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床に広がった鮮血は、ラナリアの亡骸を静かに飲み込んでいく。俺は剣を鞘に収め、荒い呼吸を整えた。
床の上で、ユリオスが動いた。
彼はラナリアの死体から目を背け、虚ろな表情で俺を見つめた。その瞳には、もはや生への執着も、妹への憐れみも残っていない。ただ、深い霧の奥にあるような、底知れぬ空虚だけがあった。
「……アラクネは、ゲホッ、ゲホッ……どこだ?」
掠れた声が、肺の奥から絞り出されれいるようだった。
「アラクネは……どこだ? 私の、アラクネは……」
彼は、ラナリアの自害も、彼女が口にした呪いの真実も、全てを拒絶しているようだった。彼が求めているのは、ただ一人。彼を愛し、彼が愛した女性だけだ。
「……待ってろ」
俺は短く告げ、屋敷の外へ出る。嵐の前触れのような、重く湿った空気が肌にまとわりつく。屋敷の家屋の傍らに、そっと下ろしておいたアラクネの亡骸。
俺は彼女を丁寧に抱え上げ、再び屋敷の中へと戻った。
冷たくなった彼女の体は、羽毛のように軽い。だが、その重みは、俺の心に鉛のように沈み込んでいた。
寝室へ戻ると、ユリオスはまだ同じ姿勢で、虚空を見つめていた。
俺がアラクネの亡骸を側の床に傍らに横たえると、彼の瞳に、一瞬だけ生気が戻った。
「……アラクネ?」
ユリオスは、信じられないものを見るかのように、彼女の顔を凝視した。
土に汚れ、血に染まった白い外套。だが、その顔立ちは、彼が愛したアラクネその人だった。
「ゲホッ、ゲホッ、彼女は……彼女は……死んでしまったのか!?」
ユリオスの悲鳴が、部屋に響き渡った。
彼はベッドから這い出すようにして、アラクネの亡骸に取りすがった。
「アラクネ! 目を開けてくれ! 私だ、ユリオスだ! ゲホッ、ゲホッ」
彼は彼女の冷たい頬を撫で、何度もその名を呼んだ。だが、彼女はもう、何も語らない。
ユリオスは、アラクネの亡骸を抱きしめ、激しく泣き崩れた。
「……げほっ、げほっ!」
咳が、再び彼を襲った。
それどころか、咳はさらに激しく、深く、彼の体を内側から引き裂くかのように続いた。
「彼女は、すでに蜘蛛になってしまっていたんだ」
俺は、動かなくなったアラクネを見つめながら、静かに告げた。
「あの洞窟で、俺に襲いかかってきた。……だから、仕方がなかった。すまない。」
俺の言葉に、ユリオスの動きが止まった。
彼はアラクネを抱きしめたまま、ゆっくりと、首を巡らせて俺を睨みつけた。
「……襲ってきた?」
彼の声は、地を這うような低音だった。
「じゃあ……あんたが殺したのか。アラクネを!! 私の愛しいアラクネを!!」
ユリオスの瞳に、激しい憎悪が燃え上がった。
「彼女は何人も殺していた。……奴隷たちをだ。だから……」
「いいや!! あんたが殺したんだ!!」
ユリオスは俺の言葉を遮り、叫んだ。
「呪いと分かっていたのに! 彼女が苦しんでいたと分かっていたのに! あんたが……あんたが殺したんだ!」
「すまない……」
俺が呪いだと早く見抜けていれば、結末は違っていただろう。
「……げほっ、げほっ!」
叫んだ直後、ユリオスは激しく吐血した。
どす黒い血が、アラクネの白い外套を、さらに赤く染めていく。
「なぁ、落ち着け。じゃないと、あんたも死んでしまう」
「黙れ!! ゲホッ、ゲホッ、 お前が殺したんだ! 全部、お前のせいだ!!」
「……げほっ、げほっ、ぐはっ!」
ユリオスは再び吐血し、そのまま床へ崩れ落ちた。
「大丈夫か!?」
俺が手を伸ばそうとすると、ユリオスはそれを激しく拒絶した。
「私に……触れるな!! ……げほっ、げほっ!」
彼はアラクネの亡骸から離れまいと、自身の血で染まった手で、必死にアラクネの亡骸を抱きしめていた。
彼はアラクネの亡骸にしがみつき、彼女の冷たい体に顔を埋めた。
激しく泣きながら、何度も、何度も吐血を繰り返す。
彼の血が、アラクネの血と混じり合い、床に大きな血だまりを作っていく。
そして。
ユリオスの身体から、力が抜けた。
彼はアラクネを抱きしめたまま、二度と動かなくなった。
部屋に残ったのは、鉄の匂いと、静寂。
そして、二度と離れることのない平穏と、三人の亡骸だけだった。
しばらく後……。
俺は、三人の亡骸を、屋敷の裏手にある、陽当たりの良い場所に立つ木の木陰に埋葬した。
アラクネとユリオスを隣り合わせに。そして、少し離れた場所にラナリアを。
彼女もまた、呪いで苦しんだ一人の女性に過ぎない。
思い出の遺品を入れ、土を盛り、墓標を立てた後、俺は摘んできた名もなき花達を、それぞれの墓に丁寧に添えた。
「……安らかに」
神への祈りなどない。こんな惨状を幾度となく見てきた俺にとって、もはや神など高慢な観察者でしかなかった。
俺は一呼吸置き、屋敷を振り返った。
主を失った建物は、嵐の前触れのような静けさの中で、ただそこに佇んでいた。
俺は外套を翻し、街道へと向かって歩き出した。
湿った土の匂いの中に、はっきりと、呪いの残臭が残っていた。
その匂いを、俺は決して忘れない。
ふと。
心の奥に刻まれた古傷が、疼き始めた。
霊峰の頂で、すべてを理解し「過ち」を悟った、あの時の古傷だ。
……また、痛んでくるのか。
俺は疼く傷を現実で覆い隠し、前だけを見据えて歩き続けた。
俺の旅は、まだ終わらないようだ。
この疼きが消えるその日まで。




