第一話 「あけみ」 2・香水《パヒューム》
「最近の炭酸飲料って、炭酸弱いのかな?」
幼い頃の俺は、ゲップをすると鼻にツーンと来るのがイヤで、炭酸系の飲物は大嫌いだった記憶があるのだが…
『それとも、俺が大人になったせい?』
男はアソコから違う物が出るようになると、ションベンを途中で止められるようになる…はずだ。
(他の男子や、女はどうなのか知らないが…「第二次性徴」をむかえる前の俺は、出はじめたら出っぱなしだった)。
なんでも、「小」の時と、「例の物」が出る時とでは、回路が切り替わるんだそうだ。
(たしかに子供の頃でも、「オチンチン」が硬くなった直後は、オシッコの出が悪くなった憶えがある)。
きっと小便が止められるようになるのは、おそらくそんなところが理由なのだろう。
『そう言えば、「ヘソのゴマ」を取って腹が痛くならなくなったのは、いつごろからだろう?』
「シャックリ」だってそうだ。昔は今より頻繁に発生して、なかなか止まらなかったものだが…
(「一晩止まらないと死んでしまう」なんて『流言蜚語』におびえて、不安になったものだ)。
おそらく、「横隔膜」が成長して…もしかして、単に老化して…硬くなったからだろう。近頃ではシャックリなんて、炭酸を飲んだひと口目に出るくらいだ。
『きっと、なにごとにも「適齢期」というものがあるんだ』
俺は、そう思っていた。
(早くにおぼえた女は、「生殖器系のトラブルを抱えやすい」という統計があるそうだか、一方で、「処女は早逝する」と言われているそうだ。なるほど、「女性のカラダは子供を産んで、はじめて完成する」と語る医学者もいるくらいだ)。
「ゲプ〜!」
俺は今日も、裕美の部屋で「ドクター・ペッパー」を飲みながら、「昼のサスペンス劇場」を見ていた。
(「裕美」と書いて「あけみ」と読む。どちらのかは聞いてなかったが、「おじいちゃんが付けてくれた名前」なんだそうだ)。
最初は、「よくそんなクスリ臭いの飲めるわね」と言っていた彼女だったが、最近では、ちゃんと買い置きしておいてくれる。
(「Dr・Pepper」の歴史的背景を述べれば…まだ19世紀だった頃。アメリカ南西部の…テキサス州だ…地元のドラッグ・ストアーにおいて、健康飲料として売り出された物に起源を持つらしい。俺と同世代。「ファースト・フレディー」と呼ばれた、ルイジアナ出身のオートバイ・レースの天才ライダーは、俺と同じく「DP」が大好物で…欧州の『世界選手権』遠征中。プライベート・タイムは自身のモーター・ホームにこもって、「ドクター・ペッパー」を飲みながら、本国から送られてきたテレビ番組のビデオ録画を観ては、くつろいでいたと云う。それに俺には、特にこちら「KANTO Region」では、ほとんど知られていない、その類似商品「ミスター・ピブ」…『黄色の缶に、茶色っぽい黒文字』だったような憶えがある…を中学生の頃に、「ダサい玉」県で飲んで、『マッズ〜!』と思った記憶が残っている)。
「また残酷なヤツ見てるの〜?」
あけみは決まって、ケンカやコロシなどの暴力シーンになると、目をおおう。
「いいんだよ。ニホンなんて平和な国にいるんだから、ちょっとアブナイものでも見て、免疫つけといたほうが…ノホホンとしてたら、かえってヤバイだろ」
『銃声を聞いて、ポツンと突っ立っているのは日本人くらい』なんて言われるけど、それも仕方ない。
「銃声ってのは、テレビでやってるようなハデな音とは、ぜんぜん違うんだ。22口径くらいじゃバクチクみたいな音だから、聴いたことがないとわかんないんだよ」
もっとも今のところ、俺の知識なんて、実体験のともなわない『耳学問』ばかりだけど…
「へえ〜、そうなの!」
あけみは素直に、反応してくれた。
「あたしバカだから」
いつも正直そうに、そう言うあけみだが…
『馬鹿でも素直なら結構だ!』
(『平凡パンチ』だか『プレイ・ボーイ』だかに載っていた、「銀座のナンバーワン・ホステス」のインタビュー記事。「聞き上手になるのがコツ」なんだそうだが…『ナルホド納得!』。だいたい、そんな店に来るオトコは、誰かにグチをこぼしたり・話を聞いてもらいたくて来るのだ)。
特別「美人」ともいえない彼女の魅力は、そんなところにあるのだろうけど…
「お客が勝手に指名替えしただけなのに、あたしが客を取ったって騒ぐ子がいてさ」
そんなふうに、ボヤいていた事がある。
「飲み屋で働いてる子なんて、気が強い子が多くて…」
たしかに、そのくらいじゃなきゃ、長くは勤まらないんだろうけど…
「この仕事…あたしに向いてないのは、わかってるんだ」
あけみはポツリと、そう言うけど…
『そうでもないぜ』
同僚との「勢力争い」は苦手だろうが、先に挙げたような理由で…
『客受けは悪くないはずだ』
俺には、そう思えたが…
「あたしってバカだから…ほかに出来ること無くって」
あけみは、そう語った後で、考え込むように黙ってしまった事があった。
「バキュ〜ン!」
「グサッ!」
「バタリ!」
ドラマは、クライマックスをむかえていた。
「でも…どういう育ちしたの?」
それを平然と眺めている俺にむかって、あけみは、そんな言葉を投げかけてくるけど…
『実際の現場じゃ、こんなもんじゃないはすだぜ』
あけみは、俺のそんな「思想」(というより、単なる意見)や、「嗜好」(といっても、血しぶきが飛び散るようなリアルな物じゃない)に、不満げだが…
「俺ん家は、躾はけっこう厳しかったんだぜ。それに俺はもともと、歯を磨いて、パジャマを着て、ちゃんとフトンに入らないと寝つけない子供だったんだ」
俺がいま語ったことは、冗談ではない。実際、そんな子供だった。
「でも、あるときフト思ったんだよ。フトンをかぶらなくちゃ寝られないようじゃ、大したことないよなって」
思い返してみる。
『だいたい、あまりに規則正しく育て過ぎるのは、よくないよな』
俺は、自分の生い立ちを振り返って、そんな考えを持つようになった。ナゼって…
『だって、イザという時や、ヤバい状況になった時、そんなにヒ弱な心身じゃ、生きのびられないだろ』
それに…
「まったく殴られること無く成長するのも、問題だな。暴力に対して、妙に臆病になっちゃってさ」
俺は、親にだって手を上げられること無く、育っていた。
(そこで俺は、かつて一度…高校、卒業直後。その頃ツルんでたダチと、「肝試し」ならぬ「度胸試し」に…呑んで・酔っ払って、殴られること覚悟で、カタギそうなヤンチャっぽい大人に、あえてカラんでボコボコにされた事がある。まあ、顔を赤く腫らして・青アザができた程度だったので、両親には「街を歩いていたら、いきなり殴られた」とだけ、話しておいた)。
「限度をわきまえてた方が、かえって安全かもしれないだろ。カッとなって、我を忘れて、気がついたら相手を殴り殺してた…なんてコトになるかもしれないし」
もちろん、その逆…自分が、永遠に目が覚めない状態になる可能性だって、ありえるわけだ。
(高校の頃に読んだ、映画化もされた某有名作家の青春小説に…「ヤクザと喧嘩するなら、一番強そうな奴にむかって行け」と書いてあった。なんでもベテランは、「痛いが、急所をハズして済ませてくれる」からだそうで…「ケンカ慣れ」していないチンピラは、無我夢中になって見境いが無くなるから、かえってアブナイんだそうだ)。
「あたし、残酷なのキラーイ」
もちろん俺だって、現実世界で、そんなヤバい場面に出くわす事を望んでいるワケじゃない。
「でもさ、だいたいケンカなんてするヤツは、ハケ口を肉体的苦痛として、違う場所に求めてるんだろうな」
俺はわかりもしないクセに、結論めいたことを口にして、その場を〆る。
(ちなみに、俺たち『3バカ三人組』の口グセに、「医者と弁護士と教師の子供には、ロクなのがいない」というものがあるが…土井は医者の子息で、高瀬は弁護士の子弟。そして俺は…教師の息子だ)。
俺はその番組が終わると、リモコンであちこちチャンネルをかえていた。俺は幼い頃から、自称…『昭和』初期生まれの「戦中派」までは使っていたであろう、古くさい言葉で表現すれば…「物臭さ太郎」だった。子供のクセに、『手元ですべてを動かせるリモコンが欲しい』と思っていたくらいのガキだった。それに…
「テレビがなくちゃ、生きていけない!」
戦後の『テレビっ子』、第一世代だ。
(まさに、「ニュー・ミュージック」系・某有名男性ミュージシャンの曲名にもあった『アトムの子』。白黒TVアニメ『鉄腕アトム』を、一番幼い年代で、リアル・タイムで観ていた)。
『!』
交響曲をやっている番組があった。
「モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』の第1楽章「アレグロ」が聴きたいな〜』
俺がわざとらしく、あけみに聞こえるように、そうつぶやくと…
「何、それ?」
『思った通り』の反応が返ってきたので…
「『アイネ・クライネ』は、何だか知らないけど…」
(後知恵だけど…「アイネ=ひとつの」「クライネ=小さな」という事だ)。
「『ナハト・ムジーク』は英語に直せば『ナイト・ミュージック』…つまり、『夜の音楽』って意味なんだ」
「知ったかぶり」して、そう答える。
「そんなの知らな〜い」
あけみは、そう言うが…
「そんなことないさ。人間20年もやってれば…」
アメリカの独立記念日『7月4日』の日に誕生日をむかえたあけみは、俺よりひとつ年上のハタチだ。バースデイ・プレゼントに何がいいかハッキリしない彼女に、俺はまだ何も贈っていなかった。
「絶対どこかで聴いたことがあるはずだよ」
と言って俺は…
「タン・タ・タ〜ン・タ・タタタタ・タン!」
その出だしを、口ずさむと…
「あっ! それなら知ってる!」
あけみは素直に感嘆してくれる。
「ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの曲は、なんて言うか…ドラマを感じるんだよ。ドラマチックなんだ。もっとも、それくらいしか知らないけど…クラッシックはむずかしいんだよ」
なんでも、「日本人には聴こえない」というか、感じられない『音』があるそうだ。たとえばジャパニーズは、虫の音に風流を感じ…俳人「芭蕉」先生の『閑さや 岩にしみ入る蝉の声』や『古池や 蛙飛びこむ水の音』などの句にある通り…音の中に「静けさ」を見出すが、アイツらにとっては「虫の鳴き声」なんて、ただの雑音でしかないそうだ。
『ヤツらにとっての「静寂」は、まさに無音状態?』
(最近の売れっ子作家「片岡」さんのエッセイに、ジューク・ボックスで「無音のレコード」を聴く黒人男性の話があった)。
きっと日本人のクセに、国際コンクールで入賞できる連中は、欧米人と同じ聴覚を持っているか、あるいはまた、本家を酔わせるような…案外、和洋折衷な…音色が出せるんだろう。
「勉強しなくちゃ、理解できないんだ」
あけみの反応で調子にのった俺は、エラそうに講釈をたれるが、するとあけみは…
「じゃ、勉強すれば?」
と、ごもっともな意見を返してくる。
俺は幼稚園の頃、いやいやピアノ教室に通わされた。大切な日曜の半分が、「やりたくもない事」でつぶれてしまうのが、とても腹立たしかった。そのせいか、まったくモノにならず、一年ほどで親もあきらめたようだ。そして、それが原因かどうかはわからないが、音楽の成績だけは…「5段階評価」で…万年「3」で、いまだに楽譜すら読めなかった。
(それで高校の『芸術』の授業は、「美術」の方を選択したわけだ)。
「そういうモンでもないんだな。作曲家になろうと思ったら…勘違いしてるヤツって多いけど、勉強したからって、イイもん創れるとは限らないだろ」
そこで透かさず、生まれつき「素直」じゃない俺は…
『芸術とは何ぞや?』
あけみの「正論」に対抗するため、あらたな「命題」を提議する。
「どうしてよ?」
予想通り、怪訝な表情を見せるあけみに向かって俺は…
「音楽なんて、いつ素晴らしいメロディーが浮かぶかわかんないだろ。有名な映画音楽を創った作曲家なんて、楽譜書けないから、いつもお付きの人がついてて、その人が口ずさんだメロディーを書きとめてるんだそうだぜ」
もっとも音楽に限らず…作家から、お笑い芸人に至るまで…アイデアを必要とする業界に就いている人間は、いつ良い考えが思いつくかわからないから、「寝る時も、枕元に紙とエンピツを置いておく」などといった事は、よく聞く話だ。
「そういうものは、生まれ持ったモノなんだよ、きっと」
そろそろネタのつきてきた俺は、結論めいたセリフを吐いて、この場を〆る。
「へ理屈ばっか!」
あけみは、そう不満を漏らすが…
「この子は理屈っぽい」
たしかに俺は…子供の頃から、「ああ言えば・こう言う」ようなマセ餓鬼で…大人にそう言わしめるだけの、クソ餓鬼だったようだ
もっとも俺にしてみれば、「人と違った視点から物事を眺められる」という、生まれ持った『美徳』や『美点』だと思っているのだが…。
たとえば、家で取っている新聞。俺が見るものと言えば、まず『テレビ番組欄』は当然として…
(これは、正統的には「巻末」だが、そんなクセのせいか? 俺は、ナゼか本屋で雑誌を「パラ見」する時など、「右開きなら左から・左開きなら右から」。後ろからページを繰る習慣がある)。
あとは、後日になって、「当たっていたかどうかを判定するため」に確認する『今日の運勢』と…
(結局そんなものは、「どうとでも取れる言い回しをしているだけに過ぎない」ことに気づいてからは、興味が薄れたけど)。
そして前にも例を挙げた、『人生相談』コーナー。
そこに、いつだったか? 先の「ボランティア」に関する投稿をした女子中学生より、数年年上であろう女子高生の進路相談に、こんなモノがあった。
なんでも、「考古学者になりたいのだが、家族に反対されている」んだそうだ。だが…悪いが声を大にして、ひと言、言ってやりたい!
「残念だけど、『考古学者 募集』なんて求人、ないよ!」
(『案外、的を得たアドバイスだ』と思うのは、俺だけだろうか?)。
だいいち、本気でなりたいなら…
『遺跡発掘のバイトくらい、したことあんの?』
だいたい、本当に好きなら…
『そんな事で誰かに相談する前に、誰かに言われなくたって、「損得抜き」で、とっくにサッサと、何かやってるはずだろ』
たとえば単なる願望だけで、安易に「芸術家になりたい」的なことを語る奴もいるけど…そんな連中に、訊いてみたい事がある。
「アンタ、何か表現したいモノがあるの?」
写真やカメラ、歌うことや楽器を奏でるのが好きな奴。絵を描く事や、手先が器用で物を作る事が上手い奴。文章を書く事や、喋りが得意な奴。もちろん、スポーツや学問などなど…その他、さまざま・もろもろ。
特に、そんな特殊技能を要求される世界では、「損得抜き」で始めた奴のその中で、「真の才能のある者」だけが『自然淘汰』され生き残り、それで食っていけるようになるワケだ。
(市井の、「天体好き」が彗星を発見したり・「化石好き」が恐竜の骨を見つけたりするのが、その最たる典型的な例証になるだろう)。
『インディアナ・ジョーンズの観すぎじゃねーの?』
俺からすれば、ただの「オタク?」。
(その闘い方が、『あしたのジョー』のモデルになったとされる元プロ・ボクサーのコメディアン「たこ八郎」氏をモジッたのだろう、『リカちゃん人形』を抱えた「キモいロン毛」姿でテレビ画面に登場した、俺たちと同世代の元祖『オタク』…「たく八郎」さん。『OTAKU』は、後の時代に、英語の辞書にも載るコトバになった)。
きっと、俺が『人生相談コーナー』が「お気に入り」なのは、皮肉屋な俺の「ツッコミどころ満載」だからなのだろう。
(なかには深刻なものもあるけど…概して、どいつもこいつも、自分への肯定・賛同を求めているだけだ)。
ちなみに俺自身は、『就職情報誌に求人が載るような職業に就きたい』と思ったことは、一度もない。
「『南極観測の越冬隊員 募集』なんてのがあったら、サイコーなんだけど」
あいにく一度も、見たことも聞いたことも無い。でも、そんなふうに思うには…おそらく子供の頃、映画館での二本立てロードショーの合間の、白黒ニュース映像。そこに映し出された、除雪車に乗った隊員の姿や、(『一度やってみたい』と思いつつ、未だ実現していない)「バター掛けゴハン」。今でも鮮明に記憶に残っているが…
「あれが、原体験になっているんだろうか?」
(「ビデオ」なんて物が無かった時代の『一期一会』。特にテレビは、『これを逃したら、次は無い』。そんな思いが強かった。だからそのぶん…「次回予告」まで…本気で真剣に、見入っていたものだ。それで今でも、「予告編好き」なんだろう)。
それに俺は、子供の頃から、「パニック事態欲求」とでも呼べばよいのか? 「尋常ならざる状況に陥ること」に、憧れにも近い感情を抱いていた。
「強烈な台風が来るから、家じゅうの窓に、外からクギで板を打ち付けて、中に立て籠もる」
そんな展開になるマンガを、何度か(数は定かではないが)見て、そんな状況になる事を、密かに期待していたものだ。
(もちろん、そんな事を、誰かに語ったことは無い。と言うより、そんな話題を交わす機会が、今まで無かっただけだが…話しついでに、偶然、思い出したわけだ)。
俺はチョットのあいだ、その音楽番組を見ていたが…知らない楽章に移り、おまけに映し出された映像が退屈だったので、サッサとチャンネルを変える。
「居候なんだから、ちょっとは手伝いなさいよ」
あけみは、なかなかのキレイ好きだった。今日は「模様変えだ」と言って、なかば大掃除をしている。
「なにしろ面倒臭がり屋だから、ちょっとした事ができないんだよな。そのかわり…」
と言いながら立ち上がり…
「いったんフンギリつけてやりだすと、トコトンだけどね」
俺は、何をやるにしても、「キッカケ」や「大義名分」となるような理由を必要とする人間だった。
「ちょっと、やめてよ〜!」
でも最近、唯一の例外ができた。それは、あけみとの「交わり」だ。
「ヤダって言ってるの…に」
俺は掃除機掛けをするあけみを、後ろから羽交い絞めにしてコトを始めた。
「ゲプ〜!」
窓から吹き込む風は、妙に爽やかだ。俺はあけみとの1ラウンドを終えた後で、ふたたびドクター・ペッパーを飲んでいた。
「ふう〜!」
俺はもう、虜になっていた。あけみとの「目合」は「CALL&RESPONCE」。呼べば返ってくる。つまり、「感度がイイ」ってことだ。
「あたしの中学の時からの友達にさ…」
引っ越し前のように、乱雑に散らかった部屋で、俺たちはタオル・ケット一枚羽織っただけで話しをしていた。
(「明るい所での『交接』を嫌がる女」が『多勢に無勢』だった時代。基本、「灯りを消す」が、『交尾のはじまり』の合図だったけど…俺たちにも、そのくらいの「恥じらい」はあった)。
「ピーマンが大嫌いな子がいたの。それがスゴイのよ。『あなたのお弁当にはピーマンが入ってる』って言い当てるの。お弁当箱に入って、ちゃんと包んであるのによ。本人だって、中身が何か知らないんだから。でも開けてみると、ホントに入ってるの。匂いでわかるんですって。ピーマンなんて、そんなに臭わないでしょ?」
俺の右腕を枕がわりにしたアケミは、こちらを向きながら意見を求めてくる。
「うん。匂いが無いってことはないけど、そんなに臭かないよな」
俺は、オフクロに言わせれば、幼い頃から「ニオイ」に敏感な子供だったという。
(俺の母親は、『甲状腺』か何かに持病を持っており、その病気のせいなのか、それとも薬の副作用によるものなのか、今では嗅覚がかなり弱っていた。目が見えなくなるよりは、他の感覚を失った方がまだマシだろうが…「ガス漏れ」があっても、わからないかもしれない)。
そんな俺は、あるとき突然ひらめいた。
「味や臭いに嫌悪感を抱くのは、きっとそれが毒だからなのだろう」ということだ。
(本来『無色・透明・無味・無臭』の、家庭用「都市ガス」や「プロパン・ガス」に、あえて…いわく「腐ったタマネギ臭」を付加しているのは、ガス爆発やガス中毒などの、大事に至らないためなんだそうだ)。
それからすると…たとえば「ウンコ」だ。人間はウンコの臭いや見かけに、不快感を覚えるようにできている。
「じゃなけりゃ…」
もしそれが、「食欲」をそそるような物だったら、『大腸菌』なんかがウジャウジャしてる危険な物を食ってしまう人間だって、現われることだろう。
(通常、「味わった」ことなんて無いだろうが…なにごとにも、例外はある。ごく少数だろうけど、「特殊な趣味」の人だって存在するんだろう)。
『なるほどな!』
わりと最近のことだが、それは俺が自分で見つけた『大発見』だ。
(後の時代になると、『食物アレルギー』なんてものが、発見・解明・認知されるようになったけど…だからきっと、「本能的な好き嫌い」だってあるのだろう。たとえば、小学の時。他のクラスに、牛乳が飲めない同級生がいた。「アルコールを分解する酵素を持たないので、酒が飲めない」奴と同種だったのだろうが…担任の中年女教師が、洗面所に彼を連れて行き、吐きながらでも無理やり牛乳を飲ませている現場に出くわした。もともと俺は、そのオンナ教師が大嫌いだったが…「教育者ヅラ」して、『タチの悪い伝道師か、性悪な魔女』。俺の目には、そんな風に映ったものだ。ちなみにその彼は、学年イチの高身長で、長じてからは野球部のピッチャー。聞くところによると、現役で私立の一流大学に合格したものの、あえて一浪して、日本で一番有名な国立の最高学府に進学したそうだ。「ザマー見ろ、糞ババあ!」が俺の、心底からの感想だ)。
「でもさ、お前のニオイって、なんか違うんだよな」
普通で嗅覚で知覚する匂いと違って、何て言うのだろう?
「本能に、直接うったえかけるとでも言うか…」
疲れていたりで気分がダウンしている時には、ホッとするし…イライラしている時でも、とっても落ち着くし…バリバリの時は、その気にさせてくれる。
「これが、フェロモンってモノなのかな?」
小さい頃から、独自の匂いを人間というのもいる。また、中年以降に発生する『オヤジ臭さ』や、老人が放つ、同種で独特の『加齢臭』。あるいは、個人差もあるだろうし、その種類にもよるだろうが…持病による固有の『生臭さ』。さらに、強い薬を服用している人や、「クスリ漬け」と呼んでもいいくらいの人物が発散する、動物的でない化学的な特殊な体臭。でも案外、本人や、身近にいる家族などは慣れ切って、忘れてしまっているものだ。
(犬を飼っている人間が…「人間の1億倍の『嗅覚』を持つ」と言われるイヌとは正反対に…「いぬ臭」に鈍感になってしまっていたりするように)。
そして何かの拍子に、フッと気づくのだ。
(女房と三人娘が、同時期に『生理』になった時の「強烈な臭い」を嘆くオッサンの話を、たまたま立ち聞きした事があるけど…そんな環境下に置かれた事のない俺には、『それが、どんなニオイなのか?』。想像もつかない)。
何かでこんな話を、聞いたか読んだことがある。
香水の『調合』を職にしている人の、談話だったはずだ。そんな仕事をしているくらいだから、もちろん「匂い」には敏感な人だったのだろうが…たまたま、昔の知人と電車で乗り合わせたそうだ。
『この人、ニオイが変わったな』と、その場はそれで別れたそうだが、間もなく訃報を聞いたという。
『あれが「死臭」だったんだ』
その時、そう思ったそうだが…多くの人に、『嫌悪の念』を抱かせる「臭い」というものは、たしかにある。
でもあけみのそれは、不快なものではないし、香水などのように作られた物でもない。
それは、『郷愁』にもにたものを持っていて、妙に安堵感を与えてくれる。深呼吸をして、胸いっぱいに吸い込みたくなるようなものだ。
そして…男の俺に言わせれば…そういった良いものを持っているのは、女性に多いように思う。
(男でも、女に対して、そういったものを持っているのかもしれないが、俺は男だから感知できないのだろう。たとえば、「ワキガの人間は、自分がワキガであることに気づかない」そうだし、「ワキガ同士は、お互いがそうであることに気がつかない」と言われるように)。
たぶん、口臭や体臭などにも「におい」の相性というものがあって、同種のものを持つ者同士は、それに気づかなかったり、好みに合わない場合は、それを敏感にキャッチし、マイナスの反応を示すことになるんだろう。
(たとえば香水だ。本人はそれを塗りつけているくらいだから、良い気分なのだろうけど…『クセーんだよ!』…自分の趣味に合わない「悪臭」にまとわりつかれることほど、迷惑な話はない。だから俺は、香水なんて物は、使わないことにしている)。
でも、自分が『気にくわない』と感じたからって、それがすべての人に共通に当てはまるというわけでもなく、中には正反対の傾向を示し、好みの感情を抱く人だっているはずだ。
(かつて欧州のどこかの国に、売れない作家がいたそうだ。もっともそれが本業ではなく、働かなくても食っていけるような家柄の紳士。ただし十人並みのルックス。しかし、いつも美女をはべらせていたと云う。それも、金ばかりにものを言わせたワケでもなく…そんな女たち曰く「あの人は、とても良い匂いがする」んだそうだ)。
「匂い」や「臭い」の『香り』の感覚というのは、案外あいまいで、個人差が激しいと、俺はそう思っている。
(なんでも人間には、いくつかのニオイのパターンがあるそうで…俺が聞いたところによると、二つのまったく正反対の説があって…「女は、父親と同じ匂いを持つオスに惚れる」という話と、一部のオンナたちが篤く信奉する『外婚思想』に代表されるように、血が濃くなり過ぎるのを防ぐためだろう。「お父さんのパンツと一緒に洗濯しないで!」。俺が思うに、たぶん本能的に…避ける傾向があるという説だ。個人的には、後者の意見を支持している俺だが…理由は「ウンコ」の自説と同様、単純明快『近親相姦』を回避するためだろう)。
「とくに『アソコ』の匂いが、大好きだよ」
俺がそう言いながら、あけみの股関に顔を突っ込もうとすると…
「バカ! 変態!」
あけみはそう叫んで、二人で入っていたベッドから滑り出して、シャワーを浴びに行く。
「ふう〜!」
今日も、一緒にいられる時間は終わりに近づいていた。でも…
「さてと!」
俺は、彼女の部屋で過ごした後は…と言うより、あけみと「メイク・ラブ」した後は…妙にスッキリした気分になる。気力も充実して、今までの自分からは想像もできないくらいに、テキパキとしていた。
(俺は、「アタマ」が冴えている時・「気分」絶好調な時、鼻腔の奥の、脳ミソの入口あたり…だと思う…に、フッと心地好い香りを感じる事がある。たぶんそれは、みずからの体内で合成されている物だ)。
「受験のための勉強」はする気になれなかったけど、家に帰ると本ばかり読んでいた。
※ ※
「ありゃドーピングだよ。体質が合うヤツが三本も飲めば、出なくなっても立つっていうぜ」
土井は、「夏カゼ」をひいた高瀬が飲んでいるという、薬局でしか手に入らない市販の「ドリンク剤」について、そう語っていた。
「たぶん、覚醒剤みたいな物だな。クスリが効いてる間は、カラダがカッカときて絶好調だけど、切れるとドッと疲れが出るもんな」
予備校は、『夏を制する者は、受験を制す』のスローガンを掲げ、「夏休み」に入っていた。「自習室」は開いていたが、空いている席は少なかったりするので、今日は公立の図書館に来ていた。家に言ってある回数はかなりのものだが、実際にここに来るのは、ほんの数えられるほどだった。
「クスリでごまかすか、あるいはそれで、通常以上の力を引っ張り出しているワケさ」
もちろん館内で声高に話をするわけにもいかないので、俺たちは外でダベッていた。土井は続ける。
「あんなモン、コマーシャルで流れてるみたいに『一日一本!』飲んでたら、糖尿になっちまうぜ」
それを受けて俺は…
「でも、ほんの少しの酒は、逆に運動能力を高めるんだってな。戦国時代や特攻なんかでも、戦さの前に景気づけの杯飲んでから出陣や出撃しただろ」
そう続ける。
(「恐怖心を打ち消すためじゃねーの?」。俺には、それが一番の理由のような気がするが…)。
「そう言や、この前、ソフト・ボールの試合した時も、ビール飲んでホロ酔い加減の時は調子良く勝ち進んでいたんだけど、切れはじめるとドッとダルくなってさ、決勝はボロ負けの惨敗」
そこで高瀬が、そう口をはさむ。
(高卒で就職した、中学ん時の同級生に、社内球技大会のメンバーが足りないんで、「助っ人」に呼ばれたんだそうだ)。
俺たち三人は、酒も煙草も女もヤッたけど…合法・非合法を問わず、薬物なんてものには興味も関心も無く、特にそういったモノに一番否定的だったのは、意外にも、あの土井だった。
(もっとも、医者の息子。そのあたりの「恐さ」は、一番理解しているのかもしれない)。
つまりは俺たちは、自分たちの将来・未来に…少なくとも現時点においては…「希望も期待も失っていなかった」ってワケだ。
「お前の場合は、飲み過ぎなんだよ」
俺が高瀬にそう言ったところで、最近、土井が付き合いはじめた女が登場する。地元の国立大学に通う同い年で、ツンとすました無口なオンナだ。土井はその女と目を合わせると、軽くうなずいて…
「じゃ俺は、これで…」
と言って立ち上がる。この後これから、ここの裏山にある公園でイチャつくか、金があるなら、そこの麓を取り巻く「連れ込み旅館」のどこかにシケ込むのだろう。
「さて!」
そこで俺は、腕時計をのぞきこむ。
そのころ俺は、少しずつだか、受験のための勉強を始めていた。午前中は机にむかって、遅く起きたアケミが部屋の掃除や洗濯が終わった時刻を見はからって、彼女のアパートを訪れるのが日課になっていた。
今日もそろそろ、イイ時間だ。
「じゃ俺も」
俺が三人に、そう告げると…
「なんだよ! オマエも帰っちまうのかよ?」
後ろからそう叫ぶ高瀬を残して、俺はアケミの処に直行していた。
「だめ! イキそう!」
アケミは噛み殺すようにそう言っては、俺の下で腰の位置を、突き立てやすい角度にもってくる。
「あ! あ! あ! あん・あん・あん…『アッ!』 あ〜ん・ん・ん…」
俺の動きに合わせ、フェード・アウトしていくアケミの音。今日も、第一ラウンド終了だ。
(毎日、日課のように「朝晩かかさず」抜いていたけど…連日できるなら、「一日一回!」でも間に合うかもしれないけど…あいだに一日でも入れば、「最低二ラウンド」は必須。でも「ハタチ」前後の男女が交われば、だいたいそんなモンだろう)。
「ふう〜!」
俺が、「嘆息」ではない満足の「溜息」を吐きながら、アケミの上から降りて仰向けになると…直後に、「余韻にひたる」でもなくムクッと起き上がったアケミは、急いでトイレに駆け込む。そして…
「はい!」
ペットの『ドクター・ペッパー』を片手に、ふたたびベッドにモグリ込んできては…
「オシッコがまんしてるほうが、気持ちイイの」と言う。
「どうして?」
理由は、よくわからなかったが…でもそれは、俺も同じだった。そんな時のアケミには、締め上げられて「もう辛抱タマラン」って感じだった。
(生物学的に男と女は、同じ『人類』。大きく見れば、子孫を残すことができる同じ『種』だが、細かく見れば「婦人科」なんてものがあるように、医学的には「別の生き物」と言えるくらいの「違い」があるそうだ…と、「産婦人科医」の子息の土井が語っていた。だから、いつか・どこかで、俺がエラそうに「男女の快感の差異」についての自説を展開していたように…男と女構造の相違による「意識のズレ」なんて、理解できっこない)。
「最近、しつこいお客さんがいてさ」
アケミは、俺に手渡したDPを奪い取っては、ゴクゴクと口飲みしながら…
「腕にアタシの名前彫ってるのよ…フリ仮名入りで。バッカみたい!」
そんな話を始める。
「でも、わかるような気がするな。お前は、男を虜にする女だよ」
俺は、手戻されたドクター・ペッパーを、ひとくち口に含んでから、そんな思いを口にする。
「そんなことないって」
アケミは謙遜(?)するが、俺は正直、そう思っていた。
「お前は、男をその気にさせる女なんだよ」
俺は心底、そう思っていた。
「何て言うか…いろんな意味で、男を『その気』にさせるんだ。もしその男に、何がしかの才能があったら、きっとソイツはどこまでも昇っで行くんだろうな…自分の限界点まで。そういう女だよ、お前って」
俺はボンヤリ天井を見つめながら、独り言のように、感じたままを述べていた。
「そんなことないって。アタシなんて、パッパラパーなんだから」
(どいつも・こいつも、『世界で自分が一番アタマがイイ』くらいに思っていやがる。いまだかつて、人類の中で『究極の真理』にたどり着けた奴なんて、ただの一人もいないっていうのに…。だから、自分で自分を「バカだ」って認められる人間は、そんな連中より、よっぽど「利口」ってことだ)。
そう返してくるアケミの顔を見詰めながら、俺は…
『お前は、俺の勇気とヤル気の源なんだ』
そんなふうに思ったけど…さすがにそんなセリフ、テレ臭くて口には出せなかった。それで…
「お前といっしょにいると、何でもってわけじゃないけど、何かができそうな気がしてくるんだ」
俺はそう言いながら、最後のドクター・ペッパーを一気に飲み干す。
そのころ俺は、出勤するアケミを見送った後、家に戻って結構まじめに勉強していた。
※ ※
麻酔の効いた俺の頭は、ボンヤリしていた。
はじめ動悸がしてきた時は、『気分が悪くなるのでは?』という感じだった。でも続いて、モアッと何かが身体を上から下に走り抜け、意識が朦朧として、逆に良い気分になってきた。
「座薬が効いてきたみたい。ボーッとしてきた」
そんな状態になった俺は、この前アケミに会った時のことを思い出していた。アケミは夏カゼをひいており、座薬の風邪薬を使っていると言っていた。
「ボワーッとして、クスリやった時みたい」
「クスリ?」
「そう。今はやってないけど」
アケミは悪びれずに、そう返してくる。
(もっともアケミの場合、市販の薬剤の量や飲み合わせで、軽く「トリップ」する程度だったみたいだが)。
『ま、この娘なら、そのくらいのことはあるか』
俺はビックリするより、むしろ納得し…ガキの頃、夜中に家の前の空地でフラフラしながら、ビニール袋を口に当て、「アンパン」をやっている若者を目撃したのを思い出した。
シンナーやトルエン、覚醒剤や麻薬などの劇物・薬物は、けっこう浸透している。わりと身近なところでも話を聞く。それは俺みたいな普通の人間にだって、チョット手を伸ばせば届く所にあった。しかし俺みたいな、禁煙すらできない、「どっちつかず」で「意志薄弱」な輩が一回おぼえたら…きっと病みつきになって、ぜったい抜け出せなくなるだろうから、本気でも・遊び半分にでも、『試してみよう』なんて思ったことは一度も無かった。
(ミュージシャンや物書きなど、創造力を必要とする人間は、何の努力もなしに、あふれるようにアイデアが出て来るうちは良いだろう。あるいは、「産みの苦しみ」はあっても、何らかの法則に則って創り出せるモノ。または、知識や経験の積み重ねに従って、辛苦のもとに造り上げられるモノなら、まだ救いはある。しかし、それがいつまで続くのか、何の保証も無い。才能の枯れはじめた人間は、内なる力を求め・必要とし、「薬物などに走るか、自殺するしかないに違いない」。俺は、そんなふうに「解釈」している)。
そして、その効き方や反応は、人によって…持って生まれた気質や、その時おかれている状況などで…マチマチのようだ。怒り出す奴、笑い出す者、泣き出す人…などなど。
『たぶんそれは、ソイツが酒に酔った時、どういった人間になるかを見ればわかる』
それが、俺がわずかばかりの経験から想像したことだ。
「いくら良い医者らって…長蛇の列つくって待っていられたんりゃ…一人一人に気を配ってられないらろ」
俺は、こぼれそうになったヨダレを手で拭う。まだ麻酔が醒めていない唇には、正常な感覚が戻っていなかった。ロレツも回らない。
「診る方らって…患者選びたいりょな。もし俺が医者になったりゃ…保険がきかなくてもいいかりゃ、診てくれって奴だけ相手したいりょ」
俺は予約を取って歯医者に行ったのに、一時間近くも待たされたことに腹を立てていた。
(オマケに、『麻酔、効き過ぎじゃねーの?』。ハラが減ってるのに、これじゃメシも食えね〜よ!)。
「でも、医者になるんらったりゃ…産科か小児科だにゃ」
「また〜。ヘンなこと考えてるんじゃない?」
「俺はマジメに言ってるんらりょ。新しい命を取り上げりゅ、幼い命を救う。なんか感動的じゃにゃい?」
「そりゃ、そうだけど…」
「そんときゃ、俺が診てやるりょ」
「子供は作らないって、決めてるの」
「りょうして?」
「親子でにてるところって、あるでしょ。顔・すがた形や性格ばかりじゃなくって、結婚する年齢とか、子供のできる歳やパターンとか…生きて行く筋書きみたいなものが」
「…」
「お母さんが大変だってことは、わかってた。独りじゃ寂しいってことも。でも、アタシが高一のとき再婚して…アタシは家出同然に家を出ちゃったの。アイツが嫌いだったし…無理して、ガマンしてまで、学校行く気もなかったし…」
「…」
「もし子供が、アタシと同じような運命たどったら可愛そうだもの」
「反面教師ってこともあるりょ」
「何それ?」
「ようしゅるに、『ああはなりたくない』って思って、まったく反対になりゅってことしゃ」
文字にすると、フザケた調子になってしまうけど…俺は、話が深刻になるのは嫌いだった。
(ましてや過去の出来事など、今さらどうにもならない。避けて通れることは、なるべく避けて通りたかった)。
それで、話題を健康保険の方に持って行く。俺はまだ、父親の扶養家族だったから、保険料を支払ってもいないクセに、身のほど知らずで生意気にも、保険金や年金のことについて文句を言いはじめた。
「俺の中学んときの友達で、高校出て働いてるヤツが、嘆いてたにゃ。税金・保険・年金なんかだけで、給料の三分の一がなくなりゅって。でもしゃ、これだけペット・ブームなのに、どうして動物の医療保険ってないのかにゃ? 犬猫にゃんて、保険きかないから、注射一本何千円らりょ」
「アタシ、動物も飼わないことにしてるんだ」
どうやらまた、地雷を踏んだようだ。
「仔犬の頃から飼っていたイヌがいたの。おっきなセント・バーナード。でも、お父さんが死んじゃって…飼いきれなくって、もらわれて行ったの」
何かまた、マズイ雰囲気になってしまった。
「中学生の夏休みに思い立って、その知り合いの家に一人で遊びに行ったら、玄関で剥製になってて…」
アケミは、涙こそ流さなかったが…
「病気で死んじゃったんだけど、いつまでも忘れないように、そうしたって言われたけど…」
ポツリ・ポツリと、話し続けた。
「気がついたら、灯油まいて火を着けようとしてた。まだ子供だったし、事情が事情だから、大きな騒ぎにはならなかったけど…」
そこまで語って、押し黙ってしまう。
『何も剥製なんかにしなくたって、いいじゃないか。趣味ワリーな』
病死が本当だったとしても…それは人間のエゴイズムやヒロイズムだ。そんなことして、イイ気になっている。
『そういう奴らは、自分の銅像や胸像作って欲しくてしょうがないんだろうな』
そんなことを考えれば考えるほど、俺はムカついてきた。
「銅像や胸像の代わりに、剥製にしてやれば大喜びするんじゃにぇーの、そういう奴りゃは。俺は自分のデス・マスクにゃんて、作ってもらいたかないにゃ」
イラついてきた俺は、アケミを抱き寄せ、彼女の頭に鼻を当てて深呼吸する。
「イイ匂い。この匂いをかぐと、妙に落ち着くんだりょ」
アケミは、俺に身を任せてくる。そこで俺は、多分に『アケミの気を紛らはせよう』という意図もあって…
「欧米人には必要だけど、日本人には不要って言われてる物、何だか知ってるきゃい?」
アケミの頭に鼻先をはわしながら、そんな質問を投げ掛けてみる。
(もちろんアケミの返答は、想定済みだ)。
「さあ?」
予想通りの反応が、返ってくる。
「オーデコロンにサングラス、あと『肩コリ』って単語と綿棒にゃんだってさ」
「どうして?」
「まず綿棒からいけば、奴りゃの耳アカってにょは、日本人みたいにパリパリしてにゃくて、ドロッとしてるんらって。だから耳掃除する時は、綿棒つかうんらって。でも、俺ん家の家系は、外人の血が入ってるにょかもにゃ。俺の弟が、そうにゃんりゃよ」
(「縄文人」系はドロッとしており、「北方」系はパリッとしている…という説があるようだ)。
「ふーん」
「必要にゃいって言えびゃ、サングラスなんかもそうだよにゃ。奴らは瞳の色が薄いきゃら、必需品にゃんだにょ。眼の色が濃い東洋人には、不要なにょさ。スキーの時くらいだにゃ、『雪目』ににゃらないために」
俺は、サングラスをかけると、暗すぎて景色が良く見えなくなるから嫌いだった。でも…
「昔は俺もそうだったな」
かなり年上の俺の従兄は、誰の葬式の時だったか、こんなふうに語っていた。
「でもな、歳を取るにつれ、陽射しに耐えられなくなってきてな。今じゃ、晴れの日にクルマを運転する時には、必要なこともあるな」
いつか俺にも、そんな日が来るのかもしれない。
「じゃ肩コリは? アタシだめなのよね、肩こっちゃって」
「欧米人は『いかり肩』だかりゃ、肩こらにゃいんだってしゃ。『肩コリ』って言葉すら、無いりゃしい」
なんでも、慢性の「肩コリ」の原因というのは、自分の腕の重さにたえられないからだという。
「だから『なで肩』の人間は、肩コリににゃりやすいんらって」
「へー」
(でも…とある野球マンガに描いてあった事だが…物を投げるには、「なで肩」が良いんだそうだ。たしかに、いつだったかテレビで、たまたま『甲子園』の高校野球の校歌斉唱を観た時だ。整列した球児たちを眺めて、『こいつら、みんな姿勢が悪いな』と思ったことを憶えている。だがよく見れば、一人残らず全員が「烏賊みたいな超なで肩」。だから、どちらかと言えば「いかり肩」の俺は、生まれつき肩が弱いんだろう。ゆえに、「肩コリ」に悩まされたことは無いが…『ピップ・エレキバン』のコマーシャルのセリフ、「イカは肩が凝らないんだよ。だって肩が無いだろ」なんて、大ウソだ)。
「でもそのことに関しちゃ、日本はストレス社会だからって説もあるけどにゃ。日本に来た外人が、肩がコルようににゃったとか、視力が落ちたにゃんて話もあるしにゃ。日本っていうにょは、そういう生活環境社会にゃんだろうにゃ」
遠くを見る必要の無い国土や環境。
『近視眼的になるのも、仕方ないよな』
ついでに、そこから頭痛・肩コリ・腰痛を誘発していると、俺はそう信じていた。
「じゃ最後に、オーデコロンは?」
「奴りゃもともと肉食だから、体臭や口臭には不利だりょ。だからかえって、そういったことには結構気をつかっているんだよ」
香水なんて、そのために造られたものだ。
「日本も、奈良や平安の昔とかには、香をたいたり『匂い袋』を身につけたりしたみたいだけど…風呂が大好きな現代ニッポン人には、必要ないのさ」
だいたい、自分が好きな匂いだからって、誰もが好むとでも思ってるんだろうか? 「臭い」をプンプン撒き散らしてるなんて、迷惑な連中だ。
「特に、お前には…」
俺はそう言って、やっと感覚の戻ってきた唇で、アケミにキスをする。
(「性器接吻」なんて行為は、衛生的になった近・現代になってから行なわれるようになった営みらしい。だいたい「お産」の時にバイ菌に感染し、母体が産後に絶命するなんて、わりと最近の時代まで、珍しくもなかったみたいだし…世界の各地には、まだそんな場所も残っているのだろう。最近、「病気が恐くて、とてもそんな気になれなかった」という、未開の地を訪れ、地元の有力者に気に入られ、「娘を夜のお供に」と言われた日本人の旅行記を、読んだばかりだ)。
「アタシも虫歯あるんだ。早いトコ、歯医者さん、行かなくちゃ」
「でもさ、これからはたとえば奥歯だって、金とか銀なんて流行らないよな。金がかかっても、やっぱ白い歯がいいよ。だいたい東洋人ってのは、歯に無関心だからな」
欧米人は、けっこう敏感だ。カルシウムが多い食生活をしているから、歯はもともと丈夫だし、歯並びには神経質だ。
(「土質に関係がある」なんて話を、聞いたことを思い出した。それに、「耕地が少ない土地で、同じ場所を繰り返し使っていると、土壌のカルシウム分が減っていく」なんて話も)。
「奴らは宗教的に、八重歯は『吸血鬼』や『悪魔の象徴』として忌み嫌ってるんだよ。だからみんな、幼いうちに矯正するんだよ」
「ホントー」
アケミは、右の上に八重歯がある。左の方は、本来おもてに出るはずの八重歯が内側に出てしまい、チョットだけ頭をのぞかせていた。見たことはなかったけど、舌先で上アゴの内側を撫でると、それとわかる突起がある。全体的に歯並びは、あまり良くなかったけど…ほかよりチョット大きめの上の前歯二本は、きれいに並んでいた。
「でも俺は、このビーバーちゃんみたいな前歯と、八重歯が大好きだよ」
そう言って俺は、アケミの前歯と八重歯を集中的になめまわした。
「アゲマンの女」というのは、いるものだ。俺にとっては、彼女が正にそうだった。
俺はもともと、本だけはよく読んでいたせいか、そのための勉強はまったくしなくても、予備校で行なわれいる模擬試験で、「現代国語」だけは成績上位者として発表される数十人の中に、チョクチョク顔を出していた。
そして近頃は、ほかの科目も少しずつ上向いてきていた。




