わたしを抱きしめて
今は初夏だから、あの輝くような黄金食の紅葉は見られない。銀杏の葉は日の光を浴びて青々と茂っている。
桑名海里は木の下のベンチに横たわって、頭上に向けて手を伸ばしていた。
もう何年もそこに立って、動かない無言の銀杏の木。不動の樹木が、黙って重ねる命は、どうして風雪にさらされるたびにどんどん美しくなっていくのだろう。
桑名はふと視線をそらして運動公園の草地を見た。少女と茶色のダックスフンドが、彩芽ときなこが、一心に走ってくる。それは、約束された時を確かめるような、広げた絵本を見るような、懐かしくまぶしい光景だった。
「やあ」
きなこを連れた彩芽が目の前に立つと、桑名は手をあげた。
「よくここがわかったね」
「院長先生に聞いてきたの。桑名先生、きなこもうこんなだよ。この子を治してくれて、ほんとにほんとに、ありがとう!」彩芽は泣き崩れるようにして彼の横に座り込んだ。
「よかったな、きなこ。あんなにお姉ちゃんに会いたがってたもんな」ぽんぽんと、桑名はきなこの頭をなでた。
「きなこのために、無理して治療してくれたんでしょ。そういえばなんだか、顔色が悪いよ」
「いつものことだよ、平気平気」
「ね、ほんとのこと言って。もしかして桑名先生は、わたしのために現れた魔法使いなの?」
桑名は苦笑した。きなこは健康な舌で桑名の額と言わず口と言わずベロベロと舐めまわしている。
「みぞれが降った日、わたしがきなこを拾ったの、見てたでしょ。車の窓から投げ捨てられたあの子を、追いかけて捕まえてくれたの、お兄ちゃんでしょ。わたしちゃんと、思い出したんだ」
桑名はふっと笑うと、ひらりと落ちてきた葉っぱを片手で受けた。
「バレたか。あのとき動物病院に連れて行ってあげれば骨折してるかどうかぐらい調べてあげられたのにと思ったけど、親御さんがいない状態で、しかも拾った犬の診察しても代金を誰に払ってもらうか、院長に怒られるだけだなって、あのときは思っちゃったんだ、ごめんな」
「ううん、ううん。あのときのこと、ありがとうしか、言えないよ」
「それに何聞いてきたか知らないが、このお兄さんは母親をクソミソに言って金だけ受け取って家出したろくでなしのガキなんだぞ」
「全部知ってる」彩芽は立ちかけた桑名の膝を抑えて、強引に座らせた。
「まだ具合悪いんでしょ、座ってて。そのまま、お話がしたいの」
「さて、きみは僕とどんな話がしたくてここに来たのかな」とぼけた表情で桑名は言った。
「それを言う前に、まず、桑名海里先生のろくでなし人生のお話聞きたい」
「ろくでなし人生、ねえ」微笑しながら、桑名はベンチの上に座りなおした。
「どうして人間のお医者になるのやめたの」
桑名はメガネの上にかぶさっている前髪をかき上げながら言った。
「今さらあんまり思い出したくはないけどね。
早い話が、第一志望の大学の医学部には合格したけど、母親が入学金納入日を間違えて、結局入学できなかったんだよ」
「え! それ、ひどくない? 桑名先生、何も悪くないのに?」
「ああ、なんのために頑張ってるのかわからない年ごろから、学校と塾の往復の日々だったよ。睡眠時間も削られて、周りの友だちよりずっと背が低かった。今は伸びたけどね。そのうち、このままだと医者になる、医者にされる、と現実的に考えるようになって、どうしてもいやだという気持ちが湧いてきたんだ。
治すなら動物がいい。自分には何か、特殊な能力もある。人でなく動物たちへの愛情なら、たっぷりと持っている。それを生かしたい。
だけど合格はしちまった。で、入学金未納で門前払い。こちらがあきれ果てているうち、母親が先に逆切れしたんだよ」
「そんなひどいことしといて、どうやって切れるの」彩芽は呆れて聞いた。
「ええそうよ、全部、このわたしが悪いんだわ。本当に悪うございました。何度、現金持って窓口に行っても受け入れてもらえないの、仕方ないでしょ、ってさ。
で、起きたことは仕方ないからまたひと頑張りすればいいじゃないって。人より多く勉強する機会を与えられたのは、考えようによってはあなたの財産になるわよって」
「……ひっどーい。それでどう答えたの?」
「わりかし冷静だったよ。もうお受験するというご奉仕にもまっぴらだったしね。こう言ったんだ。人助けの職業に就くのも本意じゃないって、長い年月でよくわかった。でも、僕から青春時代の貴重な時間を奪ってくれたことは、一生恨ませてもらうことにする。そのうえで、助けたいのは人間じゃなくて動物だと再認識わせてくれたことにはお礼を言うよ。僕は医者にはならない、残念でした。そう言った」
「そしたら?」
「母親は顔真っ赤にして怒鳴ってたよ。いまさら動物専門の医者になろうなんて、手遅れよ。これまでしてきた勉強を無駄にするの。あと一年頑張って受験しなおせと。で、金でカタをつけようとした。
いくら謝っても許してくれないなら、もう好きに生きなさい。半年ぐらいはフラフラ各地放浪して頭冷やせるぐらいのお金は渡してあげるわ。300万円でどう? どこへでも行きなさい、半年たって頭が冷えたら戻ってきなさいって」
「で、帰らなかったんだよね」
「ああ、母親と特別仲の悪い叔父の動物病院に逃げ込んだ。そこで、やりたいと思っていたことが全部実現できたんだ。今の状況に満足してる。後悔なんてないよ」
「お父さんは? 何も言わなかったの?」
「あいつは個人病院の院長で、女とっかえひっかえのゲス野郎だった。僕のことなんてどうでもよかったんだ。僕が出てったあと、母親とは別居したらしい」
「そうなんだ。お母さん、今、きっと寂しいね」
「僕の知ったことじゃない」
「ね、お兄ちゃん。じゃなくて桑名先生って、誰でも、ヒトでも、治せるの?」
「残念ながら、まず人はダメ。小さな子か、特別思い入れのある相手ならまだしも、まずは動物。僕は動物のお医者さんなの」
しばらく沈黙した後、彩芽は思い切ったように言った。
「彩芽はどっち?」
「ん?」
「思い入れのある人間、それとも動物?」
「きみは健康な人間の子どもだよ。僕が触れる必要はない」笑顔で桑名は言った。
彩芽は初めて、頭から泥でもかぶりたいようなやけくそな気持ちになった。どう説明したらいいのだろう。でも、本当のことを知ってほしい。何もかもぶちまけたい。
「わたし病気だよ」
「なんの?」
「心の病気。全身の病気。なにもかもが、きたない」
「さて、難しい病気だな」
「わたし、しらないおじさんたちに裸の写真を撮られることで、お金をもらってきたの。このことは、もちろんママも誰も知らない」
桑名は驚いた表情で、言葉を失った。
そして、「そうか」とだけ言うと、少女の瞳をまっすぐに見た。
静かで、厳しく、真剣な眼差しで。
「それぐらい、必死だったんだね。でも、それはとても危ないことだから、もうしちゃだめだよ。それだけは約束して」
「もうしない。したくない」
「それで今、僕にできることは何なのかな」
「抱きしめて」
「それはちょっと…… きみが猫ならともかくも、しっぽもひげもないし。大人が小学生にそういうことすると、逮捕されちゃうんだよ」困惑した表情で、桑名は言った。
「何がいけないの、どうしていけないの。わたしが子どもだから? 汚いから?」
「……」
突然、彩芽は両手を広げて桑名に抱きついた。桑名は突然のことに、両手を宙に浮かせると、そのまま若芽の背中を支えた。
「大人が抱きしめるのはダメでも、これならいいでしょ。
笑っていいよ。わたしの病気に名前があるなら、それは、恋。これが全部はねつけられるなら、わたし、もう生きていたくない。わたしは汚い。助けて」
少女の瞳からはとめどなく、涙が流れ続けている。
桑名はメガネを外すと、少女の頬の涙をなで、そっと少女に自分のメガネをかけた。
「あ」
彩芽は自分の眼もとに手をやり、そしてメガネ越しにしげしげと目の前の青年を見つめた。
初めて見る、メガネのない顔。前髪の間から見える、透き通った茶色の目。綺麗な宝石みたいな目。 この人、こんなに、外人みたいな目だっけ。吸い込まれそう。吸い込まれたい。
「このメガネ、度が入ってないよ」彩芽は混乱を隠すように言った。
「それは僕がこの世から自分を守るためのおまじないだから」
「おまじない?」
「どう言っていいか、僕は自分が生きるこの世界を本当のものと思えなくなる時があるんだ。偽の人生を歩んでいるような。きみから僕はどう見える?」
「なんだか、人間の目じゃないみたいにきれいに見える。動物の目みたい。これすごいメガネだね。わたしはどう見える?」
「そうだね、絵本の中の主人公みたいだ。眼鏡をかけた赤毛のアン、かな。少し髪が茶色だし、そばかすはあるし、三つ編みのかわいいおさげちゃんだし」
「これかけると、なんだか、世界が輝いて見えるね、この木も、あそこに止まってる鳩も」
「そう、世界は本当は、きっとみんな、輝いているんだよ。きみもね」
青年は目を閉じて、彩芽のおさげを持ち上げて、編んだ髪にキスをした。そして、ふわりと少女の背に両手を回した。
「どこも、汚れてなんかいない。安心していい。開き始めた花のつぼみみたいに、いい香りだ。きみはいい子だよ」
ああ、神様。彩芽は思った。
このまま時が止まってもいい。このかたちのまま、わたしの今を永遠にして。
いきなりきなこが、ワンと吠えた。ふっと桑名の目が開いた。そしてそのまま視線を上に上げた。
体の上に影が落ちたような気がして彩芽が見上げると、そこには母親のゆかりが、鬼の形相で突っ立っていた。