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蝴蝶繚乱

作者: 花籠しずく

 宦官として宮廷に売られてから、季節がひとつ、巡ろうとしていた。花の淡く咲く季節の、少し前に施術をし、纏足をほどいた女たちと共に宮廷に放り込まれ、ある者は後宮に、ある者は帝と関りの深い仕事を与えられる。季節がひとつ、ふたつ過ぎても生活に大きな変化はなく、ただ細々とした仕事と向き合いながら、己が朽ちるのを待っていた。


「浩然は手先が器用だな」


 宦官たちはみな、金切り声で喋る。不自然に男の身体を作り替えているのだから、どこかに支障が出るものなのだろうが、成人してから施術をした者たちは、男の声のかたちを残したまま、女のように高い声になる。浩然はまだ少年で、声の変わり切らぬ時期に施術をしたから、彼らほど声は醜くない。浩然が声を発するたびに心地よさそうに耳を傾ける者がいるのを、浩然は知っている。


「あなたが教えてくれるから、ですよ」

「うまいことを言うなあ」


 ぐりぐりと頭を撫でられて、柔和な微笑みを返す。たったそれだけで、彼らが照れたように笑うからだ。


 自ら宦官になる者たちは、皆権力と金を手に入れることに執心し、そのために貪欲に生きる。しかし生家に金がなく、顔の整った子ならば可愛がられるだろうと、売られただけの浩然にはそういった欲はない。子を成すこともできない身体で、どうやって生を謳歌すればいいかが分からないまま、惰性で一年ほど生きてしまったが、自らの心が朽ちていくのをただ待っているような気分にしかならなかった。


「包子かっぱらってきた。浩然も食うか」

「いえ、僕はあまりお腹が」


 腹は減っていた。しかし差し出されたものが盗んだものだと分かると、急に食欲が失せるのだ。浩然の目が不自然に泳いだのを、同僚は気が付いたようで、ふうんと目が細められる。それから、付き合いが悪いなと呟かれた。


 当然のように賄賂を受け取り、盗みを働く。そういった宦官が多くいるような場所で、自分は異質なのだろう。端的に言えば、綺麗すぎるのだ。盗みを働く気にもなれないし、賄賂を受け取る気にもなれない。賄賂を受けとって富を貪ることが当たり前にされる中で、盗んできた食べ物を受け取ることもなく、賄賂を断る浩然は、浮いていた。


「勿体ないねえ。お前ほど美しければ皇帝の寵愛を受けることも叶うだろうに」

「あのお方が寵愛するのは今は貴妃様です。僕に目を止めるわけがありません」


 欲がないな。そう言われて、曖昧に微笑む。そうすると彼らは浩然の行いに興味を失って、また仕事に戻るのだった。


 やがて仕事が終わり、寝所に向かう。高位の宦官たちは宮廷の外に別荘を持っているようだが、親に売られただけの浩然にはそのような場所は当然ない。ただ一人、ぶらぶらと夕焼けを眺めて歩いていると、道端に蹲る女がいた。


「どうしたんだ」


 服装からして、女官だろう。後ろ姿は細く、そのくせ柔らかい。丸まった背中から伸びる腕は、服越しでも分かるほどしなやかだった。おそるおそる背をさすると、彼女が静かに振り返り、目が合った。


「助けてくださいまし」

「え?」

「李美人様のお召し物が盗まれまして。わたくし、あらぬ疑いをかけられて折檻されまして。どうにか逃げ出してきたところなのです」


 女官の服装をよく見ると、あちらこちらが泥で汚れていた。ひどく叩かれたのだと分かるほど頬は腫れており、肩の汚れがひどい場所に触れると、彼女は痛みに顔をしかめる。


「わたくしを嫌う女官が、お召し物を隠したに違いありません。わたくしを追いだすつもりなのです」


 女がじわりと涙を浮かべる。黒い瞳に薄い水の膜が張り、わずかに頬が赤らむ。その姿になくしていたはずの心が音を立てるようだった。


「一晩だけで構いません。隠してくださいませ」


 女に手を握られる。その細い指の感触と、手の甲を撫でられる感覚に、身体の芯が熱くなるような気がした。


「良いだろう」


 彼女を助けてやる手だてもないのに、どうしてだろう、頷いていた。彼女を助け起こすと、まだ纏足をほどいたばかりなのだろう、ふらついて、しがみついてきた。近くなる体温と皮膚のやわらかい香りが、鼻をくすぐる。


「僕が助けてやる」


 彼女に肩を貸しながら仕事場に戻り、鍵を閉める。泥だらけになった服や頬を拭いてやろうと布巾をとってくると、彼女は服をくつろげて、腫れた肩の具合を確かめているのだった。


「お、お前」


 落ちていた上衣を投げつけると、彼女はそれを受け取って、淡く微笑んだ。こちらの顔が火照っていることに気が付いて、やっと自らの行いを恥ずべきものだと気が付いたようで、上衣でうすい胸を隠すようにして、きゅっと唇をすぼめるのだった。


「ふふ、宦官様でも驚くのですね」

「施術をしてはいるが、僕は男だ」

「そうでした。ごめんなさいね。女の子のように可愛らしい顔をしているものですから」


 女の一言に、むっと眉を寄せる。浩然が施術をしたのは、まだ幼い頃だ。幼いころに施術をすれば男の特徴を残した醜い者になりにくい。美しい容姿の宦官に浩然をつくりたかった父と母が、そうした。自らの女にも男にもなれない身体は受け入れていたつもりではあったが、初めて男でありたいと、強く反発してしまった。


「あなた宮女に言い寄られるでしょう」

「そんなことは、ない」

「目が泳いだわ。可愛いのね」


 可愛い。もう一度言われて、身体の奥底で何かが暴れた。上衣を持つ女の手を掴み、強く引き寄せると、衣が落ちる。露わになった白い肌に、眩んだ。


「僕だって」


 怒りと焦りで顔を赤くする浩然に、女が甘く笑って、頬に手を伸ばしてくる。乾いた唇の皮を、薄い舌が這った。


 男にも女にもなりきれないくせに、不思議と、艶やかなものに焦がれる気持ちは消えていないらしかった。女の薄い身体を抱き寄せて、柔らかな肌に指をしずめて、醜く口づけをする。交えた唾液はこの世のすべての美味を以てしても値するものがないほど、甘美な味がした。

 女の身体の内側に触れると、自らの身体が溶けて、その中に吸い込まれてしまうような気がした。夢中で貪っているつもりだったのに、喰われているのはこちらのような気がして、火照る中で寒気が走った。やがて疲れ果てて眠り、目を覚ますと、空は白み始めている。溶けた身体の一部を女の身体から取り戻そうと、彼女を揺り起こすと、彼女は妖艶に笑う。


「素敵な時間でした」


 浩然は口づけを求めたが、女は応じなかった。服を着始める彼女を強引に腕に囲い、唇を奪うと、女は嫣然とした様子を瞳に浮かべ、浩然をそっと引きはがした。


「匿ってくださって、ありがとうございました」

「待て。名前を教えてくれ」

「嫌ですわ。だってその方が、あなた、覚えてくれるでしょう」


 女が去っていく。部屋に残された浩然は、その背中を呆然と目で追った。肌を重ねたことすら夢だったのではないかと目を擦ってはみたが、女の肌や唇の生々しい感触は、身体のいたるところに刻まれている。嗚呼、浩然はひとり呟き、女に吸われて色を変えた皮膚を撫でた。



 その日から浩然は、がむしゃらに仕事をするようになった。賄賂にも手をつけるようになった。高位の宦官が宮廷の外に妾を囲っているように、あの女を捕えたかったのだ。浩然のこれは、愛というよりも、傾けた心をたった一晩だけ貪って、蝶が飛んでいくように消えてしまった彼女への復讐に似ているのだろう。邸宅を手に入れる金を貯えながら、宮廷に千人を超す女の中からたった一人を探し出すのは、非常に骨が折れるのだが、必ずあの女を捕まえて、今度は逃げられないように、鎖でつないでおきたい。そうして浩然の前に跪かせて、自ら愛の言葉を囁くようになるまで、あの柔らかな身体を開いて、壊してしまいたかった。


 ひらりひらりと舞う蝶を、片手で握り潰す。するとあの女の甘やかな声が聞こえるようで、たまらなかった。


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