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山を下る足取りは重かった。
抱えたアラクネの亡骸は、羽毛のように軽い。中身を吸い尽くされた空虚な骸が、俺の背中で揺れるたびに、やり場のない憤りが胸の奥で火種となって燻っていた。
屋敷が見えてきた頃、周囲の空気は一段と淀んでいた。
かつて漂っていた薬品の臭いは、今や腐敗した魔力特有の、鼻を突く毒々しい腐臭へと変わっている。
――あああああああああああッ!!
その時、突然屋敷の中から、喉を掻き切るような激しい叫び声が響き渡った。女の、狂気に満ちた絶叫だ。
俺は屋敷の前で、アラクネの亡骸をそっと地面に下ろした。
屋敷の扉を蹴破るようにして中へ踏み込むと、そこは阿鼻叫喚の地獄と化していた。
フロアから響くのは、獣の咆哮にも似た女の絶叫だった。俺は手にした剣の重さを確かめ、状況を見据える。
部屋の中では、あの妹が狂ったように暴れまわっていた。
初めて会った時の、あの氷のような静謐さはどこにもない。彼女は顔中から滝のような汗を流し、苦悶に表情を歪ませ、自らの身体を掻きむしっている。
「やってくれたわね……! やってくれたわねええええええええ!!」
彼女の視線が、部屋の入り口に立つ俺を射抜いた。その瞳には、もはや理性のかけらも残っていない。ただ、純粋な殺意と、それ以上の絶望が煮え立っている。
「あと少し……! あと少しだったのに! 姉の呪いが……私に、私に移ったあああああ!!!!」
「……ラナリア……君は一体……何を……っ、げほっ、げほっ!」
床に崩れ落ちているユリオスが恐怖に顔を強張らせていた。
彼は激しく咳き込みながら、豹変した女――ラナリアの名を呼ぶ。
「彼女はあんたに呪いを移そうとしてたんだ。 あんたは病気じゃない。呪いの器としての、ただの副作用だったんだ。」
苦しみながら問いかけるユリオスに、俺は冷たく言い放った。
「そんな!? あぁ!? ラナリア!? その、姿は……ゲホッ、ゲホッ」
ユリオスが震える指で指し示した先。女の肌はどす黒く変色し、その白磁のようだった腕からは、硬質で不気味な黒い毛が、皮膚を突き破って次々と芽吹いていた。
「よくも……よくも……邪魔してくれたわねぇぇぇぇ!!!!」
彼女は俺に向かって、再び怒りがこみ上げてきたように再度叫び散らす。
俺が洞窟でアラクネを、あの蜘蛛を殺したことが、彼女の計算を根底から破壊したようだ。
「ラナリア、君は一体……どうしてこんな事を……げほっ、げほっ!」
パニックなっている様子のユリオス。
「ンフフ♪ ンフフフフフ……ッ!」
ラナリアと呼ばれた女が、喉を鳴らして不気味に笑い始めた。その音は、もはや人間の発する声ではない。
「私達一族は、呪われていたのよ……! その呪いから逃れようとして、何が悪いの! 私は、私はあんなものになりたくなかっただけよ! 姉との繋がりが強いあんたが必要だっただけよ。ンフフフフフ♪」
「お前は助けを求める相手を間違えたんだ」
俺は剣を構え直した。
「こんなことをしてもお前の呪いは解けない。お前の一族の呪いは、凶つの魔女が掛けた『愛の呪い』だ。姉のアラクネは、ユリオスを心から愛していた。だから、彼女は蜘蛛にならずに済んでいた。……だが、お前がそれを無理矢理引き裂き、自らの手で時計の針を早めたんだ」
俺の言葉に、ラナリアの変貌が加速する。
背中が異常に盛り上がり、顔の半分が赤い四つの複眼を持つ蜘蛛の顔へと変化していく。
「蜘蛛になったアラクネは、遅かれ早かれ誰かに殺される運命だった。そうなれば、呪いが戻る先は次の継承者であるお前しかいない。お前は、自分で自分を追い詰めたんだ」
「いやよ……いやあああああああ! 私はあんな怪物なんかにならなあぁぁぁいぃぃ!!!!」
ラナリアの絶叫。
彼女はテーブルの上にあった食事用のナイフを、ひったくるように掴んだ。
俺は即座に剣の鞘に手を置き、その一挙手一投足に神経を集中させる。向かってくるなら、斬るしかない。
だが、ラナリアは俺を狙わなかった。
ラナリアは、恍惚とした、どこか救いを見つけたような表情を浮かべた。
「……蜘蛛として生きるなんて……ごめんよ」
彼女はそのまま、ナイフを自らの首筋へと深く突き立てた。
一気に、横へ。
「あぁぁぁーー!!!!」
ユリオスの絶望的な悲鳴が部屋に響き渡る。
ドロリとした赤い血が、噴水のように溢れ出し、彼女の寝衣を、そして床を赤く染めていく。
ラナリアは崩れ落ちるように地面へ倒れ伏していく。俺は片手を顔の前に出す。
ラナリア倒れた衝撃で、周囲に血飛沫が激しく飛散する。
ユリオスは飛び散った血しぶきで全身が汚れた。
俺の手や鎧も、赤い斑点で染まっていた。
うつ伏せのまま、ピクピクと動く彼女の周囲で、鮮血がゆっくりと、そして静かに広がっていく。
部屋に残ったのは、ユリオスの激しい嗚咽と、鉄の匂い。
そして、全てが終わった後の、重苦しい静寂だけだった。




