オーレリア外伝『六棘の霜華』その5
五月の初旬。
凍てつく冬がようやく去り、大秦人たちが『黒き森』と呼ぶ広大な原生林にも、わずかながらの春の気配が満ちていた。しかし、エルス川の北側に広がる原始の森は、夜ともなれば依然として凍えるような冷気が支配している。
その夜は、息をのむほどに美しい満月が夜空に浮かんでいた。白銀の月光が、見上げるほどの巨木が連なるオークの原生林を妖しく照らし出し、木々の長い影を地面に落としている。
ハガルが率いる『森の民』――その中の一族である「鹿族」の集落は、月夜の静寂の中にあった。狩猟採取を生業とする彼らは、自然の恵みを神々と崇め、地を這うような泥壁の丸太小屋でひっそりと暮らしている。昼間の狩りを終え、戦士たちも女子供も泥のように眠りについていた。
だが、その静寂は、前触れもなく訪れた二つの影によって永遠に破られることになる。
「ここが、独善的な神を祀り、略奪と狩猟に溺れる未開の民の巣窟ね」
月光を浴びて、フード付きのローブを羽織った二人の少女が集落を見下ろす丘に立っていた。
ローブの右肩、左胸、背中には、神出鬼没の義賊として恐れられる『六棘の霜華』の紋章が鮮やかに刺繍されている。しかし、今夜の彼女たちが携えているのは、義賊としての慈悲ではない。
短錫杖を手に、フードを深々と被った十五歳の貴族の少女、ルシア。その横には、長柄の仕込み錫杖を構えた侍女のヴィオが静かに控えている。
「ルシア様、これより『真理の光』をこの地に。……害をなす芽は、残さず摘み取ります」
「ええ。野蛮な狩猟採取は終わり。これからは農耕と交易の秩序を植え付ける。そのためには、古い神々に縛られたこの一族は、誰一人として生かしておくわけにはいかないわ」
ルシアの冷徹な宣告とともに、二人は月明かりの影を滑るように集落へと突入した。
「敵襲ーーーッ!!」
見張りの戦士が気づいた時には、すでに遅かった。ルシアの身のこなしは神の域に達している。風を切り裂いて振り回される短錫杖は、剣をも凌ぐ鋭さで戦士の頭蓋を正確に叩き割った。
騒ぎに気づき、狼の毛皮をまとった鹿族の戦士たちが手斧や鉄の槍を手に小屋から飛び出してくる。その中には、若きリーダーであるハガルの姿もあった。
「何奴だ! 森の神々の呪いを受けよ!」
ハガルが獣のような咆哮を上げ、自慢の鉄の槍を突き出す。しかし、その必死の一撃は、ヴィオの変幻自在な攻撃の前に虚しく空を切った。ヴィオが長柄の錫杖から細身の長剣を引き抜くと、キィンと澄んだ金属音が夜気を震わせる。右手の長剣がハガルの槍を鮮やかに弾き飛ばし、間髪入れずに左手に握った石突付きの鞘が、ハガルの胸骨を容赦なく粉砕した。
「がはっ……!? 馬鹿な、この俺が……」
崩れ落ちるハガルを見下ろすヴィオの顔は、深く被ったフードに遮られて何も見えない。
そこからは、文字通りの「蹂躪」だった。
大秦国の軍団兵すら恐れた、夜の森と同化する鹿族の戦士たち。だが、ルシアとヴィオの圧倒的な武力の前には、ただの肉塊に過ぎなかった。逃げ惑う者、命乞いをする者、武器を手に立ち向かう者――その全てが、月の光の下で冷酷に刈り取られていく。
夜が明ける頃、鹿族の集落は完全に沈黙していた。生存者は、一人としていなかった。
――それから、数日。
かつて鹿族の集落があり、血の海へと変わったその場所には、今や信じられない光景が広がっていた。
黒き森の一部は広大に切り拓かれ、天を突くような尖塔を持つ荘厳な大理石の建築物――『真理の光教団』大聖堂が、鬱蒼とした原生林の中に堂々とそびえ立っている。ステンドグラスから漏れる神聖な光が、かつて生贄の沼があった泥炭地を優しく照らしていた。
大聖堂の周囲には、見渡す限りの豊かな小麦畑が広がり、整然と区画された水路が流れている。
森の奥から姿を現したのは、かつてのように泥の戦化粧を施し狼の毛皮をまとった野蛮な民ではない。清潔な麻の衣服に身を包み、鍬や鎌を手にした「農耕の民」となった周辺の部族たちだった。彼らは教団の教えに従い、過酷な自然から命を奪い合う狩猟を捨て、土を耕し、実りを得る喜びを知ったのだ。
さらに、エルス川の川べりには頑強な石造りの交易港が建設され、南の大秦国や西の北方海賊の半島から、数多くの商船がやってくるようになっていた。毛皮や農産物が、南の精巧な鉄器や美しい織物と交換され、この地は未開の魔境から「富が循環する交易の要衝」へと完全に変貌を遂げていた。
大聖堂のバルコニーから、発展を続けるその街並みを見下ろす二人の影があった。ルシアとヴィオである。
「見て、ヴィオ。人は正しい光と秩序を与えれば、獣から文明人へと生まれ変わるわ。あの一族を全滅させたことは、この地に真の救いをもたらすための必要な犠牲だったのよ」
ルシアは、豊かに実った黄金色の畑を見つめながら、満足そうに微笑んだ。
「仰せの通りにございます、ルシア様。これぞ『真理の光』が導く、真の平和にございます」
ヴィオが静かに頭を下げる。
かつて血と泥、そして容赦なき鉄が支配していた、エルス川の北岸の『黒い森』は、いまや『真理の光教団』の不滅の威光のもと、新たな文明の夜明けを迎えたのであった。




