オーレリア外伝『六棘の霜華』その3
残雪の隙間から凍てついた苔が顔を覗かせる、早春の北辺。
フィヨルドの深い底に位置する海賊の集落「フロスト・ヴィーク(氷の湾)」は、長い冬の眠りから覚め、一斉に活気を取り戻しつつあった。
空を突くような針葉樹林の合間から、鋭い斧の音が木霊する。冷たく澄んだ空気を震わせるのは、冬の間に傷んだロングシップ(遠征用の長船)を修繕する木槌の音と、男たちの荒々しい怒号だ。
「おい、もっとタールを隙間なく塗り込め! 春の嵐の波は、冬の氷よりも執念深いぞ!」
集落の首長である大柄な男、トールズが羊毛のマントを翻しながら怒鳴る。海賊たちにとって、春の訪れは戦いと遠征の季節の始まりを意味する。海を覆っていた流氷が割れ、青黒い水面が姿を現した今、彼らの血はすでに遥か南の豊かな大地へと向かっていた。長船の船首に刻まれたドラゴンの彫刻が、春の淡い陽光を浴びてギラリと輝いた。フロスト・ヴィークの戦士たちが、再び海へと牙を剥く日は近い。夕闇が迫るにつれ、フロスト・ヴィークの集落は昼間とは異なる、幻想的で力強い熱気に包まれていく。
早春の北辺の日は短い。
西の空が燃えるような茜色から深い群青色へと移り変わる頃、フィヨルドの水面はまるで冷えた鋼のように黒く研ぎ澄まされていく。昼間の作業を終えた男たちが、次々と集落の中央にある大ロングハウス(長屋)へと集まってきた。女たちが、大きな木樽から伝統の蜂蜜酒を角杯に並々と注ぎ、戦士たちへと手渡していく。冬の間は貴重だった薪も、春の遠征を前に景気よく燃やされ、パチパチと火の粉を散らしながらロングハウスの煤けた天井を照らしていた。炉の周囲では、男たちが、焼き上がったばかりの鹿肉や干し魚のスープを豪快に平らげていた。やがて、一人の老楽師が竪琴の弦を爪弾き始めた。静まり返った室内で、彼が歌い出したのは、かつて世界の果てまで航海し、神々の祝福を得た英雄たちの古い伝承だ。早春の冷たい夜風が波を揺らす音が、遠くフィヨルドの底から、ゴォゴォと地鳴りのように響いていた。
――だが、その地鳴りに混じって、静かな足音が近づいていることに、宴に沸く海賊たちはまだ気づいていなかった。
日没後、この集落に、羽織っているローブのフードをすっぽりと被り、錫杖を持った謎の二人組が現れた。
右肩、左胸、背中には、大陸中で神出鬼没と噂される義賊『六棘の霜華』の紋章が鮮やかに刺繍されている。片腕ほどの短錫杖を手にしたのは、大陸の遥か東の端、アルヴェリア親王の娘である十五歳のルシア。そして、長柄の錫杖を手にしたのは、彼女に付き従う同い年の侍女、ヴィオであった。
「海賊にとっては襲撃。強奪は当たり前の職業なのかもしれない。だけど。襲われ奪われる側からすると、たまったものではないわ。一度、自分たちも経験すべきだと思うの」
フードの奥で、ルシアは冷徹に、しかし凛とした声でそう呟いた。これが彼女の考えであり、略奪を繰り返す海賊の根城、フロスト・ヴィークを襲撃する理由そのものだった。
「仰せのままに、ルシア様。荒くれ者たちに、相応の罰を与えてやりましょう」
ヴィオが長柄の錫杖を構えると同時に、二人は大ロングハウスの堅牢な木扉の前に立った。
ドカン――!!
凄まじい衝撃音が響き渡り、ロングハウスの重い扉が内側へと派手に吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
「敵襲か!」
ハチミツ酒に酔っていた戦士たちが一斉に跳ね起き、壁に立てかけてあった己の戦斧や盾へと手を伸ばす。炉の炎に照らし出されたのは、素顔を隠した不気味な二つの影だった。
「何奴だ! ここをどこの集落だと思っている!」
最前列の巨漢の戦士が、威嚇の咆哮を上げながら手斧を振り下ろす。
しかし、ルシアの動きはすでに人間のそれ、否、海賊たちの常識を遥かに超えていた。その身のこなしや技は神の域に達している。彼女は最短の動きで斧の軌道を見切ると、手にした短錫杖を鋭く突き出した。剣の代わりに振り回されるその一撃は、戦士の顎を正確に捉え、巨体を一撃で床へと沈める。
「ひるむな! 包囲して叩き潰せ!」
次々と襲いかかるヴァイキングの戦士たちに対し、今度はヴィオが前に出た。
ヴィオの持つ長柄の錫杖は仕込み杖になっており、彼女がそれを引き抜くと、鋭い金属音が夜の空間にキィンと響いた。引き抜いた細身の長剣を右手に、石鎚の付いた鞘部分を左手に持ち、彼女は変幻自在の攻撃を繰り出していく。風を切り裂く長剣が戦士たちの武器を弾き飛ばし、左手の石鎚が容赦なく敵の骨を砕く。北海の荒波を生き抜いてきた屈強な戦士たちが、東の地から来たわずか十五歳の少女二人の前に、ゴミのように薙ぎ払われていった。
「おのれ、小娘どもが……!」
航海図を広げていた首長トールズが、獣のような唸り声を上げて愛用の大斧を掴み、立ち上がった。彼の放つ圧倒的な威圧感に、ロングハウス内の空気が一瞬で凍りつく。しかし、フードを深く被ったルシアとヴィオの二人は、その素顔を見せないまま、ただ静かに錫杖を構え直すのだった。春を待つ海賊の集落に、今、かつてない激動の嵐が吹き荒れようとしていた。
「 退却など、させるものですか」
フードの奥から響くルシアの鈴を転がすような声は、燃え盛る炉の爆ぜる音さえも切り裂くほどに冷徹だった。
首長トールズが咆哮とともに振り下ろした渾身の大斧は、空を割るほどの威力を持っていた。しかし、神の域に達したルシアの身のこなしの前には、あまりにも大振りで鈍い。ルシアは紙一重でその一撃をかわすと、反動で生じたわずかな隙を見逃さず、短錫杖をトールズの胸元へと叩き込んだ。
「がはっ……!?」
凄まじい衝撃波がトールズの巨体を襲い、集落最強の戦士がロングハウスの壁を突き破って外へと吹き飛んだ。それと同時に、ヴィオの変幻自在な仕コミ杖が残りの戦士たちを容赦なく一掃していく。右手の細身の長剣が閃くたびに戦斧が宙を舞い、左手の石鎚が荒くれ者たちの闘志をことごとく叩き折った。
圧倒的な実力差だった。
誇り高きフロスト・ヴィークの海賊たちは、東の果てから現れたわずか十五歳の少女二人の前に、文字通り完膚なきまでに叩き伏せられた。
「ヴィオ、始めなさい」
「御意に、ルシア様」
静まり返ったロングハウスの中で、ルシアが淡々と命じる。ヴィオは倒れた戦士たちを一瞥もせず、炉の燃え盛る薪を掴むと、躊躇なく獣皮の敷物や木製の壁へと投げつけた。
火は一瞬にして燃え広がり、宴の場だった大長屋を真っ赤な炎が包み込んでいく。
襲撃はそれだけに留まらなかった。二人は燃え盛るロングハウスを後にすると、月明かりに照らされた集落へと繰り出した。ルシアたちの手によって放たれた火の手は、次々と民家へと燃え移り、早春の凍てつく夜空を赤黒く染め上げていく。冬を越すために蓄えられていたわずかな食糧も、戦士たちの財産も、全てが容赦なく炎の中に消えていった。
そして、二人の足はフィヨルドの岸辺、海賊たちの「命」そのものであるロングシップ(長船)が係留されているドックへと向かう。
「これで、あなたたちも海へは出られないわ」
昼間、男たちが春の遠征を夢見て念入りにタールを塗り込んでいた長船。ルシアが松明を投げ込むと、そのタールが最高の燃料となり、船首のドラゴン彫刻がまるで本物の火を噴くかのように激しく炎上した。バチバチと音を立てて崩れ落ちていく長船は、ヴァイキングたちの未来とプライドが灰へと変わっていく姿そのものだった。
背後では、命からがら燃える家から逃げ出した村人たちが、腰を抜かしたまま絶望の叫び声を上げている。
「家が……俺たちの船が……!」
「ああ、オーディンよ……! 春の遠征が、俺たちの全てが消えていく……!」
燃え盛る集落と長船の炎が、フィヨルドの黒い水面を血のように赤く染め上げる。その圧倒的な破壊の光景を背に、ルシアとヴィオは一度も振り返ることなく、再びフードを深く被り直して、夜の針葉樹林の中へと音もなく消え去っていった。
『六棘の霜華』――彼らにとってはただの「因果応報」であり、襲われ奪われる側の恐怖を教え込むための、冷酷なまでの義の執行であった。
あとに残されたのは、早春の冷たい風に煽られて激しく燃え続ける、フロスト・ヴィー




