猫は喋らず
ビビが帰ってきた。人間の姿になって。
驚きで呆然としている私の目の前で、彼女は首を傾げる。チリン、と控えめな鈴の音が鳴った。
ビビは私と暮らしていた猫だ。
出会いは三年前。友人の実家の軒下で野良猫が子猫を産んで、譲渡先を探していたのが私たちの始まり。ペットの飼育が可能な物件に住んでいた私に白羽の矢が立ち、まんまと子猫の可愛さに魅了された私はビビを引き取った。
あまりに小さなビビを家に迎え入れた日、幸せなはずなのに私の気持ちは暗かった。今更、自分がこの命に対して、重大な責任を背負うことに気付いた。この子を幸せに出来るのか、漠然とした不安を感じている私をよそにビビは私の指にじゃれつき始めた。
猫は気ままで自由で、プライドが高い生き物だと思っていた。けれどビビは甘えん坊で人が大好きで、そして慎重でビビリな猫だった。うとうとしているビビにソッと後ろから近付いて、ビビ、と呼び掛けるだけで飛び上がって驚いて、尻尾をレッサーパンダのように太くしていた。そうして私だと気付いた後、何だ飼い主か、驚かさないでよ、と言うように足に顔をすりすりと擦り付けていた。
ビビリだからビビ、だなんて酷い名付け方だったな。でも響きが可愛いし、当人も気に入っていたみたいだから許して欲しい。すぐに名前を覚えて、呼ぶだけでチリチリと控えめな鈴の音を鳴らして私の元へ近寄ってきてくれた。
幸せだった。本当に。
でも幸せなんてある日突然、消えてなくなる。
病気だった。ウイルスに感染していたらしく、あっという間に亡くなってしまった。治療薬は数十万掛かるが、ビビのためならと治療をしてくれる病院を見つけ出し、処方してもらってすぐのことだった。
あまりに辛くてよく覚えていない。でもビビはもっと辛かったはずだ。
自分を責めた。
責めて責めて責めた。
それくらいしか出来なかった。
でもビビは帰ってきた。
私にはすぐにビビだと分かった。ハンドメイドをしている友達に頼んで作ってもらった、リバティプリントの生地を使った首輪で、小さなリボンと控えめな音が鳴る鈴があしらわれていた。
彼女の首にはチョーカーが巻かれている。小花柄の生地で、小さなリボンと鈴の付いた。それにビビと同じ色の白いワンピースを着ていた。
「……ビビ?」
搾り出すようにそう呼ぶと、彼女は小さく首を傾げた。チリン、と聞き慣れた鈴の音が鳴る。私は震える手で彼女を抱き締めて、わんわんと子供のように泣いた。
それから人間になったビビとの生活が始まった。
人間のビビは喋らないし、声もほぼ出さない。元々、猫だった時もあまり鳴かなかった。お気に入りのおやつを食べた時だけ、くるくると鳴いて、猫はニャーと鳴くんじゃないんだ、と驚いた。
人間になったけれど、食べ物は人間の物を食べるのかな。それとも猫だった時と同じ物を食べるのかな。
悩んだ挙句、私はどちらも食卓に用意した。ビビは当たり前のように箸を使って鰹のたたきを美味しそうに食べた。そりゃそうだ。鰹の味のおやつが好きだったんだから、本物はもっと美味しいに決まってるよね。
病気にならないよう、健康に良い食事をバランス良くあげなきゃ。間違っても、またいなくなってしまわないように。
好きだったおもちゃを並べてみて、どれがいい、と聞いてみる。ビビは興味無さそうに視線を外し、私のベッドの中に潜り込んだ。
ビビはあのベッドがお気に入りだった。猫用のベッドを並べてみても、どれも気に入ってはもらえなかった。いつも真ん中で寝てしまうので、私が横になるスペースが無いよと言うと、伸びをしながら欠伸をして本当に少しだけ避けてくれる。呆れて笑って、変な姿勢で寝ることになって次の日寝違えて、痛みをこらえながら過ごした。
さすがに人間のサイズになるとそうもいかない。一緒に寝ることを諦めて、来客用の布団を出して寝ることにした。だけどいざその布団で寝ようとすると、ビビは私がいる布団の中に潜り込んで来た。スリ、と私に頬を寄せて眠るビビを抱き締めて眠った。
ビビは可愛い。人間の姿になっても、変わらない。愛らしいピンクの舌で私を舐めて、くすぐったいよ、と言って私は笑う。
可愛い可愛い私のビビ。
人間になって、私に会いに来てくれて、ありがとう。
今度は間違えないから、幸せにするから、ずっと私と一緒にいてね。
私がそう伝えるとビビは驚いたようで、不安げに顔を歪めるだけで頷きもしなかった。尻尾は膨らまなかった。彼女は、人間になってしまったから。
尻尾は生えてこないのかな。少し、寂しい。
******
最近、大学に飛鳥が来ない。連絡を入れても返事も無いので、飛鳥の家を訪ねることにした。
飛鳥は1年の時の必修の授業で仲良くなった友達だ。厳しい先生の仏語を取ったことは後悔していたけれど、飛鳥と隣の席になれたので帳消しだ。むしろ、お釣りが出るくらい。
入学式の時から飛鳥は目立っていた。全く洒落っ気が無くてただシンプルな服を着ているだけなのに、それが素材を引き立てている。整った顔に手足が長くモデルのようで、ショートヘアがとても似合っていた。ジェンダーレスってやつかな、中性的な雰囲気でとても素敵、仲良くなりたい、と思っていたのだけど、周りも同じように感じていたようだ。
けれど飛鳥のガードは硬く、話しかけても冷たくあしらわれるだけで、誰も親しくはなれなかったようだ。
ただ何故か私はすんなり飛鳥と連絡先の交換も出来、お昼も一緒に食べ、一緒に課題をする仲になれた。でも飛鳥はなかなか懐の内に入れてくれない。少し間違えたらすぐに嫌われてしまいそうで、私は次の一手を打ちかねていた。より親しくなるためには、どうすればいいか。
そんな時に実家の母から連絡があった。軒下で猫が子供を産んで、譲渡先を探している、友達に聞いてくれないかと。
私は飛鳥に真っ先に声を掛けた。だって、猫のことにかこつけて、仲良くなれるに違いないから。世話や準備で家に上げてもらえるかもしれない。
下心だらけの私に全く気付かず、飛鳥は子猫の写真を見せたらとても可愛いと食い付いて、まんまと猫を引き取ってくれた。
猫を飼うのは初めての飛鳥に、私は様々なことをレクチャーした。目論見通り家にも上げてもらえた。そうして私と飛鳥の仲はますます深まって、ビビの様子を見たいという体でそれからも何度も家に上げてもらった。(余談だけど、猫の名前は私が付けた。あまりに何度も猫を可愛いと飛鳥が言うので、ちょっと意地悪してやろうとビビりだからビビね、なんて言ったらそのまま定着してしまった)
そこまで聞けば成功だと思うのだろうけど、予想以上に飛鳥の猫への気持ちが強くてなかなか私の入る隙は無い。まあいいか。幸せそうに猫と戯れる飛鳥を見れるのは、私だけだ。
普段ニコリともしない飛鳥が猫に蕩けるような微笑みを浮かべて、これが私とビビだけのものなんてあまりにも贅沢だな、なんて思いつつ、独占できる幸せを噛み締めていた。
「ビビが、死んだ?」
ほんの僅かに飛鳥が頷いた。部屋の中はいつも通り片付いていて、ビビのトイレやお水もいつもの通りに置かれていた。ただ私たちを挟む机の上に、白い陶器のシンプルな骨壷が置かれていた。温もりを感じない、ひんやりとした白。その中にビビがいるなんて、信じられない。
「え、何で、どうして……」
「あっという間で、連絡も出来なくて」
か細い声が飛鳥から漏れる。
細い体はより細くなって、伸び放題の前髪の隙間からは生気の無い瞳が覗いた。
飛鳥を慰めたくて私は口を開くけれど、言葉は何も浮かんで来ない。今の空っぽになっている飛鳥にどんな言葉を掛けても、空虚なカラカラとした音が響くだけで何の救いにもならないだろうと思った。
だって、大した苦労もせずにここまで生きてきた薄っぺらい私に、気の利く言葉なんて思いつくわけない。
開いた口をまた閉じて、私は飛鳥を見つめた。
「ごめんね。譲渡してくれたのに、大事に出来なくて」
「そんなことない。飛鳥はビビのこと大事にしてたよ。ビビも飛鳥のこと、大好きだったよ」
涙混じりの声でそう伝える。
傍目に見ても2人は本当に幸せそうに見えた。ビビのどんな悪戯も飛鳥は優しい眼差しで受け止めて、ビビものびのびと飛鳥を信頼して過ごしていた。それはもう、私が嫉妬してしまうのも烏滸がましいと思ってしまうほどに。
飛鳥はただ首を振った。それだけだった。
結局その日はそのまま帰った。何度か連絡をいれてみるけれど、飛鳥からの返事はまちまちで、返ってくる日もあれば、返ってこない日もあった。
時間が薬になるかと思ったけれど、段々返事が来る頻度も落ちてきて、居ても立ってもいられなくなった。時間が経つほど、傷が深くなることだってあるだろう。
なんて声を掛けたらいいかも分からないけれど、とにかく会いに行って、私が無理矢理にでも飛鳥の気持ちを明るくしなければ。
私はカレンダーを見て、あることを思い付く。引き出しの中にしまっていた生地と道具を取り出して、早速作業に取り掛かった。
インターホンを押して、飛鳥が出てくるのを待つ。無視されたらどうしようかと思ったけれど、カチャリと鍵の開く音がして扉が開いた。
「ジャーン!ハッピーハロウィーン!見て、ビビの仮装だよ!」
私は白いワンピースを広げて見せた。
白いビビをイメージして、真っ白のワンピース。それにビビのために作った首輪の生地が余っていたので、チョーカーを作って着けた。
道中恥ずかしかったのでコートにマフラーを着けてここまで着たけれど、暑くて大変だった。
顔に笑顔を貼り付けるけれど、心の中は不安でいっぱいだった。失望されて嫌われたらどうしよう。でもハロウィンだから許して欲しい。イベントのノリに任せて明るく振る舞うことくらいしか、私には思い付かなかった。
カバンの中にはビビの写真や、兄妹猫の写真を入れたアルバムも入れてきた。怒ったら、それを渡そう。でも元気な兄妹の写真を見たら、また悲しくなってしまうかな。
ドキドキしながら飛鳥の反応を待つ。
更に線の細くなった飛鳥は、目を見開いて驚いた表情を浮かべていた。
「……ビビ?」
「そうだよ、どうかな?」
首を傾げ、そう尋ねる。
あれ?怒ってなさそう。良かった。ホッとして笑顔を浮かべる。飛鳥は目を見開いたまま、私へ一歩近付いた。
そして、思いっきり私を抱き締めた。細い体のどこにそんな力があるのかというくらい、全力で。私は動揺して、ただただ棒立ちになってしまった。
すぐに飛鳥の咽び泣く声が聞こえてくる。
「ビビ……! 良かった、戻ってきたんだね!!」
「あ、飛鳥……?」
「ごめんね、本当にごめんね……! 今度は間違えないから……」
「え、待って……」
「絶対大事にするから、お願い、もうどこにも行かないで」
飛鳥はそう泣きながら言い、私を部屋の中へ引き摺り込んだ。
どうやら、もう何もかも遅かったみたい。
時間薬は人によるようで、私はもっと早く飛鳥を病院に連れて行くべきだった。
そもそも最初に飛鳥からの返信が来なかった時に、私はもっと早く飛鳥の元へ駆けつけていたらよかった。そうしたらビビが死んだ悲しみを、少しくらい分けてもらえたかもしれないから。
そうして飛鳥は私をビビだと思い込んだまま軟禁し始めた。話しかけても鳴き声だと認識しているのか全て無視されてしまい、会話が出来なかった。私は飛鳥の前で喋るのをやめた。
家から出ようとすると取り乱して泣かれてしまうので、私は飛鳥が出かけている時しか家から出られない。
一度飛鳥が買い物中に家に帰った時、予定より早く家に着いた飛鳥がビビが脱走してしまったと近所中を探し回っていたようだ。一緒に探してくれと、友達である私に連絡までしてきて。慌てて飛鳥を迎えに行くと、ボロボロ泣いてもう離れないでと切実に訴えられたので、次からは気をつけようと反省した。
飛鳥は一緒に暮らすうちに生活も前のようにきちんと送るようになって、体重も戻ってきて大学も行きだした。
私はホッと胸を撫で下ろした。私は今期の単位をいくつか落としてしまうかもしれないけれど、飛鳥が廃人のようになるよりはずっと良い。
この暮らしを続ければ、以前の飛鳥に戻るだろう。その内、私がビビじゃないって気付いて、何をしているのなんて言われるんじゃないかな。
それに、飛鳥に優しい表情で見つめられて撫でられて、一緒に寝る生活も悪くない。ビビと私で独占していたと思ったけれど、本当は違っていたんだな。ビビだけが飛鳥を独占していたんだ。
今は私がそのポジションだけれど。ビビ、ごめんね。後ろめたいけれど、どこか甘美な、そんな感情を私は抱いていた。
「これ、猫の寿命が伸びる成分が入ってるんだって。腎臓の病気になりにくくなるやつ」
飛鳥がそう言って、袋を私に見せる。正方形の、手のひらサイズの袋。その封を切って、ビビがいつも使っていた小皿にのせた。カラカラと音がなって、星の形の茶色い固形物が盛られる。当然だけど、全然食欲はそそられない。
いつも飛鳥は人間になったビビだと私を認識しているので、トイレもご飯も人間と同じような扱いをしてくれている。一番最初のご飯は人間の物と猫の物を並べて出されたけれど、人間の物だけを食べたら納得してくれて、それからは猫の物は与えてこなかった。
それなのに、どうしていきなり。
私は無言でそれを眺め、それから皿を押して拒否を示した。ビビも食べたくないものは手で押して、高いところから落とすことをよくしていた。さすがに落とすのは気が引けたので、押すだけにとどめた。
「ダメ。食べて。ビビ」
「…………」
「健康にしなきゃいけない。人間のご飯は、猫の体に悪いんだって」
あんなに食べさせておいて、今更?
私は立ち上がって、ベッドの上に寝転んだ。さすがに猫のおやつはすすんで食べたくはない。それにこれを受け入れたら、今後も猫のご飯を食べさせられるような気がする。それは困る。
ビビがするようにころんと仰向けになって、お腹を見せる姿勢をする。こうしたら飛鳥は、もう、なんて笑いながら私のお腹を撫でにくるはずだ。何だかんだビビに甘いから。
次の瞬間、飛鳥が私のお腹の上に馬乗りになり、私の両頬を片手で思い切り掴んだ。親指を口の中に突っ込んで、爪を歯の隙間にねじ込んでこじ開けようとしてくる。
「えっ!? 飛鳥、やめて!」
そう叫び私はジタバタと暴れる。顔を左右に振って、その手を振り払おうとする。
視界の先に、ビビの骨壷が映った。飛鳥は私がいるのにあの骨壷を大事に大事にしていて、ちっともお墓の中に入れるとか、手放したりする気はなさそうだった。
私の口をこじ開けながら、飛鳥は私に顔を近付ける。目と鼻の先に整った顔があって、その目は真っ直ぐ私を映していた。
「――美春」
名前を、呼んだ。
飛鳥が、私の名前を呼んだ。
いつもビビと私を呼び、決して私を認識しないはずの飛鳥が。
私は暴れるのをやめて、飛鳥を見つめ返した。
「猫は、喋らない」
ゾクリ、と背中に何かが走る。
何も表情を浮かべないまま、飛鳥が私の口の中に星型の固形物を押し込んだ。特に抵抗もせず、私は受け入れる。ガリッと砕ける音がして、粉々に砕けたそれが舌の上にのった。味わうことも無く、私はそれらを飲み込んだ。
鳴こうとして、ビビのような鳴き声は私には出せないんだったと気付く。
喉の奥を震わせるような、くるくると鳴るあの声を。




