アマリア病院の秘密
そういえば、去年の秋あの酔っ払いを連れ込んで一緒に暮らすようになってから、聞いたことがある。
「ママ、聞いていい? あのおじさんの、どこが好きなの?」
「いきなり何よ」
しばらく考えて、母親は言った。
「店でね、酔っぱらってあの詩、ほら犬の詩あったでしょ、あれ暗唱したら、ほかのお客はろくに聞いてなかったけど、あの人だけ、泣いてくれたのよ」
「……」彩芽は意外そうな目で母の顔を見た後、言った。
「でもママ、きなこ飼うの反対したじゃない」
「そりゃあ、こんな狭いアパートで犬飼うのはもともと禁止だし。空き部屋が多いから苦情出てないだけで。あと、犬は猫より寿命が短いし、いずれ死んで泣くことになるのよ。わたしもうあんなに泣きたくはないし、あれ以上人を恨みたくもないわ」
思い出しているうち、おさない彩芽の体に牛乳焼酎が回り、もう座っていられなくなった。
「とっと、飲ませ過ぎたか。ほれ、そこの万年床の上に横になりな」おじさんが背中に手を添えて彩芽を横たえてくれた。
「あのな、もしかしてあの犬が帰ってきてよ、大家が犬は外だよとか言い始めたら、おじさんの本宅に来るといい。そこでみんなで暮らそう。なにしろ、金庫には金の延べ棒が入ってるってじいちゃんから聞いたからな」
ぐるぐる回る視界を見ながら、彩芽の目には、哀れなママ犬の目から落ちた金の星がきらめいていた。
その瞬間、なぜかフルフェイスのヘルメットをかぶった優しいお兄さんの声が、耳によみがえった。
「そうか。幸せを祈ってるよ、ワン公」
あの声。冷たいみぞれ。子犬の頭に置かれた、あたたかい手。
「きみはいい病院を選んだよ。ここでは不可能も可能になる。心配しなくていい」
「あ!」
間違いない、同じ声だ、同じ優しい目だ。あの時のバイクの人だ、同じお兄ちゃんだ、間違いない!
「どうした」
跳ね起きた少女を不審そうに見ながら、おじちゃんは言った。彩芽は焦点の定まらない目で男を見ると、唐突に言った。
「わたし、見つけたよ!」
「ああ?」
「アマリア…… わたしの、まほうつかい…… ほおずき、の、お兄ちゃん……」
そうしてそのまま、ばたりと布団に倒れた。
それきり、病院からの連絡は途絶えた。何日携帯を見つめていても、知らせは来ない。検査の結果が出たら知らせる、と言っていたのに。
ううん、あの先生が、先生たちが、きなこを途中で放り出すわけがない。今もちゃんと、お世話をしてくれているんだ。とにかく生きているから、知らせは来ないんだ。
でも会いたい、きなこに会いたい。元気な顔が見たい。こっちから連絡したら、いけないのかな……
イレギュラーだから。不平等だから……
彩芽は携帯の番号を押しかけては指を離し、また画面を見つめた。
「彩芽、いるの? ちょっとここ開けなさい! あんた、くそオヤジ! 寝てんの?」
ある日、パート先に掛かってきた学校からの電話に応じて小学校に駆けつけた母親は、大声で怒鳴りながら木造アパートのドアをがんがん叩いた。錆びた鍵穴に鍵を突っ込むと、2DKの室内はがらんとして、かすかな酒の匂いが漂っていた。しんとした室内を見まわしながら、母親は担任の男性教師に言われたことを反芻していた。
「お嬢さんがね、ここの所遅刻がひどくて、今日は朝から登校していないんですよ。それとどういっていいか、お酒のにおいがしましてね。前にも申しましたが、授業中はたいてい寝てるし、お友達もお酒の匂いがすると。それでちょっと、ご家庭での環境をお聞きしたいと……」
慌てて自宅に駆けつけると、郵便入れにとんでもないはがきが入っていたのだ。
あて先はただ「まきあやめちゃんへ」とひらがなで書かれていた。住所も何も書かれていない。
裏返すと、見るもおぞましい文面が書かれていた。
『あやめちゃん。最近、冷たいねえ。どうして仲良くしてくれなくなったのかな。寂しいよ。
またきみの写真が撮りたいな。きみのまあるいおしり、太もも、かわいい胸、思い出してもドキドキするよ。
このままなかよくしてくれないなら、さらっちゃうぞ。それとも、きみの学校に、写真送っちゃおうかな』
はがきを持つ手が、ぶるぶると震えた。
何? なんなの、これは?
信じたくはないけど、ここの住所を知ってて、あの子の体に触れることができて、時々アルコールで都合の悪いことが頭から吹っ飛ぶのは誰。棚橋誠司。あのバカオヤジしかいないじゃない!
最初からろくでなしだとは思ってたけど、少しは人の情というものを持ってる奴だと感じてた。だから家に上げたのに、またこんな……
いえ、違う。あの男の言ったことを信じたからだ。悪いのは自分だ。
「実家はもともと土地持ちの資産家で遺産はたんまりある、このまま一人ぼっちで死ぬのも寂しいから、ゆかりちゃんのために使っちゃおうかな俺。
そだ、いっちょ籍入れるか。そしたら俺の死後、あの遺産はくそったれな国になんか取られないでゆかりちゃん、あんたとあんたの子供のものになるぞ」
結果はどう。婚姻届けは決心がつかず引き出しに入ったまま。それはいいけど、最近は新しい事業立ち上げようとして失敗したとか言って、すってんてんになって何にもせずヒモ状態じゃないの。家のおカネには手を付けるし、酒だのパチンコだの、おまけに、まさか、彩芽にまでお酒を飲ませて写真を……
ゆかりは髪を振り乱しながら、何か手掛かりはないかと、ガタガタとランドセルや本立て、ファイル、机の引き出しを探した。ごほごほ、細いのどから乾いた咳が出る。いつも持っている彩芽のピンクのリュックと、財布と携帯がない。持って出たんだわ。まさか、家出?
そのとき、引き出しの奥から、参考書に挟むように隠してある一枚の紙を見つけた。
引っ張り出して読むと、明らかに娘の字で書かれている「手紙」のようなものだった。その内容に、母親は絶句した。
「アマリア病院様。
栗原先生、桑名先生。
きなこの治療を、どうぞよろしくお願いします。どんなにお金がかかっても、必ず治療費はお支払いします。大人になって自分のお金が稼げるようになったら、命を懸けて、一生をかけて、お支払いします。お金の為ならなんでもします。ここにお約束します。ですから、きなこをどうか助けてください。
一生有効。
支払い約束書 真樹彩芽 2023年4月20日」
「きなこ!」
まる一週間ぶりに見る愛犬は、アマリア動物病院の裏手にある院長の自宅にいた。見たところすっかり元気がよくなって、毛艶もよく、ひゃんひゃん鳴きながら彩芽に飛びついてくる。
「あはは、だめだよ、うれションしちゃあ」彩芽は興奮のあまりぽたぽたとおしっこをもらすきなこを抱き上げて、アルコール綿で床を拭いた。犬用ベッドと、トイレ、おもちゃ。日当たりのいい、いかにも居心地のよさそうな部屋の中で、きなこはすっかり元気な様子で彩芽の顔じゅうをぺろぺろと嘗めた。
「お口を見てごらん」
院長に言われて、きなこの口の中を見てみると、なんと、腫れあがった歯肉に埋まって異臭を放っていた口の中が、奇跡のようにすっかり元通りになっていた。つやつやとした歯ぐきから延びる、真っ白で健康な歯、色つやのいい舌。
「うわあ! 治ってる、ホントにすっかり元通りに治ってる!先生、すごい!ありがとうございます!」
「連絡が遅れてすまなかったね。あれからいろいろと予定が変わってね、桑名君がこのまま一気に治すというんだ。むしろ進行してるから急いだほうがいいって」
「っていうことは、きなこは……」
「実は扁平上皮癌だった。難しい病気だ。あんなことは、彼にしかできない。普通は長い時間をかけて治していくんだけど、きなこちゃんは僕が引き受けますと言って、ここのところ付きっ切りで治療に当たってた。かなり特殊な方法なんだが、その無理がたたってね、今体調を崩してる」
「……桑名先生って、普通の人じゃないんですか? 超能力者、みたいな?」
ここは不可能を可能にする場所だ。あの自信に満ちた言葉を思い出しながら、彩芽は聞いた。
しばらく戸惑ったのち、院長は口を開いた。
「実は彼、桑名海里くんは僕の甥っ子でね。僕の娘とは小学校が同じだった」
「甥っ子……」
「結構娘と仲が良くてね。僕の家に遊びに来ることも多かった。娘はカイ兄ちゃん、と呼んでなついてたな。あれは、カイ兄ちゃん……桑名くんが12で、娘のありすが10だったかな。娘が柿の木から落ちてね。額に腕、足と、たくさんの切り傷から流血して、大泣きしてた。それから、失神したんだ」
「え、それで?」
「妻が、救急車呼ばなきゃ、スマホスマホはどこ、とあたふた家に入った。あいつは娘の額に額をつけて、全身を抱きしめると、一つ一つの傷に触れていった。そうしたら、信じられないことが起きたんだよ。
目の前で、まず出血が次々止まり、傷がすうっと消えていくんだ。頭のたんこぶもみるみる平らになって、娘は目をぱちぱちさせて言ったんだ。
わたし今、茶色い犬に額を嘗められてたわ。とっても優しい犬。あの犬は、どこに行ったの? って」
「犬……」
「傷は治ったけど頭をやられたかな、と僕は思った。そしたら海里くんが、きみは短い夢を見たんだよ、と言ったんだ」
「……」
「あとで、お前、以前からその、こんなことができたのか、と海里に聞いたら、怪我した動物相手にはやったことがあるけど、人間相手は初めてだと、こういうんだ。
どうもこの子は何かの能力を持っているようだと思って、手を握らせてもらったら、なんていうんだろう、指先が熱くて、何かじんじんしたものが流れてくるんだ。試しに額に手を当ててみたら38度以上はありそうな熱を感じた。病気じゃないけど、こういうことやるといつもこうなる、と言って、あいつはそのあと部屋でしばらく横になってた」
「あの、桑名……海里先生のお父さんやお母さんは、その能力、知ってたんですか?」
「ご両親は、というかまあ僕の姉になるんだけど特に母親は、そんなことに興味がないというかとにかく教育熱心でね。父親が開業医だったから、海里も医者にするのよと言って、小学校低学年のころから進学塾に通わせてた。部活も友達との遊びも全部禁止。家庭教師もつけてね。自分の時間がなくて、見てて可哀相だったよ」
「そうなんだ……。でも、今は院長先生の、あの、動物病院のお医者さんやってる叔父さんの助手…… て、ことになってますよね?」
「そこはまあいろいろあって、結局大学受験を境に母親と大喧嘩になってね。医者になんかなりたくないんだって主張し始めて。で結局、僕のところに転がり込んできたわけさ。というか、半家出状態だったんで、僕があいつの能力にちょっと賭けてみようと思って、助手という形で雇い入れたんだ。もともと僕は姉とは仲がよくなかったんであいつと母親は絶縁状態。獣医の勉強なんてしてないから知識も資格もない。だから表向きは助手。でも実際は……」
「……」彩芽はきなこを抱きしめた。
「ここからの話は絶対秘密だよ。正直、まともに治療して完治する扁平上皮癌は少ない。猫は特にそうだ。僕が結局得意になったのは、安楽死。それを見ていられなくて、あいつは自分から言いだした。
もう助からないと思った子がいたら、僕に任せてくれませんか。治療は方法がわからないのでできないけど、触るだけです。でも、何とかなる気がするんです。
まさかと思ったさ。彼に任せたのは主に治療の手立てのない、進行した悪性腫瘍の子たちだ、ほかの病気の治療はちゃんと僕がやった。だが、どこの病院でもお手上げだった悪性がんを、あいつは触れ続けるだけで次々に治していったんだ。この僕の目の前でね」
「すごい……」
「そのころ周囲に動物病院がいくつかできて、最新の医療機器をそろえて、患者はそっちへ流れて行った。こっちはそんな新品をそろえる元手がない。だが、うちの病院でだけ、悪性の腫瘍が治るといううわさが広まって、僕は……」
うつむき加減になった院長の手を、きなこがぺろぺろと嘗めた。
「あいつを利用した。肩書はあくまで助手、治しているのは院長である僕。そういうことになっていた。ここでしかできない治療、ここでしか起きない奇跡。噂は広まって、遠方からもどんどん患者が来るようになり、僕は、当然のように…… 治療費を、吊り上げて行った。それでもいくらでも患者は来るからね」
院長は彩芽から目をそらした。
「それでも、みんな感謝するんだ。顔が崩れていって何も食べられなくなっていく猫や犬が、日を追うごとに、どんどん元通りになっていく。完治するころには海里は力を使い果たして寝たきりになって、飼い主はもう飛び上がるようにして喜んでた。そして僕のもとには金が入り続けた。ひどい医者だろう」
「でも、でも、桑名先生のとこにも、お金はちゃんとあげたんでしょ?」
「そりゃ払ったさ。そこらの一流企業のサラリーマンなんて比にならないぐらいだ。でも、わかるだろう。僕はもうあいつの目を、まともに見られないんだよ」
「……」彩芽は、きなこの垂れた耳をもて遊びながら言った。
「別に、悪いことしてるわけじゃないし。きなこも、治してもらったし。ここにたどり着かなかったら、今頃きなこのほおずきは、消えてた」
「ほおずき?」
「あ、わたし語で、いのちのこと。それにわたしにも、人に言えないことはいっぱい、ある。院長先生は、秘密だよって言って正直にお話ししてくれたけど、わたしも誰にも言えないことしてるんだ」
「それは、人に迷惑をかけるようなことかな?」 院長先生は、探るような眼で聞いてきた。
「誰も迷惑しない。ただ、誰も助けてくれないから、きなこの命を助けるために、お金がいったの。どうしても」
「お年玉をためた、あのお金のこと?」
「お年玉なんてたいていすぐに使っちゃってたよ」
「え、じゃあ……」
「先生、わたしね、桑名先生に会いたい。会ってお礼言いたい」唐突に、彩芽は言った。
「そうか。残念だけど彼は今この家にはいないよ」
「じゃあどこにいるの」
「彼のお気に入りの銀杏の木の下だ。治療の後精魂尽き果てるといつも、その木下のベンチに転がってる」
「じゃあ、お礼とお見舞いに行かなきゃ。院長先生、一緒に行ってくれる?」
「言ったろう、最近僕は彼を見るのがつらいんだ。丁寧な地図を書いてあげるから、行っといで。ここのすぐ近くの公園の、一番高い銀杏の木の下だよ」
地図をもらうと、きなこにリードをつけて、彩芽は元気になった愛犬と家を飛び出した。