オーレリア外伝『ガラスと大理石の幼姫』その6
帝国歴310年4月。
オーレリア帝国南部、アウルヴェリア親王領の都アクアパレス。
満開の春の余韻を残す風が、親王の居館である『常緑宮』の美しい庭園を吹き抜けていく。そこは深緑の樹木と咲きこぼれる花々に彩られた、穏やかな安らぎの空間——であるはずだった。
「だあぁぁぁっ! ルシア、覚悟ーっ!」
「生意気ですわ、リアム! お兄様ぶるのもいい加減にしなさい!」
ドスッ! カンッ! パシィィィン!
常緑宮の中庭を見渡す広々としたテラスに、幼い二人の怒号と、布が激しく叩きつけ合う鈍い音が響き渡っていた。
テラスの陰になったソファーでは、アウルヴェリア親王妃リゼリアが、お腹を慈しむようにそっと撫でながら、優雅にティーカップを口元へ運んでいた。現在二人目の子を懐妊中のリゼリアは、今年の夏には出産を控えている。
「ふふ、二人とも……お腹の赤ちゃんが驚いてしまいますから、ほどほどにしなさいね」
「王妃様、そうはおっしゃいますが……あの二人のありあまる体力を『ほどほど』で抑えるなど、神に祈るより難しゅうございます……」
リゼリアの傍らに控える侍女ロゼッタが、胃のあたりを押さえながら遠い目をして呟いた。
テラスの中央で死闘を繰り広げているのは、同じ年の同じ日に生まれた腹違いの兄妹——正妃リゼリアの息子リアムと、側室セシリアの娘ルシアであった。
二人が手にしているのは、フルヴィアルト産の最高級綿布を極限まで硬く丸めて作られた「剣」だ。怪我をしないようにと親王イリアードが与えた特注の訓練具なのだが、二人にかかればそれすら凶悪な打撃兵器と化す。
「突く! 払う! 薙ぐ!」
リアムは父親譲りの俊敏な身こなしで、怒涛の三段攻撃を繰り出す。
「甘いですわ!」
対するルシアはセシリア似の可憐なドレスの裾を翻し、軽やかにステップを踏んでそれをかわすと、返しの一撃を叩き込む。
可憐な銀髪を振り乱し、高慢かつ天真爛漫に叫ぶルシアと、負けじと牙を剥くリアム。二人は生を受けたその日から、「どちらが上か」という永遠の課題を巡って、絶え間ない戦いを繰り返していた。
「僕の方が先に生まれたんだ! 僕がお兄様だ!」
「生まれた時間はルシアの方が早かったとおかあ様から聞いておりますわ! ルシアがお姉様ですの!」
「男の僕が兄貴に決まってるだろっ!」
「女の子のルシアの方が世界で一番偉いですわっ!」
バチィィィン!
綿布の剣が交錯し、空気を引き裂く鋭い衝撃波がテラスを揺らした。
ここ数年、オーレリア帝国全土では、なぜか「毎年のように原因不明の天変地異」が報告されていた。
ある年は、季節外れの巨大台風が親王領を襲い、ある年は、荒野に原因不明の小隕石が落下して巨大なクレーターを作った。帝国の中央気象庁や星術庁は「星の周期の乱れ」「大気の過剰な霊気の滞留」などと尤もらしい論文を発表していたが——真相は実に単純極まりないものだった。
そのすべての天変地異の犯人は、いま眼前で悔しそうに歯を食いしばっている四歳児、ルシアである。
ルシアの身に宿る異能は、文字通り「世界を創り変える」ほどに絶大だ。一瞬で人の命を奪うことなど、息を吸うより容易い。しかし、四歳とはいえルシアは頭が良く、セシリアから深く愛されて育った少女だ。「人を殺してはいけない」「リアムを本当に傷つけてはいけない」ということは、ちゃんと理解していた。
だからこそ——手加減をした「剣撃」でリアムに負けそうになったり、我慢して負けに甘んじたりした瞬間、行き場を失った彼女の強大すぎる感情と異能が爆発するのだ。
「人を傷つけられない」という理性が働いた結果、ルシアの過剰なストレスと莫大なエネルギーは、身近な人間ではなく「巨大台風」や「隕石」という形で外の天候や天体に放出されていたのである。
つまり、帝国の天災はすべて、四歳児の「兄妹喧嘩の不完全燃焼」の産物であった。
「はぁ……はぁ……! ルシア、これで終わりだ!」
リアムが全身の力を込め、上段から渾身の一撃を振り下ろす。
「あっ……!」
ルシアは一瞬、足を滑らせた。直撃を避けるために一歩引こうとしたが、可憐なドレスの裾を踏んでしまう。
(だめ……本気で異能のバリアを出したら、リアムの手が吹き飛んで壊れてしまいますわ……!)
ルシアは咄嗟に異能の防御を解除し、素手で攻撃を受け止める形を選んだ。
バシッ!
「あ痛っ……!」
綿布の剣がルシアの手首を直撃し、ルシアの手から剣が力なく転がり落ちた。
「……勝った! 僕の勝ちだ! どうだルシア、僕がお兄様だと認めろ!」
リアムは剣を掲げ、誇らしげに胸を張って勝ち誇った。
テラスに重い静寂が訪れる。
手首を押さえたルシアは、ぽつんと立ち尽くしていた。透き通るような銀髪が顔にかかり、その表情は見えない。
「……ルシア……?」
リアムが異変に気づき、少し戸惑ったように声をかける。
ルシアの小さな肩が、プルプルと激しく震え始めていた。
(……負けた……。手加減をしてあげたのに……リアムを傷つけないようにしてあげたのに……! ルシアが……負けましたの……!?)
セシリア譲りの宝石のような大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。 高慢で、我儘で、世界で一番偉いはずの自分が、負けを受け入れなければならない屈辱。そして、相手を思って手加減したからこその口無念さ。
感情のダムが、決壊した。
「……う……うわぁぁぁぁぁぁんっ! リアムのおバカぁぁぁぁぁっ!」
ルシアが天を仰いで泣き叫んだ瞬間——アクアパレスの空が一変した。
ドドドドドドド……!
直前まで快晴だった春の空が、一瞬にして禍々しい紫色の暗雲に覆われた。大気が異常な密度で圧縮され、バリバリと強烈な静電気が常緑宮の庭園を駆け抜ける。
「な、なんだ!? 空が……!」
リアムが仰天して空を見上げた。
常緑宮の上空、暗雲の渦の中心が急速に回転し始めていた。大気が渦を巻き、まるで世界を丸ごと呑み込むかのような、超大型の「巨大台風」が、わずか数秒で常緑宮の真上に自然発生したのだ。
さらに、暗雲の隙間から、ゴオォォォォ……という不気味な地鳴りのような音が響き渡る。 ルシアの感情の爆発に引き寄せられた大気圏外の小惑星(隕石)が、燃えさかる炎の尾を引いて、一直線にアクアパレスに向かって落下してきているのだ。
「ヒッ……!? 隕石!? また隕石ですかぁぁぁっ!?」
侍女たちが悲鳴を上げて頭を抱えた。
「うわぁぁぁん! ルシアが一番ですの! お姉様ですの! リアムなんて大嫌いですわぁぁぁっ!」
ルシアが泣けば泣くほど、台風の風速は増し、上空の隕石は速度を上げて接近してくる。このままではアクアパレスどころか、アウルヴェリア親王領の一部が地図から消し飛ぶ勢いだった。
「ルシア! 泣くなよ! 分かった、僕が悪かったから!」
リアムが慌てて説得しようとするが、一度爆発した四歳児のパニックは止まらない。
その時だった。
「——そこまでにしなさい、二人とも」
静かだが、圧倒的な威厳を湛えた声がテラスに響いた。
重厚なガラスの扉が押し開かれ、漆黒の軍服を身にまとった男——アウルヴェリア親王イリアードが姿を現した。
イリアードは大股で歩み寄ると、半狂乱で泣き叫ぶルシアを軽々と抱き上げ、その小さな頭を優しく胸に抱き寄せた。
「泣くな、ルシア。お前の負けではない。お前がリアムを傷つけまいと、優しさゆえに手を引いたのを私は見ていたぞ」
「……っ! お、おとう……様……?」
イリアードの温かな腕の中で、ルシアの泣き声がぴたりと止まった。イリアードは大きな手でルシアの涙を優しく拭う。
「リアム。お前もだ。相手が手加減をした隙を突いて勝ち誇るなど、男のすることではない。今日の勝負は引き分けだ」
「ぐっ……はい、父上……」
リアムは悔しそうに首をすくめた。
イリアードがルシアのおでこにそっと唇を寄せると、ルシアの胸に溜まっていた激しい怒りと屈辱が、すーっと潮が引くように消えていった。
すると——どうだろう。
上空を覆っていた禍々しい暗雲は嘘のように霧散し、落下してきていた大火球(隕石)は、空中で一瞬にして煌めくピンク色の「光の紙吹雪」へと姿を変え、アクアパレスの街並みにひらひらと舞い降りていった。
暴風は心地よい春風へと戻り、常緑宮に再び穏やかな日光が差し込む。
「ふぅ……間一髪でしたわね、殿下」
テラスのソファーから、リゼリアがクスクスと楽しそうに笑いをこぼした。
「まったく……ルシアの異能には冷や汗が尽きん。また帝国の宮廷から『天変地異の調査報告書』が届いてしまうな」
イリアードは苦笑しながら、抱っこしているルシアの鼻を軽くつまんだ。
ルシアはイリアードの首にぎゅっと抱きつき、リアムに向かってあっかんべーと舌を出した。
「ふふん! おとう様が引き分けって言いましたから、ルシアは負けていませんわ!」
「チェッ、次は絶対に力ずくで降参させてやるからな!」
リアムが生意気に言い返し、二人は再び火花を散らし散らした。
今年の夏には、新しい弟か妹が生まれてくる。 この嵐のように騒がしく、けれど溢れんばかりの愛に満ちた常緑宮に、また新しい家族が増えるのだ。
「さあ、二人とも。喧嘩はおしまいにして、一緒におやつにしましょう」
リゼリアが優しく呼びかけると、二人は「はーい!」と声を揃えて元気に返事をした。
帝国歴310年、4月。 数々の天変地異を引き起こしながらも、アウルヴェリアの小さな兄妹は、今日も元気に、そして天真爛漫に春のひとときを駆け抜けていくのだった。




