あなたのために
「うちの子から離れてちょうだい、このロリコン。覚悟はできてるでしょうね。やっと見つけたわ。通報させてもらうからね」
一瞬呆気にとられたあと、彩芽は桑名から離れて母親に食ってかかった。
「桑名先生は何にも悪くない、わたしから先生に抱きついたんだよ!」
「彩芽ちゃん、落ち着いて。とりあえず、メガネ返してくれるかな」
青年は怒りに燃える母親の目の前で、メガネをかけた。そして改めて母親を見上げると、立ち上がり、何か呆然とした様子でそのやつれた顔をじっと見つめた。母親―ゆかりは戸惑った様子で、黙ったままの青年を見返した。
「何よ。わたしの顔に見覚えでもあるっていうの? そんなにじろじろ見てないで、何とか言いなさいよ」
「お嬢さんに失礼なことをしてすみません。僕は近くのアマリア病院に勤めている、桑名海里というものです」そう言うと、頭を下げた。
「でしょうね、ちゃんと調べてきたわ。ホームページに写真があったもの。で、小さい子に興味がおありというわけね」
「失礼なこと言わないで! この先生、きなこの病気を治してくれたんだよ。きなこは迷子になってたんじゃなくて、病気を治してもらうためにわたしが入院させてたの。この子の口を見て。すっかり元通りになってるでしょ。この桑名海里先生が治してくれたんだよ」
足元をぴょんぴょん跳ね回るきなこの口元を見ると、母親は驚いた様子を見せた。
「まあ。あんた、治ってるじゃないの。こんな短い間に、ここまで?」
「だから、魔法使いみたいに凄い先生が治してくれたの。どうして通報なんてしなくちゃならないの?」
「つまり、この犬を治してやるかわり、飼い主のこの子を撫でまわして写真撮ってもいいって、そういう関係を結んだわけ?」
「どうしてそうなるの!ママのバカ!」
少女は涙ぐんだ目で叫んだ。
母親は二枚の紙を出して、目の前で黙ったままこちらを見ている青年に突き付けた。
「これを書いたのは、あんたじゃないってこと?」
まきあやめちゃんへ、で始まるおぞましいはがきを見せると、青年は首を横に振った。
「違います。僕ではありません」
「じゃあ、わたしと同居してるあのろくでなしのおやじかしら」
「おじさんはわたしに何もしてない。ママが思ってるよりいい人だよ!」
「じゃあだれが書いたのかしら。こんなものも出てきたわ」
二枚目の紙はB5ぐらいの大きさだった。明らかに子どもの字で、そこにはこうあった。
「アマリア病院様。
栗原先生、桑名先生。
きなこの治療を、どうぞよろしくお願いします。どんなにお金がかかっても、必ず治療費はお支払いします。大人になって自分のお金が稼げるようになったら、命を懸けて、一生をかけて、お支払いします。お金の為ならなんでもします。ここにお約束します。ですから、きなこをどうか助けてください。
一生有効。
支払い約束書 真樹彩芽 2023年4月20日」
「こんなものを子供に書かせて契約を結ぶのが、まともな大人のすることかしら。この子まだ12歳よ。お金の為なら何でもするって書かせたのね。法的に問題にできるわよ?」
「確かに彼女が書きました。でも書かせたわけではありませんし、法的にも有効ではないし、こちらでは破棄しました」桑名は冷静に言った。
「何でも治せるかわり、随分法外な値段をとるあこぎな動物病院だってネットで調べたわ。そんな特別な病院があると知れば、子どもでもすがりに行っちゃうわよねえ」
足元ではねまわるきなこを見つめながら、桑名は苦しげに言った。
「一度院長に言ったことがあるんです。僕はあんな高給はいらないから、治療費全般をもう少し下げられないものでしょうかって。そうしたら、きみは命がけで動物たちの治療に当たっているのだから相応のお金をもらう権利はある。今更安くしたら、それまで貯金を取り崩してまでここに通っていた人たちに悪いと思わないかって」
「で? この子はいくら用意してここに来たのよ?」
「最初に彩芽ちゃんが来たときのお金は預かっていますが、そのままにしています。入院費の請求もしていません」
「どうして? 使っていいんだよ」彩芽が口をはさんだ。そして母親の顔を睨むと、決然とした口調で言った。
「本当のこと教えてあげるよ、ママ。誰にさせられたんでもない、わたしが自分でお金稼いだんだ。世間でいう、パパ活ってやつ。12歳だと結構いいおカネになるんだよ。びっくりした?」
「……なんですって?」母親は手元の紙を取り落とした。
「そのクソみたいなはがきは、会うのをやめたどこかのスケベサラリーマンとかが書いたんだと思う。ほかにも候補はいるけどね」
「噓でしょ…… 一体、何言ってるの」
母親は真っ青になって、紙を拾おうとしゃがみこみ、そのまま口元を抑えて咳き込んだ。
「そんなに驚くこと? そんなに信じられない? ママだって、似たようなお仕事してるじゃない」
「彩芽ちゃん」もうそれ以上は、という風に桑名が少女の方に手を置いた。母親は目を吊り上げて娘を睨んだ。
「その言い草は何よ! ええそうよ、汚らしい仕事をしてて悪かったわね。でもそれもこれも、あんたがいるからよ。ちょっとは人間の情ってものがあって金離れもいいオヤジを捕まえたと思ったらあっという間に賭け事と先物取引とかですっからかんの居候。わたしになにかあったら、あんたはどうなると思うの。何があってもせめて高校までは出してやれるぐらい、お金を貯めようとママも必死だったのよ。全部あんたの為よ。それがそんなに悪いこと? どれだけ嫌な思いをして、どれだけ苦労したかあんたにわかるっていうの!」
「うん、悪いことじゃないよね。ママもわたしのために必死だったんだよね。だったらわたしの気持ちもわかるでしょ。わたしのそばにいていつもわたしの話を聞いてくれたのは、きなこだけなの。だけどママはきなこが病気になっても、病院代も出してくれないし、お医者にも見せてくれない。なら、この子を助けられるのはわたしだけじゃない。だから、ママと同じように、いやな思いをして働いたんだ。そんなに大したことじゃないよ、裸になって、写真のモデルになるだけ。好きなところを触らせてあげるだけ。わたしとママ、どっちのほうが汚い?」
「……」
母親は絶句して、一歩後ずさった。そして、足元でくるくる回るきなこの横で木に寄り掛かるとまた咳き込み、顔を覆って言った。
「あんたは、あんただけは、健康に、まともに、育てて…… そのつもりだったのに……」
「きなこが死ぬ病気にかかったなら、わたしも自分の健康なんていらない」彩芽は一歩も引かなかった。
母親は桑名を見上げて言った。
「そこの桑名とかいう先生さん。あなた、どこまで知っててこの犬を入院させたの」
「何もかも、今聞きました」
「どうして、ふんだくり病院なくせに、この犬だけただで治療したの」
「それは、……わかりません」
「わからない?」
「でも今、わかりました」
「何がよ」
「説明のしようがないけど。つながったんです。全部」
「……?」
青年は、何かが宿ったような穏やかで美しい表情で、かがんで母親に語りかけた。
「体の具合が、相当悪そうですね。そこのベンチに座ってください」
「余計なお世話よ」
「いえ、普通の状態じゃないです。随分長いこと、苦しいのを隠してきたんですね」
「……」
母親はよろよろと起き上がると、桑名に手を取られてベンチに座り込んだ。
「ママ、病気なの?」彩芽は心配そうにこけた頬を手で隠す母親を覗き込んだ。
「あなたに、……先生に、言わなくちゃならないことがあるわ」つぶやくように、母親は言った。
「この子を、きなこを、助けてくださって、……ありがとう」
「どういたしまして」桑名は微笑んで答えた。
「わたしだって、本当は助けたかった。でも、何の病気か、わかってたの。以前にも同じ病気で愛犬をなくしたから。ひどい最期だったわ。鼻や口が崩れていって、それでも懸命にご飯を食べて生きようとするのを、泣きながら見てた。治らない病気と思っていたから、この子が散歩中に迷子になってしまったと聞いて、むしろ安堵してたの。あの酷い最期を、これで見ずに済むんだって。ひどいわよね」
「いえ。……わかります。うちの病院の院長も、もう何匹もこの病気の犬や猫を、安楽死させてきました。ペットたちの名前を呼んでは泣き続ける飼い主に見守られて。僕はそれを長いこと、見てきたんです」
彩芽はどこか不思議な気持ちで、二人の表情を交互に見た。
悲しいことを語っているのに、桑名青年の目が、まるで初恋の人に巡り合ったとでもいうように、潤んでいるのだ。何か、静かな泉の揺らぐような、澄んだ喜びの色をたたえて。
突然母親は口を押さえてかがみこむと、立て続けに咳をし、その足元にはぼたぼたと血が落ちた。おびただしい量の鮮血だった。あとからあとから、血の塊が落ちてくる。彩芽は悲鳴を上げた。
「ママ!」