第三話 竜眼
「ローズ! 行くぞー!!」
トントンと軽く準備運動をしながら、水車小屋の前にいるローズに声をかける。ローズも聞こえたようで、手を振って応えた。俺はもらった砂時計を軽く握り、呪文を唱える。
━━加速魔法
呪文がかかったことを確かめたあと、ローズのいる水車小屋めがけて走る。あの日と同じ魔法──だけど速さはあの日とは比べものにならなかった。流れる水よりも、吹き抜ける風を置き去りにするほど速く俺は駆け抜けた。
「どうよ! なんか最近めっちゃ速くなったんだよね」
そう言いながら水車小屋の方へ振り返ると、ローズの視線が、ようやく俺に追いついたところだった。
「すごいな! 予想以上だった! シュユに置いていかれないように私も頑張らないとな!!」
興奮気味に答えたローズを見て、こっちも嬉しく思ったのをよく覚えている。
砂時計をもらったあの日から、俺の魔法の成長速度は格段に上がった気がする。俺のやる気に火をつけたのか、砂時計が何かしら作用をしたのかは分からない。子どもにとってできることが増えて、それを褒めてくれる人がいるのは、何より嬉しいことだった。俺は以前にもまして魔法の練習に励み、それを見たローズも剣技の練習を頑張るようになっていた。
そんな日常が続いた、ある夜のことだった。
その夜は新月で、月明かりすらない。不気味な闇が村を覆っていた。
家で両親と他愛ない会話をしながら夕食をとっていたとき、突如、爆音が鳴り響いた。しばらくして村の衛兵の悲鳴混じりの声が村に響いた。
「竜だ! 竜が出たぞ!!」
外に出ると、西の空に赤黒い炎が立ち上っていた。
「安全な場所に! シュユも!!」
母親に連れられ必死に走った。耳をつんざく咆哮、肉の焼ける匂い。この前冒険した鶏小屋は、今や跡形もなかった。村の中は混乱しており、俺たちが走っている方向が安全かどうかも分からない。
それは突然だった。
当てもなく走った先に、夜空が落ちてきた。
黒い巨体が、待ち構えていたかのように俺たちの道を阻む。黒い炎を口の端から漏らし、体表の深い紫の鱗は周囲の光を吸い込むようだった。本の挿絵ならばかっこいいと思えたであろう黒い竜が、ニタニタと笑うように俺たちを見ている。
竜は、鋭い爪が並ぶ前腕を大きく持ち上げた。奴にとって俺らの命は、蟻を踏み潰すよりもはるかに容易く潰えるものだった。幼い俺でも死を思い、恐れるのは当然のことだった。死にたくない。そう思い、砂時計を握る。気がつけば咄嗟に魔法を発動させていた。
━━減速魔法
加速魔法の対になる魔法。加速魔法を覚える過程で身につけた、もう一つの魔法。俺はこの魔法がそれほど好きじゃなかった。加速魔法は使えば見た目で分かる派手な魔法だ。
一方の減速魔法は地味で、あまり面白くなかった。落ちる葉っぱとかにかけると落下速度がゆっくりになったりしたが、「なんかゆっくりになったなー」くらいなもので、実用性も面白さも見出せなかった。だから普段はあまり使わない魔法で、このとき使ったのも随分久しぶりだった。使ったところで、即死からゆっくり押し潰されるだけに変わるくらいの魔法……のはずだった。
何秒経ったのだろうか。予想してたよりも遅い。魔法を使ったから遅くなっているのだろうか?
それとも──この前木から落ちたとき、すごく落ちるまでがゆっくりに感じた。死ぬ間際は、時間が過ぎるのが遅く感じるという、あれか?
「おいシュユ、逃げるぞ!」
ふと父親の声が聞こえたかと思えば、抱き上げられる。父親の腕の中で恐る恐る目を開けば、肩越しに竜の姿が見えた。未だ高く上げられた腕は振り下ろされず、口の端から漏れる赤黒い炎のゆらめきは、止まっているように見えた。
俺があいつを止めたのか?
そう思った瞬間、先ほどまでニタニタ笑っていた竜の目が、憎々しげにこちらを睨みつけた。止めたわけではない。止まっていると錯覚するほど遅くしたのだ。これほどまで遅くできたことはなかった。加速魔法の成長と共に、知らず知らずのうちに減速魔法も成長していたのか?
そんなことに思いを巡らせられたのは、この日から何年も経った後のことだ。このときの俺は、ただひたすらに死と俺を睨みつける竜の恐怖に震え、父に強くしがみつくことしかできなかったのだ。
父に抱き抱えられたまま竜から逃げ、気づけば、村から少し離れた山中──村を一望できる高台の広場へとたどり着いていた。
そういえば、大人たちに「もしもの時はここに逃げろ」と言われていたのを思い出す。緊急時の避難先として、村人たちが話し合って決めた場所だった。
いつもなら、緑に囲まれた景色と人々の暮らしの営みが見渡せる場所。だが今は、赤黒い炎が村も森も焼き尽くし、焼け焦げた更地が広がるばかりだった。
その光景は、まるで村そのものが命を絶たれたようにさえ思えた。
「俺たちが……何をしたっていうんだ」
誰の言葉だったかも思い出せない。そのか細い呟きは、この場にいる全員の胸の内を代弁していた。
俺だけが、こんなふうに思っていたのだろうか。あるいは、他の皆も同じように──ただ、小さくて大切なものを数えて、どうにか心の均衡を保とうとしていたのかもしれない。
そんなことを思いながら、ふと気がついた。
「ねえ、父さん……ローズは?」
「……っ。ローズちゃんなら、大丈夫だ。お父さんもお母さんも立派な冒険者だから、きっと一緒に逃げてる。ここが無理なら、別の避難先に向かったんだよ、きっと……」
父は一瞬、顔をしかめた。けれどすぐに気を取り直すように、明るく言葉を継いだ。
その声は少しうわずっていた。作り物の元気は妙に大きく、かえって周囲の人々の顔を曇らせる。俺にもわかった。父さんは、信じていない。
「ローズ……探しに行かなきゃ! きっと逃げ遅れたんだ!!」
駆け出そうとする俺の腕を父親が掴んだ。
「……シュユ、ごめんな。だけど、頼む」
「なんだよ……何がごめんなんだよ!」
本当は分かっていた。父親の顔は心底悔しそうで、俺を掴む手は痛いくらい力強かった。父親も、他の村の大人たちだって、焼け落ちる村をただ見ているのは辛いことだった。小さな子どもが犠牲になったとなれば尚更だ。だが、村に戻ってできることは何もない。いま村に戻っても、悲しむ人を増やすだけだということを大人たちは知っていた。俺たちは無力だったのだ。
結局、父親と母親に強く抱きしめられ、ひたすらに泣くことしかできなかった俺たちだが、そのうち村から聞こえる音が少しずつ小さくなっていくことに気づいた。
東の空が明るくなってきた頃、村から黒い竜が飛び去っていった。あれほど暴れ回った竜は、まるで夜の闇のように、朝日とともに静かに去っていった。朝焼けの中、逆光に紛れて姿が見えなくなるまで、それほど時間はかからなかった。
俺たちの生まれ育った村は、たった一晩で死んだ。
どこからともなくやってきた邪な竜の気まぐれによって、俺たちの村は灰の山へと変わり果ててしまったのだ。
そのうち「いつまでもここで悲しんでいても仕方がないから」と、誰が言ったのかも覚えていない一言で、みんなで山を下りることになった。
もしかしたら生存者がいるかもしれないし、これからの生活のことも考えると、焼け焦げた村の残骸の中から少しでも使えるものを探す必要があった。
それは焼け落ちた村の中、みんなで生存者を探しているときだった。黒く焦げたかつて家だった灰の中から生き残りが見つかるなど、俺を含めた誰も思っていなかっただろう。それでも、限りなくゼロに近い可能性であっても、それを見逃して後悔することをみんなが嫌がった。
「おい! あれ!!」
そう声を上げ、指を差したのは村の中でも若く元気な青年だった。平和だった頃は、よく俺たちの冒険を見守って、話を聞いてくれた優しいお兄さんだった。
彼の指がさし示した先を、みんなが見た。
そこには泥と煤に塗れた、俺と同い年の少女──ローズの姿があったのだ。
「ローズ!」
駆け寄り、その小さな体を抱きしめた。その肩は震えていた。
「無事でよかった……! 本当に……」
しかしローズは、凍ってしまったように動かない。しばらくしてやっと俺に気づくと、震えた声で言った。
「お父さんと……お母さんが……!」
その言葉が、胸に突き刺さった。この場にいたのはローズだけだ。
俺はその場で泣き崩れるローズに声をかけようとする。しかし何も言えなかった。何を言っても、今のローズに寄り添える言葉を俺は持っていないと思ったからだ。
俺はただ、その場でローズの背を撫でることしかできなかった。
この日、俺は多くを失った。
しかし、ローズが失ったものはより多く、そしてより大きかったのだ。




