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ほおずき譚  作者: pinkmint
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金の星

 

 少女が帰っていくと、キュンキュン鳴き声を上げ続けるきなこの口の中を、もう一度丁寧に栗原は見た。歯茎が盛り上がり、歯肉はいくつかの肉の塊のつながりになっている。その間から、ピンク色の膿がにじんでいる。腫れは、喉の奥の方まで続いていた。


「また、随分面倒な状態の子を引き受けたもんだな。若い犬の腫瘍は進行が速いぞ。正直、どうするつもりなんだ。小学生に書かせた預かり証だって、考えようによっては結構やっかいだぞ」頭をかきながら、院長は言った。

「そう思うなら捨てたらいいですよ。とにかくやるだけやってみます」

「まあ、ここはほんとの話、きみがいて成り立ってる病院だからな。実質的に、きみが院長と言っていい」床を蹴りながら、院長は自嘲めいた口調で言った。

「院長はあくまで栗原先生で、僕は助手の居候ですよ」

「その居候がふらりとやってくるまで、マジな話ここは周辺の動物病院との競合に負けて閑古鳥だったからな。情けない話だが、きみには大恩がある」

「家出してふらふらしてるところを拾ってもらったこちらこそ、感謝しかないですよ」

「とにかくその犬は抗がん剤や放射線でどうにかなる段階でもなさそうだし病巣部分切除も困難そうだから、きみに任せるよ。しかし、体は持つのか」

「まず、基本的な検査をしてからこの子には点滴をつないで栄養補給して」

「きみの体のほうだよ。これだけ進行してる犬の皮膚がんを、本気で治す気だろ、短時間で」

「……」

「これは勘だけど、随分あの子に肩入れしているように見えたんだがな。正直な話、あの子が言っているように、以前に一度、あの子に会ったことがあるんじゃないのか?」


 院長がきなこの足に点滴をつなぐと、桑名は診察台に横たわるきなこの額と自分の額をくっつけた。


「……おい、海里。何してるんだ」

「うん。間違いないな。この子も言ってる。あの時の子犬だ、間違いない」

「……やっぱり、何か知ってるんだな」

「叔父さんには、後で話します」


 診察室の奥の方で入院中の犬たちの鳴き声が聞こえてくる。院長は肩をすくめると、入院スペースに向かった。桑名はきなこの口の横からシリンジで液体の餌を給餌すると、きなこは時間をかけて苦しそうに飲み下した。桑名はその鼻面をなでながら、優しい声で話しかけた。


「生きるんだぞ。いいか、きみは僕が生かしてやる。なんでこんなものが身についたのかしらないけど、僕にはそれができるんだ。多分これをするために、僕は生まれてきたのかもしれない。この手をもって」

 広げた両手に、ふわりふわりと幻の雪のようなものが降ってきた。


 あの日。半年ほど前になるだろうか。

 冷たいみぞれ混じりの雨が降る道を、桑名はフルフェイスのヘルメットを着けてバイクで走っていた。ぱちぱちと当たるみぞれで、前が見にくい。その視界に、車道に飛び出す、ランドセルの少女の姿が飛び込んできた。

「危ない!」

 慌ててブレーキをかけ、車道の左に寄せた。

 少女はなおも走る。それも道の真ん中を。何か叫びながら、必死の勢いで傘を手から飛ばし、走り続ける。クラクションを鳴らして、行きかう車が蛇行する。

「待って! 待って!」

 叫び声が聞こえた。誰かに置いて行かれたのか? そのとき少女の5メートルほど先に、茶色い子犬が短い脚で走っているのが見えた。桑名はバイクから降りて全速力で少女を追いかけると、腕をつかみ、

「きみが轢かれる」と短く言うと「任せて」と少女を道路の脇に立たせ、子犬にすぐさま追いついて、抱き上げた。体は冷たい雨とみぞれで、びしょびしょだ。子犬はクーンクン、ワンワンキャンキャンと悲しそうな悲鳴を上げている。

「ああよかった。ああ、よかった。お兄さん、ありがとう」

 少女は駆け寄って、カフェオレ色のミニチュアダックスを桑名の手から抱き取った。

「きみの犬?」

「ううん」少女は子犬の体を、持っていたハンカチで拭きながら答えた。

「学校から帰っていたらね、目の前を通り過ぎた白い車の窓から、いきなり、その子が放り出されたの。少しスピード落としてたから、けがはしてないと思う。そのまま車は走って行っちゃったの」

「うわ、そりゃひどいなあ」

「この子キャンキャン鳴きながら、ものすごく一生懸命、その車を追いかけたの。車がほとんど見えなくなっても、道の真ん中を走るのをやめなかったの。おいていかないでって、鳴いてたの。でもこの子、足が短いから」

「それできみが追いかけたんだね」

「もう、車に轢かれそうだったから」

「きみも危なかったよ」

「夢中で、何も考えてなかったから。お兄さん、本当にありがとう」

 桑名は道の端に放りっぱなしの、ピンクの花柄のビニール傘を拾いに行った。そして、犬と少女に差し掛けた。少女は震える子犬に語り掛けていた。

「可哀そうに、ママに置いて行かれたんだね。悲しいね。でも、ママはいなくても、ここにわたしがいるよ。守ってあげるよ」

「その犬、どうするの。見た感じではまだ二か月ぐらいかな。家では、飼ってくれそうなの?」

「連れて帰って、お願いする。お小遣いいらないからって。お手伝い何でもするからって。それに、おじさ… お父さんは、お酒のみの酔っぱらいだけど、犬だけは好きだって言ってたから」

「ふうん。うまくいくといいね」

「絶対、なんとかする。わたしがちゃんと、なんとかする」

「そうか。幸せを祈ってるよ、ワン公」桑名は子犬の濡れた頭に手を置いた。

 そうして、このままでいいのかなと思いながらも、犬を抱いて手を振る少女の背中を見送ったのだった。


 あの子を病院前で初めて見た時、あの時の少女だとすぐに分かった。だが、彼女の家の事情は自分が思っていたほど平穏なものではなさそうだ。おまけにあの深刻な病気、ほかの患者の順番と治療費の問題……

 桑名は改めて、自分がとっさに負った荷物の重さを思い返していた。

 情のかけ過ぎと言えばその通り、不公平と言われてもその通りだ。叔父は金儲けのために動物病院を経営してる、そして非常識ともいえる高い診療代に居候の自分は口を出せる立場にない。あの子が子犬を自分の判断で、料金の高い動物病院に預けてしまったことは、じきに、貧しい家の親の知るところとなるだろう……



「今何時だと思ってるの。もう夜の九時近いわよ、散歩に行くって書いてあったけどどこまで行ってたの」

 スーパーのパート帰りの母は、夜の仕事に出るための化粧をしながら彩芽を責めた。

 長い髪を整え丁寧に化粧をすると、母は年齢よりは若く、ドキリとするほど妖艶に見える。だがこのところ、過労のせいか痩せ気味で、高い鼻の横には薄くほうれい線ができていた。母はそれを隠すように、念入りにコンシーラーを塗り込んだ。

「あの、あのね、きなこのお散歩に行ってたらね、途中で大きな犬に吠えられて、きなこが逃げちゃったの。今まであちこち探していたんだけど、見つからなかったの」彩芽は手ぶり身振りを加えながら懸命に言い訳した。

「あんた、あのへんな病気にかかってる犬を散歩なんかに連れて行ったの。だいぶ弱ってたのに」

「外に出た方が、気分も変わるかと思って」

 そこで少女は泣きまねを始めた。

「どうしても見つからないの。具合悪いのに、どうしたらいいんだろう、ママ」

「あんたが悪いのよ。あたし忙しいんだから、もう出かけるからね。夕食は袋ラーメンと買ってきた餃子があるから誠司ちゃんと食べて」

 背後でビールを飲んでいた禿げ頭の中年男性が、赤い顔をして言った。

「まあ犬は猫と違って帰巣本能があるからそのうち帰ってくるよ。でもありゃあ悪い病気にかかってたからな、そこは運だな」そして、ビニール袋の中から焼酎の大きなボトルを取り出した。

「さて、餃子のお供はこれだ」

 あんまり飲まれるの嫌だな、今夜もお母さん遅いのに、と彩芽は身を縮めるようにして部屋の隅に座った。

「おい、そこで縮まってないでラーメンぐらい作れよな」

「あんた、あたしがいないからって小学生に手を出すんじゃないわよ」

「馬鹿にすんねい、しょっちゅう同じこと言いやがって。おりゃ大人の女しか相手にしねえよ。おい嬢ちゃん、ちゃっちゃと鍋をあっためな」

「ちょっと待ってて」

 彩芽は用心深く、今日書いたあの「支払い約束書」を、自分の部屋の引き出しにそっと入れた。こんなものが二人の目に触れたら、大変なことになる。

「犬はな、まあ帰ってこなくてもあきらめな。動物病院なんてところに連れてくと人間の十倍はぼったくりやがる。もともと野良なら野良で死ぬのが自然てもんだ」

 

 母はある夜半突然この男と二人で泥酔してもつれるようにして帰ってきて、「お父さんと呼びなさい、今日から」と宣言した。それが、去年の秋。

「よっ」とだけ言って男はそのまま母の寝室に転がり込み、そのまま二人ともいびきをかいて寝こけた。

 母が言うには、仕事先のキャバレーのなじみ客で、亡くなった両親が土地持ちの資産家で、広いがゴミだらけの家でジョロウグモや小バエを相手に酒ばかり飲んでいる「金持ちの浮浪者みたいな奴よ」ということだった。

「だいじょぶよ、あんたの元オヤジみたいに、しゃべる代わりに殴ったりはしないただののんべのおっさんだから」

 少女は二年前、父親と死別していた。壁を拳で殴って穴をあけたり、包丁を持ち出しては母親の髪をつかんで暴れるのを、座布団を頭に乗せて震えながら眺める日々が終わったのが、彩芽にはただ嬉しかった。

 たばこをふかしては咳き込み、恨み言ばかりぶつくさ言っていた母が、それでもまた男を連れ込んだのが少女には驚きだった。母は、あんなに理屈の通じない乱暴な生き物がまだ好きなのだろうか。たまに「ほれ、小遣い」と母に紙袋を渡してくれる、あれだけのためにまた危険を冒しておじさんを招き入れたのだろうか。多分そうだろう、そうとしか思えない。

 それでも、思い出の元父親は、少女が幼いころにはまだ優しかった。肩車をして遊園地でソフトクリームを買ってくれたし、海で一緒に砂山を作ってくれた。

 だが、しきりに頭痛を訴えては仕事を休むようになってから、やたら不機嫌になり、母がいくら勧めても病院にはいかなかった。

「死ぬ時が来たら死ぬ、それだけだ」が口癖だったが、

「それでも、一応病院に行って検査を……」と母が言うだけで

「やかましい、口答えするな!」と机の上の皿をみんな薙ぎ払うのだ。

「お父さん昔はあんなじゃなかったわ、ただ事じゃないわ。精神の病気かも」

 あざだらけの母が本気で病院に連れて行く算段をし始めたころ、父はついに倒れ、救急車で病院に運ばれたのだ。

 診断の結果、進行した脳腫瘍だった。

 担当医はMRI画像を見ながら淡々と言った。

「ここは手術でとれる場所ではありません。放射線療法と抗がん剤治療しかないですね。あと、性格が変わったとのことですが、脳腫瘍の影響で人格が変わったようになるのは珍しいことじゃないんです」

「病気の影響…… なんですか」母はうめくようにつぶやいて、顔を覆った。

 病室の父は、鎮静剤を打たれて、静かに窓の方を向いて目を薄く開けていた。

「いろいろと、……すまなかったな」

 それきり、もうほとんど、口を利かなくなった。

 泣いている母を見るのがつらくて、彩芽はあまり病院に行かなくなった。

 優しかった父。母に物を投げつける父。

 どちらの風景も飲み込みがたくて、もう考えるのをやめた。

 だから、

「おとうさん、死んだって」

 と病院からの電話を受けた母が淡々と言ったとき、ああ、これでもうどちらも苦しまなくて済むんだと、それだけ思った。

 なのに……


「おい嬢ちゃんよ、彩芽ちゃんよ。母ちゃん出かけちゃって寂しいだろ、こっち来て一緒に飲め」

 母親が金目当てに引っ張り込んだ風采の上がらない禿オヤジは、とにかく飲んべえで、彩芽と一緒に酒を飲みたがった。それはもう、連れ込んだ翌日からだ。そして、今日もまた。

「そんなの、飲めない」

 うんざりしながら彩芽が言うと、

「焼酎だって牛乳入れりゃあ子供でも飲めらあ」

 無茶を言って、牛乳で薄めた焼酎を強引に差し出す。

「酒の相手をしてくれたらな、おじちゃんの女遍歴、教えてやろ。ふへへ」

「そんなの聞きたくないよ」

「じゃあな、俺の実家の開かずの金庫の話、聞きたくないか。どうやらすげえお宝が入ってるらしいぜ」

「そっちもどうでもいい」

 この酔っぱらいはお酒が入るとまともなことをしゃべったためしがない。相手するだけ無駄だ。

「つまんねえ娘だなあ。じゃあ死にかけの犬のことでも考えてな」

「きなこのこと、そういう風に言わないで!」

「なんだよ、いつも一人ぼっちにさせてんだから犬ぐらい飼ったれよ、て言ってやったのは俺だぞ」

「……」

 おっさんはくるりと背を向けると、彩芽がレンチンした餃子を食べながら、野坂昭如の「黒の舟歌」を歌い始めた。

 ああ、この人も寂しいんだな。そう思いながら、彩芽は変な味の白濁した飲み物に口をつけた。

 生きている限り人はみな寂しい、それはなんとなくわかる。ママも、わたしも。

 かあっとのどが熱くなった。

 ふと、いつか聞いた、犬の詩が頭に思い浮かんだ。

 あれは、いつ…… そうだ、ママに聞いたんだった。ママがまだ、普通のお母さんだったころ。パパがまだ優しい普通の会社員だったころ。


「その詩集、なに?」

「セルゲイ・エセ―ニンていう、ロシアの詩人の詩集よ」

 古びた本のページに母は時々目を落としていた。そしてときどき、目を赤くしていた。

「ふうん。好きなの?」

「違うの、忘れられない詩があってね、それを読むと、どうしても昔の悲しい出来事を思い出しちゃって」

「悲しいこと? じゃ読まなきゃいいじゃない」

「いいえ、忘れたくないのよ。忘れちゃいけないのよ」

 何を忘れてはいけないんだろう。彩芽は横から覗き込んだ。


「犬のうた セルゲイ・エセ―ニン」(※)


 むしろの列が光る

 はだか麦の物置小屋で

 牝犬が明け方七匹の仔を産んだ

 七匹の赤毛の仔を


 牝犬は終日子犬を可愛がっていた

 体を嘗めまわして産毛を整えてやった

 あたたかい腹の下で

 溶けかけの雪が流れた

 

 夕方六羽の鶏がとやにつくころ

 むずかしい顔をして

 この家のあるじが現れた

 七匹全部を袋に詰めた


 牝犬はどうやらあとを追いかけ

 雪だまりのふちにそって走っていった

 凍らなかった川の水が

 いつまでもいつまでも揺らいでいた


 わき腹の汗を嘗め嘗め

 牝犬がとぼとぼ帰りかけたとき

 百姓家のうえにかかる月が

 わが仔の一つにおもわれた


 あわれな声で哭きながら

 牝犬はあおい虚空を見上げていた

 ほそい月が滑りおりて

 野の丘のかげに隠れた


 何かくれるのかと思ったら

 人間はわらって石を投げた

 あのときの虚ろな音がして、牝犬の目から

 金の星が雪に落ちた


「……」

 彩芽は涙を隠そうと手の甲で眼のふちをごしごしと拭いた。

「ママも高知にいたころ、犬を飼ってたのよ。雑種犬だと思う。でもその子妊娠しちゃって。あとは、まあ、この詩みたいなものよ。田舎だし、そういう時代だった。よくなついててかわいい子だったのに、生まれた子五匹みんな川に流されて。わたし泣きながら、やめてやめてと後を追ったわ、くそオヤジのね。ママ犬は仔犬を全部川に捨てられてから頭がおかしくなってご飯食べなくなって、夜も昼も鳴き続けて、一週間で死んだわ」


「ママ犬の名前なんていうの」

「メリーよ」

「メリーと子どもたちは、きっと今でも天国で楽しく遊んでるよ」


 母親は頬に涙をこぼす彩芽の頭に手を置いてふっと笑った。


「一匹はね、わたしが川に入ってそれこそ命がけで助けたのよ。仔犬を川に流したオヤジもそれで折れて、まあ一匹なら飼ってもいいって。

 わたしが助けたのはオス犬でね、カイと名付けて、わたしの青春自時代の親友になってくれたの。登校も、下校も一緒。最後は、病気で死んじゃったけど。ひととき、わたしの人生の宝だった。

 生きてきてあれ以上、泣いたことはないわ」

「わたし、人間嫌い」

「そうね。人間なんてろくなもんじゃないわ、忘れちゃいけないのは、そのこと」

 母親は吐き捨てるように言った。



(※)「犬のうた」 セルゲイ・エセ―ニン 堀内弘子訳 より引用

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― 新着の感想 ―
[一言] たしかにやばい大人の人たち(四天王だ)。演歌(ご指定ver.で聞いてきました)とロシア詩、火花を散らす如し。ドキドキです
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