銀杏の木の下で
「今、救急車呼びますから」桑名は素早くスマホを取り出して119を押した。
「……ああ」
ため息をつくようにして、母親は桑名に支えられて上半身をベンチに横たえ、血が詰まるから、と桑名はその顔を横に向けた。鮮血は桑名のズボンを染め、ベンチの隙間を通り抜け、地面に落ちた。
桑名は黙って彼女の手をしっかり握って、彩芽に聞いた。
「きみの言う、おじさんって人に、連絡はつくかな」
「何度か……スマホで連絡取ろうとしたんだけど、繋がらなくて……」彩芽より先に母親がかすれた声で答えた。桑名は顔を近づけた。
「無理にしゃべらなくていいですよ」
彩芽の背中に、なにか、冷え冷えとした戦慄が走った。
母から急に、失われていくものがある。それが今わかる。網かごの中で色を失っていく、母のほおずき……
母の息が荒くなった。
「ママ! ちゃんと息して!」
「きみも手を握って。動物より人のほうが、大事なものが離れていくときは急なんだ」
「先生、ママは人間だから、関係ない人だから、いつもの力で助けられない?」彩芽は涙声で言った。
「いや、関係なくない。とっても大事な人だ。ただ、今は僕も力が弱ってる。できるだけのことはするけど、力を絞り出しても救いきれるかわからない。きみも力を貸してくれ」
「どうしたら、どうしたらいいの」
「いかないでって、魂ごと叫ぶんだ。きみの中のママへの愛情を、全部注ぎ込むんだ。手をしっかり握って」
「ママ、がんばって!」
彩芽は母親の右手を握りしめた。
そうして桑名青年は、大きな銀杏の木の下で、目を閉じて苦しそうに呼吸をする母親、ゆかりの両頬に手を置き、額に額をつけた。愛おしそうに、髪をなで続けた。それはまるで、長年の恋人のように。
母の白い手が震えながら伸びて、青年の頬に触れた。
「これは、夢なの……」
震える声でそう言うと、一粒、目じりから涙を流した。続く言葉に、彩芽は目を見開いた。
「カイ」
「はい」
「あなたなのね」
「はい」
「わたし、あなたのことが、大好きだった。……幸せだった。とても」
「ぼくもです」
「楽しかったわね……」
もつれた青年の前髪に、母は細い指を絡ませた。
「あなたと走るのが、あの花盛りの草原が、好きでした」
「いつも、いつも、……いっしょだったわよね。だからあの、……背の高い、銀杏の木の下で……」
自分は今、何を聞いているのだろう。
この会話は何だろう。
呆然と二人を見つめる彩芽の眼前に、いきなりはじけるように、幼い母と茶色い犬が草原を走る光景がぱあっと広がった。
青年の頬に添えていた母の手が、ぱたりと落ちた。
「また、会いましょう」
口を閉じた母の代わりにそう答えると、桑名青年は全身の力の抜けたゆかりの体を丸ごと抱きしめ、そのまま動かなくなった。
ミケランジェロの、ピエタ。
現実感を失ってゆく彩芽の脳裏に、図書室の画集で見たその画像が、夢幻のように浮かんだ。
救急車のサイレンが、近づいてきていた。
病院という空間の中は、行きかう人の心のため息と、覚悟と、希望と失望が充満している気がする。
彩芽は、入院病棟の廊下の椅子で、「おじさん」と並んで、両手を握りしめていた。
何もかもが夢を見るようにかけ去って、最後に自分が上げた絶叫が、ママ、じゃなくて、カイお兄ちゃん!だったことしか覚えていない。
おじさんが、下を向いたまま口を開いた。
「変に痩せてきてるなとは思ってたんだよ。あいつこの病院にかかったことがあったんだな。主治医に聞いて初めて知ったよ。気道の悪性腫瘍と聞いて、ならもういいです、ってそのままにしたって」
彩芽は黙って体を固くした。
「埼玉の本宅に帰ってたんだよ。スマホの電源切れてて、連絡取れなくて、すまんな。どうしても確かめたいことがあったんだ」
「……」
「以前言ったろう、うちには隠し財産があるって。散々爺さんが言ってたから、蔵に入って金庫を開けて確かめようとしたんだよ。鍵は仏壇の引き出しにあった。開け方は以前手帳に書いてくれて、それは手元に持ってた。信じられるか、開けてみたら、金の延べ棒がドカンと積んであったよ。あの爺、本当のこと言ってたんだな」
「……よかったね」無表情で、彩芽は答えた。
「あいつにも早く教えてやりゃあよかった。そうすれば、治療費のことを考えて病院通いを諦めるなんてしなくても済んだのになあ」
「真樹さん、お母さん、目が覚めましたよ。意識が戻りましたよ」
病室のドアを開けて、看護師が呼んだ。二人は小走りに、病室に入った。
「ママ。わたしだよ。おじちゃんも来てるよ」
母親はベッドの上で、天井を見たまま目をぱちぱちさせていた。
「おう、目が覚めたか。入院費のことなら心配するな。自宅の金庫にな、隠し金があったの確認してきたからよ。俺も本気出して職探すからさ、元気になったら籍入れようや」
おじさんは、母親の手を握りながら言った。
「んでさ、アパート出て俺の本宅でみんなで暮らそう。きなこも、庭が広いから喜ぶぞ」
「ずっと夢見てた……」
母親はかすれ声で言った。
「あの子がね、わたしのなつかしい、大事なカイが、眠いのに、眠くてたまらないのに、顔を舐めて舐めて、眠らせてくれないの」
「うん、だからここにいるんだよ。ママはカイのおかげで、戻ってこられたんだよ」彩芽は涙を流しながら母親の手を握った。
そこに主治医が入ってきた。
「いや、よかったですね。一応検査して気道の腫瘍もみたんですが、以前よりずっと小さくなってるんですよ。肺やリンパへの転移も消えてます。吐血量が多かったので輸血は必要でしたが、不思議なことに全身の腫瘍がほぼ消えかけてるんです。気道腫瘍も、大出血ののち、しぼんで姿を消している状態です。ちょっとこれ、説明がつかないんだけど」
母親は微笑んだ。
医師は一通りの説明を終えると、今後抗がん剤治療の必要があるかどうかは、入院してさらに経過を見て決めましょう、たぶん必要ないと思いますけどね、と言って出て行った。
「ママ、今の気分どう?」
「あの子が抱きしめてくれたからかしら、ずっと体があたたかいわ。いい気持ちよ」
「夢の中のカイが?」
「そうよ」
「じゃ、今度お墓参りしなきゃね」
「お墓の場所なんて、今どうなってるかわからないわ。高知の田舎の、高い高い、銀杏の木の下よ。わたしが泣きながら埋めたのよ」
一瞬、病室に静寂が訪れた。おじさんは、窓の外の木に集まる小鳥に見とれている。
「ママ、救急車呼んでくれたお兄ちゃんのこと、覚えてる?」
彩芽はそっと聞いた。
「それがね。あんたを探しに行って見つけたあたりから、記憶が飛んでるの、お医者さんには逆行性健忘と言われたけど。あんたにも、大変な思いをさせたわね。親切な方が通報してくださったなら、お礼言っておいて」
「もう、言えないんだよ」
「え?」
「言えないの。もう、いないから」
「いない?」
母には言わない方がいいだろう。
言っても信じはしないだろう。
最後に母が出会ったのは、命がけで母のほおずきに火をともしたのは、誰だったか。
それはわたしだけの秘密でいい。
「ママ。おじちゃんと、結婚するの?」彩芽は思い切って聞いた。窓の外を見ていたおじさんが振り向いた。
「……あなたが反対するなら、しないわ」
「反対なんてしないよ。ママには幸せになってほしいもの」
おじさんはにっこり笑って、ぐっと親指を立てた。
彩芽も、にっと笑って親指を立てて見せた。
続いて母も、ゆっくりと親指を立てて微笑んだ。
わたしの恋も、あの茶色い瞳の思い出も、生きている限り、消えはしない。
たとえ、最後に見た大切な人の姿が、ストレッチャーの上で呼吸を止めた、白い頬の美しい人形のような姿であっても。
あのひとは、いなくなってはいない。消えてもいない。
あの銀杏の木のように、わたしの中の恋は、季節が来れば鮮やかに染まり、どんどんすくすく大きくなるんだ。雨に打たれて、風に吹かれて、雪を積もらせて。時には鳥たちに巣をかけられて。
彩芽は窓の外にそよぐ、ハルニレの木々の葉っぱを踊りまわる小鳥たちを見つめた。
この世のみんな、みんなみんな、美しい。
わたしは愛して、生きていこう。あのひとが教えてくれたものを。
生まれては天に帰るたくさんのいのち、かがやくほおずきたちの世界を。




