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見知らぬ土地の空気というのは、どうしていつもこう、肺の奥をちりつかせるのか。あの出来事から、俺はこの遠くの国へと逃げる事しかできなかった。
街道を外れ、湿った森の奥へと足を踏み入れるたびに、俺の右拳に刻まれた古い傷跡がうずく。戦場暮らしで染み付いた、いわゆる「死の気配」に対する拒絶反応だ。
目の前に立つのは、かつては栄華を誇ったのだろうが、今は見る影もなく没落した下級貴族の屋敷だった。外壁の漆喰は剥がれ落ち、這いずる蔦はまるで病んだ血管のように建物を締め上げている。
俺は一呼吸置き、ひび割れた木扉を拳で叩いた。
コン、コン。
返事はない。だが、奥から微かに、何かが引きずられるような音が聞こえた。俺は構わず、もう一度強く叩く。
「おい、ユリオス。いるんだろう」
しばらくの沈黙の後、鍵の回る無機質な音が響いた。
ガチャ、と扉が開く。隙間から顔を覗かせたのは、この屋敷に似つかわしくないほど整った、だが血の気の薄い女だった。
「何かしら?」
冷ややかな声だ。彼女の瞳は俺を映しているようでいて、その実、背後の虚空を見つめているような、奇妙な空虚さを孕んでいた。
「あー……少しいいか?」
「ええ、どうぞ」
招き入れられた先は、カビと薬品、そして僅かに腐敗の混じった匂いが充満していた。彼女は俺を先導し、一階の奥にある寝室へと導く。
「彼はいるか?」
「……いるわ。どうぞ」
案内された部屋のソファには、一人の男が座わっていた。ユリオス。かつては競技場で剣を勇ましく振るっていたこともあるという男らしいが、今の彼は、シーツの白さと見分けがつかないほどに痩せ細り、ただの骸骨の成れの果てのようだった。
「……私に、用だって?」
掠れた声が、肺の奥から絞り出されているようだ。彼は俺の方を向くことさえままならない様子だった。
「ああ」
俺は腰のポーチから、泥に汚れた革の袋を取り出した。
ガサ、と硬い音が部屋に響く。俺はそれを、男の視界に入る位置へと投げ出した。
「これは、あんたのか?」
男の目が、その袋に止まった瞬間。
ガタッ!
死にかけていたはずの体が、不自然なほどの勢いで跳ね起きた。彼は震える手でその袋を掴み取り、中身を確認する。
「それは……アラクネの……!? ……妻に会ったのか!? 私の妻は、今、どこにいるんだ!」
男の絶叫に近い問いかけ。だが、それに続くのは激しい咳き込みだった。
「うぅ……げほっ、げほっ!」
男が吐血しそうな勢いで身をよじると、それまで背後に控えていたさっきの女が、流れるような動作で彼の背をさすった。その手つきは慈愛に満ちているようでいて、俺の目には、獲物を逃さない蜘蛛の糸のようにも見えた。
「大丈夫、落ち着いて……大丈夫よ。あなたは向こうで休んでて。私が代わりに話すから」
彼女の声音は、砂糖をまぶした毒のように甘く聞こえる。
「ああ……だが……げほっ……」
「大丈夫よ。私は姉と違って、貴方を見捨てたりしないわ」
「あぁ……そうだな……分かったよ」
ユリオスは力なく頷き、二階の寝室だろうか、階段へ向かっていく。
女は俺を促すように顎をしゃくると、先に部屋を出た。
「いいのよ。あなたの為だもの」
最後に男にかけたその言葉が、ひどく耳障りに響いた。
女の表情から一瞬にして笑顔が消えた。
「話しなら、外で」
ガタン、と重い扉が閉まる。廊下に出た瞬間、女の表情から「献身的な義妹」の仮面が剥がれ落ちた感じがした。そこにあったのは、石像のような無機質な拒絶だった。
「誰に聞いてきたか知らないけど、彼は今、体調が悪いの。用が済んだなら、今日はもう帰ってちょうだい」
「そうはいかない。早く彼の妻を見つける必要がある」
俺がそう告げると、女はフッと鼻で笑った。嘲笑というよりは、愚かな子供を見るような憐れみの響きだった。
「なら教えてあげる。私の姉は、この手紙を置いて消えたのよ。悲しむ彼を残してね」
彼女が懐から取り出したのは、一枚の薄汚れた便箋だった。そこには、殴り書きのような文字が並んでいた。
『ごめんなさい。もうあなたの側にはいられないの。さようなら』
一読して、俺は女の目を見た。
「これはどこにあった? 彼女の物だって、確信はあるのか?」
「さあ、知らないわ。私は彼が持っていた物を渡されただけだから。彼女が居なくなった後、彼が握りしめていたのよ」
「彼女を最後に見たのはいつだ?」
「……さあ、七日ぐらい前かしら」
女は事も無げに言った。
七日前。その言葉を俺は頭の片隅に刻む。
「探そうとはしなかったのか?」
「雇ってる奴隷総出で探したわよ。けど、見つからなかった。それに、彼のお金もなくなってたから。ああ、そういう事なんだって、諦めたのよ」
「彼の様子を見るに、そうは思えないがな。金を持ち逃げした女を、あんな必死に心配するか?」
「彼は……現実を受け入れるのに苦しんでいるだけよ。ああ、可哀想に……」
女は唇に指を当て溜息をついた。
俺はそれ以上彼女と話しても無駄だと悟り、短く告げた。
「分かった。だが、少し、奴隷たちに聞いて回りたいんだが、構わないか?」
「ええ、どうぞ。でも、終わったらさっさと帰ってよね」
バタン。
彼女は再び男の元へと戻っていったようだ。
「ふん……」
嘘の匂いがする。
あの女が吐いた言葉のどれかが、あるいは全てが、腐った肉のような異臭を放っている。
俺は屋敷の裏手、奴隷たちが作業をしている庭へと向かった。




