よくある病院の非科学的な怪奇奇譚の件ついて
研修医や病棟医として私が病院で体験した、科学で説明がつかない奇妙な出来事をそっと文章に残しておきたいと思いました。
私がまだ研修医だった頃、色々な病棟で怖い話を聞いた。研修医は研修期間の2年間で1〜2ヶ月ほどかけて、色々な診療科の病棟で臨床研修に臨むことになる。今回はその時に私が聞き、自らも体験した非科学的な話を、この場にひっそりと残しておこうと思う。
研修医について簡単に説明したい、少しお付き合いいただければと思う。研修医という立場は非常に微妙である。指導医のもとであらゆる疾患を勉強し、実際の患者さんに問診をして、検査や治療プランを下手なりにも考える。患者さんの安全が第一なので実際には指導医の判断で治療が行われるのが一般的であり、要はオムツの取れてない医者である。当然のことながら病棟の看護師からは、何かあった時に頼りになるかなどを常に査定されている形になる。使えないと判断されると露骨に態度が冷たくなる看護師もいる。診療科により看護師にも傾向があり、手術に携わる所謂オペ看や救命救急の看護師はせっかちな印象があり、使えないと判断された研修医は空気のごとく扱いになることがある。逆に精神科などの看護師は職業柄で研修医にも柔和に接してくれる方が多い印象がある。あくまで印象だが。
看護師は病棟に最も長くいる職種であり、医師と比べると患者さんと接する機会が多い。大抵の怪談話などは看護師が抱えている事が多いのだ。これは私がある精神科の病棟で聞き、体験した話だ。
私が精神科に研修して2週間ほど過ぎた頃のことである。段々と精神科病棟の業務に慣れ始めていた頃に、1人の患者さんが入院してきた。中年の女性で、表情の乏しい方であった。3ヶ月くらい前から、職場でトラブルがあり休職したものの憂鬱な気分が取れず、うつ病の診断がついたのだという。食事も摂れなくなってきたために、これ以上は命に関わると入院した。
「あの患者さん、501号室になったのね」と年配の看護師がナースセンターで呟いた。
「何か問題でもありましたかね?」と、たまたまナースセンターに来ていた私は思わず質問してしまう。
「いや、何でもないのだけどね…独り言だから気にしないでね先生」と年配の看護師の口調はどこか重たげだった。
私はそうですかと答えつつ、大して気に留めず看護師に薬の処方指示を出した。病棟で比較的よくあることだが、特定の病室に良く分からないジンクスがつく事がある。何故か急変してしまう事が多い病室とか、頻繁にトラブルに見舞われる病室などである。あまりに非科学的であり、バイアスが強くかかっていると言わざる得ないが…この手の話は多い。
「今日入院の患者さん、501号室になりました」と私は医師室で指導医に報告した。
指導医はやや顔を歪めた後に苦笑した、「あぁ、あの病室ね、何か看護師さんたちが寄りつくの怖がるんだよね」と不満を漏らしている。
「何か理由とかあるのですか?」と私は素朴な疑問を指導医にぶつける。
「ん?うーん、マア良くある話さ」
「良くある話?」
指導医が話しづらそうにしているところ、近くで電子カルテを打っていた先輩の研修医が私に耳打ちをしてきた。
「何でもあの病室に入院した患者さんは皆んな幽霊を見るそうだ」
「幽霊っすか…マア良くある話っすね…」と私はやや肩透かしを喰らった気分であった。
「何でも、皆んな女の人を見たと言うそうだ。決まって深夜の当直帯に出てくるようだよ、去年オレが精神科回った時にも聞いた」と先輩研修医は教えてくれた。
「せん妄なんじゃないすかね?」と私は先輩研修医に訊ねた。せん妄とは入院した患者さんが病院などの普段とは違う環境になった際に良くある症状だ。夜間に一時的に寝ぼけた感じになり、変なものが見えたり、変な事を口走る患者さんが結構いるのだ。認知症の方や手術後の患者さんに多い。時に暴れたり、知らないうちに点滴を自己抜去してしまうケースもある。
「オレもそうだとは思ってるよ、でも皆んな一様に女を見たって言うそうだよ。せん妄なら患者さんにより多彩な症状が出てくるものだしね、マア奇妙といえば奇妙」と先輩研修医は答えた。
「マア、私もせん妄だとは思うよ。でも時々それだけじゃ何か話がつかないケースもあるけどね…」と指導医が意味深に呟くように話す。
「先生は見た事あるんですか?」と先輩研修医が興味津々に訊ねる。
「目の錯覚かもしれないけど、変なものを見たことがあるよ。当直帯は病棟も暗いから人影が見えたりすることはあるよ」と、指導医は電子カルテを打ちながら答える。
目の錯覚だろうね、と私は考えながら業務に戻り会話は終わった。
うつ病の患者さんが入院して2週間ほど過ぎた頃、私が当直を担当した日にちょっとした騒動があった。深夜2時くらいに看護師から連絡があり、うつ病の患者さんが退院したいと病室で騒いでいると言うのである。精神科では結構良くある話である。精神的な問題を抱えている時に人は正常な決断を下せなくなる事が多い。私は重い瞼をこじ開けて、白衣に着替えて病棟に向かった。
薄暗い病棟の廊下を歩いていき、501号室に辿り着く。看護師が懐中電灯を持って私に手招きをしている。以前話した年配の看護師である。
「夜分遅くに申し訳ありませんね、患者さんが帰ると言って聞かなくて」と事務的な表情で看護師が報告する。
「いいえ、帰りたい理由とか何かご本人は話していましたか?」と私はあくびをしながら訊ねる。
看護師の表情がやや曇り、「なんでも女の人が勝手に自分のベッドに立っていたりするようです、部屋を間違えていることを伝えても無視をされるそうです…確かに何度か私たち看護師にもご本人から部屋を間違えている人が居るとの報告を受けています」と神妙に答える。
「女の人ですか…、せん妄かもしれませんね。とにかく今晩すぐの退院は難しい。ご本人が眠れるようにクエチアピンを出しましょう」と私はやや背筋が寒い思いをしながらも、冷静を装い答える。お化けのせいには出来ない、カルテにも書けないのであくまで医学的な視点から評価するしかないのだ。
患者さんには今日すぐの退院は難しい事を伝え、明日の日が出ているうちに退院についてご家族もお呼びして話し合うことを提案した。患者さんは虚な瞳でこちらの話が入らない様子であったが、段々と頷くなどの反応をみせるようになった。
患者さんは乏しい顔で、「あの女の人にはもう部屋を間違えないでと言ってください…ベッドの上に立って私をじっと見下ろしてくるのです…益々気が滅入ってしまって…入院しているのが辛くなる一方です」とボソボソと掠れる声で私に訴えた。実際に他の患者さんが部屋を間違えたなら看護師達が気付くので、まず無いであろう。部屋を間違えてベッドの上に仁王立ちになる患者さんは、精神科病棟であれば確かにあり得ない話でもないが…そういう行為をするリスクのある患者さんは今回は入院していなかった。
うつ病の患者さんには今夜は薬を飲んで、他の空いている病室に移動していただくことで納得していただき、対応を終了した。看護師にそのような対応をするように指示をして、医師室にカルテを書きに行こうとしていたところであった。看護師は患者さんを別の病室に案内していて、私しか病棟の廊下に居なかった。非常口の蛍光灯が薄暗い廊下を照らしていた。本当にさり気ない感じで廊下を歩く女を私は見た。顔は暗く良く見えないが若い女性であることはシルエットで分かった。患者用衣服を着ていることからどうやら入院している患者のようだ。私はトイレから病室に戻るところなのだと思い、軽く会釈をした。その暗い影も確かに私に会釈した。女の顔はすれ違うその時もはっきりと見えなかった。ただ口角を上げてニヤニヤとしていることは分かった、やけに眼光だけは蛍光灯に照らされてはっきりしていた。女は私のすぐ後ろの部屋に自然な振る舞いで入っていった、私は背後でその気配をはっきりと感じていた。501号室に入ったのだ。私は振り返り、病室を間違えていることを伝えようと501号室を覗いた。部屋には誰もいない、静寂な空気の中で時計の針がチッチッと動く音だけが響いている。思考停止している私に「どうかしましたか?」と戻ってきた年配の看護師が訊ねてくる。
「いや…何か寝ぼけてしまっているようで…」と私はしどろもどろして答えた。
「あまり気になさらず、今日みたいな深夜の病棟だと変なものが見える事があるんですよ」と年配の看護師は何もかもを察したような口調で答える。
「看護師さんも見たことあるのですか?確かに人影みたいなものを今さっき見ました。501号室に入ったような気がしました…女の人です…顔は分からなかったけど…」と私は震える声色を必死に抑えようとして、こもるような声で訊ねた。
「えぇ、私は本当に患者さんだと思って声を掛けたことがあります。私を無視してニヤニヤと笑い、501号室に消えていきました。懐中電灯ではっきりと照らされた女の顔を見たような気がします」と看護師さんは私を勇気づけるように柔らかい口調で話す。「でもどんな顔をしていたのか覚えていないのです…ニヤっとしている口元だけ…」
そう話すと年配の看護師は思い出す事をやめるように首を振って、「今日はもう遅いので、先生は明日も業務でしょう?ゆっくりお休み下さい」と話し、ナースセンターに戻っていった。
あったのはそれだけだ。その後は当直室に戻りぐっすりと寝て、朝の業務開始まで看護師の連絡はなかった。うつ病の患者さんもその後は治療で順調に改善し、しばらくして退院した。私は指導医にも先輩の研修医にも、当直の日に起きた非科学的で奇妙な話はしなかった。ただせん妄を疑う症状があったとだけ伝えた。ただそれだけの話だ。501号室で特に人が死んだとかそのような話も聞いていない。
こういう話は他にも幾つか体験した事があるが、それはまた別の機会に、然るべきに日にそっと置いていこうかと思う。
これらの体験ははっきりと言えば何も起きない話です。はっきりとした呪いがあったとか、霊障があったとかではありません。ただ何か奇妙な事があった。時に人であったり、科学で説明できない何かが見えたりした。今回は私が研修医になりたての頃に体験した話です。はっきりとは腑に落ちない事があって、私自身も整理がつかない事を文章にしております。分かりづらい文章ですが、読んでいただいて誠にありがとうございました。