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【連載完結】姉と違って、私は貴方を見捨てたりしないわ。  作者: 逆立ちハムスター


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3

 老婆の指した方向には、道らしい道など存在しなかった。

 踏み込むたびに腐葉土が沈み込み、湿った土の匂いと、何かが発酵したような鼻を突く悪臭が混じり合って漂ってくる。木々の隙間を縫うように吹く風は、時折、女のすすり泣きにも似た不気味な音を立てていた。


 俺は腰の長剣の柄に手をかけ、一歩ずつ慎重に斜面を登った。

 傭兵として数多の修羅場を潜り抜けてきた俺の肌が、微かなピリつきを感じている。これは、単なる野生動物の縄張りに踏み込んだ時の緊張感ではない。もっと人為的で、歪な悪意がこの山の空気に溶け込んでいる。


……確かに、狼の足跡だな。


 地面に目を落とすと、鋭い爪が土を深く抉った痕跡が残っていた。最近ついたものだ。奴隷の男が言っていた通り、この山には狼の群れがいるらしい。

 だが、その足跡を追って十メートルほど進んだところで、俺は足を止めた。


……妙だな。


 足跡が、唐突に途切れているのだ。

 そこは行き止まりではない。目の前には、苔むした巨大な岩が壁のように立ち塞がっているだけだ。狼が空へ飛び去ったのでもない限り、足跡がここで消えるはずがない。


 俺は岩の前に立ち、目を細めた。

 戦場で魔術師を相手にした際、嫌というほど見せつけられた光景が脳裏をよぎる。俺は右手を伸ばし、目の前の岩肌に触れようとした。


 指先が岩に触れる直前。空気が陽炎のように僅かに歪んだ。


魔法で作られた幻影か……。道理で見つからないわけだ。

エルフの結晶石で幻影を確かめる。


 そして突き出した俺の手は、硬い岩の感触を通り抜け、ひんやりとした冷気に包まれた。

 そのまま体を預けるように一歩踏み出すと、視界を覆っていた岩の壁が霧のように散り、代わりにぽっかりと口を開けた洞窟が姿を現した。


 洞窟の入り口付近には、外から運び込まれたらしい狼の死骸が転がっていた。だが、不可解なことに、それらは食い散らかされた跡がない。ただ、何かの「餌」としてそこに置かれたかのような、無機質な放置のされ方だった。


 俺は懐から魔石を取り出し、微かな光を灯して中へと足を踏み入れた。


 内部は、外の蒸し暑さが嘘のように冷え切っていた。

 天井からは無数の白い糸が、まるで柳の枝のように垂れ下がっている。壁一面を覆うその糸は、魔石の光を反射して、まるで生き物の血管のように不気味な光沢を放っていた。


 ――カサ……カサリ。


 奥から、硬い節足が岩を叩く音が聞こえてくる。

 俺は息を殺し、足音を消して進んだ。道は次第に広くなり、やがて巨大なドーム状の空間へと繋がっていた。そこは、文字通り「蜘蛛の巣窟」だった。


 頭上の闇から、巨大な質量が降り注いだ。

 俺は寸前で身体を横に投げ出し、直撃を回避する。着地した場所から数センチ横の岩盤が、鋭利な脚によって深く抉られていた。


 現れたのは家屋ほどの巨躯を持つジャイアントスパイダーだ。八本の脚は鋼のような剛毛に覆われ、魔石の光を反射する複眼が、冷酷に獲物の位置を捉えている。


 蜘蛛が鎌のような前脚を振り抜く。俺は長剣を抜き放ち、その一撃を正面から受け流した。金属同士がぶつかり合うような衝撃が掌を突き抜け、腕の骨が軋む。並の魔物ではない。外殻の硬度も、繰り出される力も、戦場で見かける並の獣を遥かに凌駕していた。


 蜘蛛は間髪入れず、口元から白く濁った粘液を放った。

 俺は外套を翻して後方へ跳ぶ。糸が触れた背後の岩壁が変色し、不吉な煙を上げる。ただの捕縛用ではない、獲物を生きたまま溶かし、吸い尽くすための溶解液だ。


 俺は洞窟の壁を蹴り、蜘蛛の死角へと回り込む。だが、多脚の魔物は壁や天井を自在に駆け、予測不能な角度から刺突を繰り返してきた。右から振り下ろされる爪を剣の腹で弾き、左から突き出される脚を紙一重でかわす。外套の裾が裂け、二の腕の皮膚が薄く削がれた。熱い痛みが走るが、思考はかえって冷えていく。


 狙うべきは、自重を支える脚の付け根か、あるいは唯一の弱点である腹部だ。

 俺はあえて正面から踏み込み、蜘蛛に攻撃の機会を与えた。獲物を仕留めようと、蜘蛛が大きく前脚を広げて覆いかぶさってくる。その瞬間を待っていた。


 俺は地面を滑るように低く身を沈め、魔力を込めた剣の切っ先を突き上げた。

 吸い込まれるように、刃が蜘蛛の柔らかい腹部へと深く沈み込む。


 絶叫のような高周波の音が洞窟内に反響した。

 俺はそのまま剣を真一文字に引き抜き、溢れ出した緑色の体液を浴びながら横へと跳んだ。蜘蛛は狂乱したように脚を振り回し、岩壁を叩き壊しながらのたうち回ったが、やがてその動きも緩慢になり、沈黙した。


 俺は体液で汚れた剣を無造作に振り、死体に歩み寄った。

 戦場での経験が、この魔物の存在そのものに強い違和感を示している。この洞窟はただの巣ではない。


お前が狼を食ったのか。それとも、誰かに食わされていたのか。


 俺は、まだ僅かに震える蜘蛛の腹を、中身を検分するためにさらに深く裂いた。

 もし「狼に襲われた」者がいるなら、その残骸があるはずだ。


 だが、剣先でかき分けた臓物の中から転がり出たのは、獣の毛皮などではなかった。


 体液にまみれて現れたのは、白く、細い、人間の指の骨。

 そして、未消化のまま残された、泥に汚れた衣服の端切れだった。


はぁ、いつもの展開か。


 俺は魔石を高く掲げ、空間の奥を照らし出した。

 光が届く範囲が広がり、そこに隠されていた光景が姿を現した。


 天井から吊るされていたのは、無数の白い繭だった。

 それらは死の揺り籠のように、静かに並んで揺れていた。

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