5/15 屋烏ラブ
目を開いてまずユウキの視界に広がったのは、汚れ一つない白色。それがトイレの個室の扉であると気づくのに、そう時間は掛からなかった。
「チキン、だな・・・ホント」
ユウキは頭を抱えて便所の個室の床を見た。タイルとタイルの狭間の線が一部歪んで見える。それはほんのりと瞳に涙が溜まっている、何よりもの証拠であった。
「はぁ・・・」
ツバメが答えを口にする前に、ユウキはその場から逃げ出した。憑依対象であったナナの体だけを残して。
術者であったユウキの意識は自らの体へと戻った。
おそらくあのままナナの体は道に倒れ込み、どこかしらの怪我を負ってしまっただろう。本来ユウキの計画では、公園のベンチにツバメと座り、そこで憑依を解除するつもりだった。
それでも急にナナが眠ったかのようになれば不審ではあるものの、今回のような比ではないはずだ。
「どーしよ・・・」
ナナに対して今後どう弁解するか、考えていなかった。これから考えが浮かぶわけでもなかった。
しかし、今のユウキにとってそれは些細なことに成り下がってしまっている。不謹慎であることは重々承知だ。
ユウキの頭の回路を駆け巡るのは。
「はぁ・・・ツバメ・・・」
自分の意気地の無さにはホトホト呆れてしまう。こんなことまでしておいて、最後の最後で逃げるなんて。
なぜこうもあと一歩が踏み出せないのか。
たった一歩。
たかが一歩なのに。
「・・・・・・・」
されど一歩などと、ユウキは思う気にもなれなかった。
ーーーーそんなこと分かってんだよ。
今回の件で、ツバメとの間には一歩なんかじゃ追いつけないような『道』が、やはりあるようにユウキは思えた。だからこそ、たった一歩、あと一歩、たかだか一歩、と考えないと身が持たない。
『道』があっても、ユウキがその恋を諦めないのは、一握りの可能性があったからだ。しかしその可能性も、するりと指と指の間をすり抜けた気がした。
(なんで、なんで忘れてたんだろ、昔のこと・・・。あんな風に接してれば、チキンって思われるのは、当然だよな・・・)
ユウキは、ツバメが語ったエピソードにはなかったことまで、相乗効果的に思い出した。思い返せば、確かに自分はチキンだったと、嫌でも認めざるをえない。
高校に上がってからは、憑依術のために本格的な精神訓練を積んできたから昔ほどチキンではないはずなのだ。しかし、それでもツバメに映っている自分はチキン。それを突きつけられたとき、ユウキは悟った。
己の可能性がゼロに等しいということに。
(忘れてなかったら、こんなことしなかったのに。なんで忘れてたんだろう。思い出してたら、こんな・・・こんな・・・)
ユウキの頭の中にはツバメの表情がグルグルと回っていた。ユウキにとってそのツバメの目つきには、ユウキに対して心から普通、もしくはそれ以下で、最低でも恋愛対象には入れない程の印象を持っていることが見て取れた。
(もしかしたら俺だって・・・なんて、馬鹿みたいだな)
ユウキは左手の甲をさすりながら個室を出た。俯き加減のままユウキは歩き出す。
家までの道のりは、行きの時よりもひどく遠く感じた。
今日も消防車のサイレンが、どこからともなく聞こえた。
*** *** ***
「はぁ・・・」
ユウキはやっとのことで家に着き、自室のベッドへ真っ先に向かった。
今日は疲れたんだ。
とりあえず晩飯までの小一時間でいいから仮眠をとりたい。
(ツバメ・・・)
帰りの道中、終始考えていたのはツバメのことばかり。
彼女のことを考えれば胸は締め付けられるように痛むけれど、今まではそれさえ心地よかった。
声が聞ければ嬉しいし、笑顔が見れたなら最高だ。
だが今は、痛みしかそこに残らない。
ユウキは目を、静かに閉じた。
ドンドン
ユウキは、はっとしてベッドから飛び起きた。この音は自室の窓が外部から叩かれたために発生したものだと、瞬時に理解する。
そしてこれはいつもの呼び出しの合図だということも。
ユウキはカーテンを横薙ぎに払って、金属の小さなレバーを引くことで窓の施錠を解除し、目の前のガラスを右へスライドさせた。
「よ、よぅツバメ」
「いるなら、早く開けなさいよ。こっちも寒いんだから」
いつの間にか空は漆黒に包まれ、光のビーズを散りばめていた。今夜の月は満月。春といっても、まだまだ寒さが残っていた。日中が暑かったからとも言えるが。
ユウキの目と鼻の先にいるのはツバメ。彼女の手には竹刀が握られていて、それでユウキの部屋の窓ガラスを叩いていた模様。
ユウキは、今ツバメの顔を見ることができて幸運なのか不幸なのか、分からなかった。ただ、自分の気持ちがバレないようにすることに関しては天下一品のユウキは、いつも通り振る舞うことができる。
「で、何か用か?」
「アンザイから連絡網で、明日の部活は視聴覚室ね。レンジに回しといて」
「りょーかい」
ユウキとツバメは、簡単な連絡はこうして家と家の間を介して伝達し合っている。これは幼い頃からしていることであったが、最近めっきりその回数は減った。
ツバメはまだ何か用件があるらしく、少々キツい目つきでユウキを見ていた。
「今日は・・・その、どうしたの?」
「は?」
映画館の時はあれほど薄い反応をしていたのに、その質問をされるとは思っていなかった。
ユウキは少し救われたような気持ちになった。
「だから、今日は何で途中で帰ったかって言ってんの!!」
「あ、えと・・・体調、不良?」
「なんで疑問形なのよ」
とっさの出来事に対応できないユウキの小さな脳は、いつも使っているズル休みの常用文句を、自身の口から吐き出させていた。
「もう、何それ?」
「はは、わりぃ」
ツバメは肘を窓の縁に乗せ、手のひらでその小さな頭を支えた。いつもならユウキが見下ろす側だが、窓辺の会話の時に限り見上げる形になる。
「まったく。ってか聞いてよ、あの後ナナがさぁ」
「・・・あぁ」
ツバメの話を聞くところによると、どうやらナナは無傷らしい。急に道端で倒れたと思ったら、すぐに立ち上がり、ナナ本人も何が起こったか分からない様子であった、と。
おそらくナナはなぜ自分がここにいるのかという、根本的な部分から混乱していたに違いない。しかし事情を知らないツバメがそのことに気づくことはなかった。
「あたしなんでここに? って言うの。笑っちゃうでしょ」
「ははっ、そうだな」
その後のナナに関しては、ツバメが今までのことを説明してくれて、幸運にも丸く収まったらしいが、何分大事な部分はあやふやなままのため、明日ユウキはナナに質問攻めに合うだろう。
(ま、今夜中に考えればいいか。言い訳は)
「でね、それでね・・・って、聞いてる?」
「ん? あぁ、聞いてるよ」
いつも通りの会話。いつも通りの声。
今はそんな当然を思う度に、胸が矢で射抜かれたように痛む。できればここで声を張り上げ叫んで、その苦行を少しでも軽減したい。
そして、いつまでも喉につかえている、どうしようもない思いもろとも外に吐き出したかった。
しかしそれでも、それが出来ないのは、自分がチキンだからだと、ユウキは自分に弁解するしかなかった。他に理由があったとしても、結局はそこに帰着するだろうと思っていたから。
*** *** ***
ユウキは晩飯を済ませ、風呂に入り、自室に戻った。そして充電中の携帯を手に取り、レンジにメールを書いた。
「明日の部活は、視聴覚、っと」
送信ボタンを押し、送信完了を待った。しかし、電波が悪いのか、なかなか送信できない。ユウキは窓を開け、効果があるかは不明だが、携帯の電波が届きやすくしようとした。
ユウキは窓から乗り出し、携帯を高々と掲げる。
「あれ・・・ツバメ?」
目の前の山吹家の一室、つまりツバメの部屋のカーテンが若干隙間を開けていたため、ユウキはその中の様子を伺えた。しかし見てはいけない、という何か言いしれぬ力が働き、ユウキはそそくさと窓から首を引っ込めようとした。
(でも、ちょっとだけ・・・)
ユウキは悪魔の囁きに同意し、いたずら心でツバメの部屋の様子を覗いてしまった。
中にいるのはツバメ一人。なにやら机に向かっている。
(勉強してんのか・・・?)
ツバメは眉間にしわを寄せ、非常に悪い目つきをしている。
数秒後、ツバメは大きな溜息をついた。
(そんな難しい問題なのかな)
ツバメは頭が良い。全国模試でも五百位につけるほどで、補修常連のユウキとは相反して、教員陣からも期待されている。ユウキはツバメが学習における問題で悩んでいる姿を見たことがなかった。
(何か・・・様子が、変だな・・・)
ツバメの瞳の中には、光がない鬱蒼とした気配が漂っている。目の前の問題が目に入っていないようで、そもそも問題がそこにあるのかさえ疑わしい。というより、ツバメの手元にシャープペンシルが見当たらない。
ユウキが見つめていると、ツバメはおもむろに椅子から立ち上がり、カーテンを押し広げて窓を開けた。
(うそだろ・・・!!)
ユウキは息を殺して素早く自室に逃げ込み、窓とカーテンを閉め、こっそり自室のカーテンの隙間からツバメの様子を観察した。どうやら気づかれてはいないようだ。
ツバメは空を見上げ、いつもの強気な彼女からは想像できない憂鬱な顔で、また溜息をついた。その時、ユウキはツバメが悩みを抱えていることに気がつく。
(あいつも、悩むのか・・・)
初めてみるツバメの表情に、ユウキは少しの驚きを覚えた。そして、胸が痛んだ。
今彼女の前に出たら、俺は彼女を笑顔にできるだろうか。
彼女は、その悩みを俺に打ち明け、頼ってくれるだろうか。
ーーーーいや、それは無理。
だって俺は彼女にとって、チキン、だから。
「はぁ・・・」
ユウキもまた、大きな溜息をついた。その重い息はユウキの部屋のカーペットに染み込んだ。辛さを溜息に込めたところで、このもどかしさが消えることは無い。それでも溜息が出るのは、この辛さを乗り越えてみせる、と心のどこかで信じ、足掻いているからだ。
限りなくゼロに近い可能性でも、ゼロなんかじゃない。実質ゼロでも、ゼロなんかじゃないって、知らず知らずのうちに信じてる。
(そうだよ、な・・・。ツバメを諦めることなんて、初めから出来ないよな・・・)
自分の信じているゼロに近いその可能性は、絶望を示唆するためのパーセンテージなんかじゃない。そう気づくのに、少しだけ時間が必要だった。
信じようとする気持ちは、信じたい衝動だ。
だってやっぱり、ツバメの笑った顔を見たら嬉しかった。辛そうな顔を見たら悲しかった。
だから、自分の恋心を信じる理由はそれだけで、十分のはずだ。