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【連載完結】姉と違って、私は貴方を見捨てたりしないわ。  作者: 逆立ちハムスター


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2

 屋敷の裏手に回ると、そこには建物の表側とは対照的な、泥と汗の混じった現実が転がっていた。

 痩せこけた男が一人、錆びた鍬で硬い地面を穿っている。俺は足音を殺して近づき、その影を男の足元に落とした。


「おい、少しいいか?」


 男は弾かれたように肩を震わせ、泥に汚れた顔を上げた。その瞳には、深い怯えが張り付いている。


「ご、ご主人様に、誰とも話すなって言われてるんだ……特に……その……よそ者には」


「その主人から許可は貰ってある」


 俺が平然と言い放つと、奴隷の男は疑わしげに俺の身なりを値踏みし始めた。傭兵の薄汚れた外套、腰に下げた長剣。信用を得るには程遠いだろう。


「そんな事、信じられるか!」


「なら、これでどうだ?」


 俺は懐から銀貨を一目につかないよう差し出した。


 チャリ、と硬質な音が響かせる。男の目が卑しく、そして切実な色を帯びて銀貨に吸い寄せられた。


「……自由になるには、ほど遠いが、これがあれば、この土地で旨い飯も、酒も軽く手に入りそうだ」


 男は周囲を素早く見回し、電光石火の速さで銀貨を汚れた布の中に隠した。


「ああ……で、何を聞きたいんだ?」


「アラクネという女性を知ってるか?」


「ああ、勿論だ。優しく綺麗で、俺たちみたいなもんにも分け隔てなく接してくれた、良い人だった……」


 男の言葉には、確かな体温が宿っていた。あの義妹が向けた冷酷な無関心とは正反対のものだ。


「彼女を最後に見たのはいつだ?」


「確か……四日前だったかな」


 俺の眉が微かに動く。


「四日前? 確かか?」


「ああ、間違いない。大雨で川が荒れてた日だからな。よく覚えてるよ。あの人の白い外套が、泥で汚れるのを気にしてたんだ」


 女――妹は、七日前と言った。

 三日の空白。それは、嘘をつくにはあまりに大きな、そして致命的な差だ。


「確かに、その日は酷い雨だったな。……その日、怪しい奴は見なかったか?」


「いや……見てないな。雨が酷すぎて、誰も外には出なかった」


「そうか。他にないか?」


「すまない。俺が知ってるのはそれだけだ。あぁ……十分じゃないのか? あんたが返せと言うなら、返すよ」

俺に殺されるかもしれないとでも、思っているのだろう。


「いいや、助かった。酒を飲み過ぎるなよ」


「……はは、俺の方こそ、助かったぜ」


 男は再び地面を掘り始めた。その背中は、何か重い荷物を下ろしたようにも、あるいは更なる恐怖に備えているようにも見えた。


 俺は男から離れ、薪を割っていた別の若い奴隷に声をかけた。


「少しいいか?」


「今日のノルマがまだなんだ。無理だな」


 若者は俺の顔も見ずに斧を振り下ろす。先ほどの男とは違い、金で動くようなタイプではなさそうだ。


「いくら欲しい?」


「金の問題じゃない。俺はこの仕事を失いたくないんでね。ここを追い出されたら、行く当てなんてないんだ」


「自由は欲しくないのか?」


「主人に仕える。それが俺の願いだ。あんたがどこから来たよそ者か知らないが、ここでは働き口があるだけで有難いんだ。それに、あんたがどう思おうが、あのご主人様はいい人なんでね……少なくとも、俺たちを飢えさせはしない」


 その言葉の端々に、妙な違和感を覚えた。この荒れ果てた屋敷で、奴隷を飢えさせないほどの余裕がどこにある。


「邪魔したな」


 俺が背を向けようとしたその時、若者が斧を止め、低い声で呼びかけてきた。


「……おい、待て。あんた、あのご主人様に雇われてんのなら、頼みがある」


「なんだ?」


「最近、仲間がよく狼に襲われるんだ。夜、見張りを立ていても、いつの間にか居なくなる。……どうにかして欲しいんだ。あんた……強そうだしな」


「ああ、分かった」


 俺は短く答えた。狼、か。

 この屋敷を囲む不自然な静寂と、消えた女、そして消えていく奴隷。点と点が、俺の中で醜悪な形を結び始めていた。


 屋敷の影から離れ、森との境界線まで歩を進めた。

 湿った土がブーツの底にまとわりつく。

森か、未だに慣れんな。過去を思い出してしまう。


 ふと、背後から微かな衣擦れの音がした。


「なぁ、あんた」


 低い、老婆のような声。

 振り返ると、寂れた水車小屋の影から一人の老婆が手招きをしていた。その目は異様なほどにぎらつき、俺を値踏みするように見つめている。


「なにか用か?」


「こっちだ、こっち。面白いもんを見せてやるよ……」


 老婆は歯の抜けた口でニタリと笑い、森の奥――道なき道の方を指さした。


「どうした?」


「『姉』はね、あそこにいるんだよ。優しいアラクネ様は、あそこに……」


 老婆の指す先には、深い霧が立ち込めている山の中腹辺りだった。

 森から漂ってくるのは、雨の匂いでも、土の匂いでもない。

 それは、腐敗を隠すために大量に焚かれた、あの薬品のような匂いだった。


「なぜ知っている? あっ!?」

老婆の姿はもうなかった。


 俺は腰の剣の感触を確かめ、昏い森の奥へと足を踏み出した。

 あの妹の、冷たい声が脳裏に蘇る。


『姉と違って、私は貴方を見捨てたりしないわ』


 その言葉の意味が、俺が想像していた「愛」とは、決定的に異なる何かであることを、俺の勘が激しく警告していた。

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