本陣は南に展開しているのだが、オーレリア総大将イリアードは西門の上に立ち、ただ西の砦の動向ばかりを気に病んでいた。聖ゲンドラス教国の巫女『ルナ』の正体が、自身の愛娘『ルシア』であると察していたからである。 「閣下! 西の砦から三騎が出撃しました!」 「たった三騎だと!?」 この平野には敵が五十万も展開しているのだ。文字通り、死地に飛び込むようなものであった。 望遠鏡を構え直したイリアードの目には、はっきりとその姿が映っていた。愛する娘を見間違うはずなどなかった。 「ルシア! ダメだ……! 今すぐ出るぞ!」 「え? あの、全軍出撃ですか!?」 あまりの事態に、側近の兵が困惑の声を上げる。相手は五十万の大軍なのだ。 「当たり前だ! 総出撃だ! 南のヴェロニカ砦、東のフェルゼンヴァルデン砦にも即刻合図を送れ!」 オーレリアの『軍神』とまで称えられた男が、珍しく声を裏返らせ、なりふり構わず喚き散らしていた。

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