吾輩はケモナーである
吾輩はケモナーである。
もっとも、この肩書きを履歴書に書けば、おそらく書類選考の時点で人生は終わる。
ゆえに普段は胸の内へ秘め、人並みの顔をして社会を生きている。
社会というものは不思議である。
人が二十を越えれば仕事を尋ねられ、三十を越えれば結婚を尋ねられる。
帰省するたび母は言う。
「いい人はいないの?」
父は新聞を読みながら頷く。
親戚は酒を片手に笑う。
「孫の顔が見たいなぁ。」
まるで人間という生き物は、異性と結ばれ子を残すためだけに生まれてきたような物言いである。
吾輩は考える。
それは誰が決めた。
幸福とは、誰が定義した。
好きな者と共に生きることが幸福なのか。
子を残すことが幸福なのか。
社会の期待どおりに生きることが幸福なのか。
もしそうなら、その幸福から少し外れた者は皆、不幸ということになる。
そんな乱暴な話があるものか。
もっとも、吾輩の場合は話が少々ややこしい。
なぜなら吾輩はケモナーだからである。
狼の耳。
狐の尻尾。
獅子のたてがみ。
虎の眼光。
そうしたものに心惹かれる。
しかし現実は実に非情だ。
ケモは存在しない。
少なくとも戸籍を持って、駅前を歩き、婚姻届を書ける者は一人も見たことがない。
つまり吾輩の恋路は、始まる前から役所に否定されているのである。
これほど理不尽な話があろうか。
人はよく言う。
「現実を見ろ。」
吾輩も見ている。
見た上で絶望したのである。
吾輩の初恋は中学の頃である。
初恋とは得てして、桜の下で少女と目が合うだとか、部活動の先輩に胸を焦がすだとか、そのような甘酸っぱい記憶を伴うものらしい。
しかし吾輩に、そのような青春は訪れなかった。
吾輩が恋をした相手は、一匹の青い狐である。
正確にはゲーム『スターフォックス アドベンチャー』に登場するクリスタルという名の獣人であった。
普遍的な人生を歩む者は、この辺りで眉をひそめる。
「そこで道を踏み外したのだな。」
そう結論づける者も少なくない。
だが、それは違う。
吾輩は狂わされたのではない。
最初からこちら側だったのである。
人はしばしば、自分と異なる者を見つけると「狂っている」と呼ぶ。
しかし、その判定基準は実に曖昧である。
毎朝満員電車へ押し込まれ、好きでもない上司に頭を下げ、住宅ローンを三十五年払い続ける生活を「正常」と呼び、青い狐に恋をする人間を「異常」と呼ぶ。
その境界線は、いったい誰が引いたのであろう。
もっとも、当時の吾輩は小学生である。
理屈など持ち合わせてはいなかった。
ただ放課後になるとゲームを起動し、クリスタルが画面へ現れるたびに胸を高鳴らせていた。
やがて文明は進歩する。
インターネットというものが各家庭へ普及し、世界中の人間が己の欲望を共有する時代が訪れた。
検索窓へ恐る恐る彼女の名を打ち込む。
すると驚いたことに、世界には吾輩と似たような者が存外多く存在した。
孤独だと思っていた森の中には、実は同じ方向を見つめる獣たちが何匹もいたのである。
あの瞬間ほど、人類の多様性に感謝した日はない。
以来、吾輩は確信するようになった。
多数派であることと、正しいこととは、必ずしも同義ではない。
そして少数派であることもまた、間違っている理由にはならないのである。
もっとも、時代というものは残酷であると同時に、存外やさしくもある。
吾輩が少年であった頃、同志と出会うことは砂漠で一粒の砂金を探すに等しかった。
「獣人が好きだ。」
その一言を口にすれば、奇人を見る目で見られたものである。
しかし今は違う。
個人が作品を世へ送り出せる時代となった。
獣人を主役に据えた漫
個人制作のアニメーション。
精巧な模型や立体作品。
名も知らぬ同志たちが、それぞれの持ち場で旗を掲げ続けた結果、かつて路地裏で囁かれていた趣味は、陽の当たる場所へ少しずつ歩み始めている。
文明とは、蒸気機関や電気だけを指す言葉ではない。
理解されなかった者が、理解されるようになることもまた、文明なのである。
吾輩は信じている。
世間は変わる。
今は笑われるものも、百年後には当たり前になっているかもしれぬ。
昔、漫画を読む大人は幼稚だと言われた。
ゲームをする者は不真面目だと言われた。
しかし今では、それらを楽しむ人間は珍しくもない。
ならば獣人を愛でる者も、いずれ「そういう趣味ですね」と肩をすくめられる程度の存在になる日が来るだろう。
吾輩は、その日を待っている。
ゆえに結婚は急げぬ。
母は言う。
「早く身を固めなさい。」
父は言う。
「良い人を見つけろ。」
しかし吾輩には、まだ使命が残されている。
この世界に、獣人型アンドロイドが実用化される、その日まで。
世の研究者諸君には、ぜひ頑張っていただきたい。
少子高齢化だの労働力不足だの、諸問題は山積しているらしいが、その研究もまた人類史において決して小さくない一歩であると、吾輩は勝手に信じている。
人は吾輩を夢想家と笑う。
笑うがよい。
飛行機も月旅行も、かつては夢想家の妄言であった。
ならば吾輩の夢もまた、未来の常識になる可能性を、まだ捨てるには早すぎるのである。




