当て馬令嬢は正式な手順を踏んで、結婚したい。
誤字報告ありがとうございます。修正しました。
「鬱陶しいことこの上ないですわ!!」
カチャリと、紅茶が淹れられたティーカップを音を立てて置いた。普段であれば、品よく音も立てずに置く。それが礼儀正しい、貞淑な令嬢の姿と言えよう。しかしながら、彼女にはそんな余裕がなかった。彼女が平民で、大の男であったならば、自暴自棄になって酒を飲んで管を巻いていただろう。
「荒れているな」
もぐもぐと菓子を頬張る彼女を、向かい側に座る従兄が呆れた様子で眺めている。彼女はそんな従兄をギロリと睨みつけた。
「これが落ち着いていられますか!」
侍女を含めた使用人は全員下がらせている。従兄妹同士とはいえ、年頃の男女が二人きりなど、良からぬ噂が立ちかねない。が、彼女はどうでもいいと半ば自棄を起こしていた。どうせ不名誉な噂はとっくに流れているのだからと。
「お従兄様には分からないのですわ! わたくしの気持ちなんて!」
「確かに分からないが」
落ち着け、自棄を起こしても良いことないぞと、正論を言ってくる従兄に、彼女は腹を立てていた。
「そこは嘘でも『分かるよ』とか『辛いね』とか仰るべきですわ!」
「嘘言われても虚しいだけだろうが」
「お従兄様は誠実過ぎますわ!」
「貶してるのか? それって」
「うう。だって、だって」
ぽろぽろと涙を溢す彼女に、従兄は慌てた様子でハンカチを渡してきた。
「落ち着け。と言うか、紅茶や菓子に酒は入ってないんだよな?」
「入っていませんわ。一滴たりとも」
「泣き上戸みたいな感情の起伏の激しさだな」
彼女は従兄に貸してもらったハンカチで目元を拭いた。不器用な優しさに、また涙が溢れてくる。
「お従兄様、わたくしの不名誉な噂をご存知?」
「知ってる。……『当て馬令嬢』だろ」
「そう、そうですわ。わたくし、ちっとも納得できませんの」
彼女は過去、三人もの婚約者がいた。時期も異なっているものの、いずれも家と家の結びつきを強固にする為に結ばれた政略的なもの。彼女は別段不満もなく、婚約者側もそうなのだと思い込んでいた。しかし、現実は違った。
「おかしいではありませんか? わたくしという婚約者がありながら、他の女に現を抜かすなんて!」
渡したハンカチを丁寧に畳んだ後、そっとテーブルの上に置いた。多分、後日洗った状態で、菓子付きで返すつもりなのだろう。
「その上、不貞を犯していながら、婚約者はお相手と幸せになっているのですよ? 三組とも全員!」
「ああ、社交界で結構有名だな」
――そう。彼女と婚約者になった男は全員、浮気相手がいることが後になって発覚したのだ。何でも真実の愛だとかなんとか。それを証明するかの如く、身分の低い恋人が懸命に自分の価値を高めた末に、反対していた全員を納得させた上で結婚を果たした為、社交界では語り草になっている。無論、彼女の不名誉の噂もそこからきている。
「確かにお相手がいると知ったら、やんわりと苦言は呈しましたけれど」
拭った筈の涙が流れそうになる。
「婚約を維持した状態で、お相手と愛を育むなんて不誠実そのものではありませんこと?」
いわゆる、現状維持と言うやつだ。
「そんな状態で真実の愛だなんて……わたくしの方がおかしいのかしら?」
そんな状態に置かれた彼女は三組の婚約者達に散々な目に遭わされた。婚約者が浮気相手の気持ちを確かめる為に、彼女に熱烈な視線を浴びせた上で、浮気相手が嫉妬すれば、
『浮気なんてするわけないだろう? 僕の心は君のものさ』
などと嬉しそうに笑いながら、浮気相手が喜んだ上で安心すると言ったことすらあった。ちなみに、目の前には彼女がいる状態で、二人の世界を構築すると言う悲惨な状況を生んでいた。二人目と三人目の婚約者も似たようなものだった為、彼女はいつしか『当て馬令嬢』と呼ばれるようになった。
「……あの方達は酷いですわ」
ポツリと、彼女は呟いた。
「恋は盲目と言いますけれど、程度と言うものを弁えて下さいませんと。婚約が成立した途端、お相手がいるなんて知らされた身にもなってほしいですわ。それどころか、わたくしをまるで物語における恋敵のような扱いをされて、わたくし……」
そんなつもりはなかったのに。いると知っていれば、婚約を結ばないよう、お父様に働きかけましたのに。
項垂れる彼女に何と言葉を返せばいいのか、従兄は戸惑った。彼女は金髪碧眼、つり目の美少女だ。そこにいるだけで場が華やかな雰囲気に変わる。おまけに、本人の口調も相まって、本当に悪役がその場に登場したかのような姿をしていた。有り体に言えば、良くも悪くも目立ってしまう。それが彼女だった。
彼女の婚約者は三人共、身分違いの恋人がいることを上手く隠していた。評判も決して悪いものではなかった。だからこそ、高位貴族の令嬢である彼女との婚約が結ばれたのだから。彼らにとって彼女との婚約はあくまで家が勝手に決めたものであり、自分の意思は反映されていないと言う考え方らしい。貴族の結婚は大抵当事者の意思が反映されないものだが、残念ながら評判が良かった筈の彼らにはこの手の常識は通用しなかった。それどころか、婚約者の存在を恋のスパイスとしか考えていない節があった。
「わたくし、多くは望みませんの」
ティーカップに淹れてある紅茶に映る自分自身を見つめながら、彼女は言った。
「幼い頃は物語に出てくる王子様とお姫様の『真実の愛』に憧れていましたけれど。あの方達の姿を見て、すっかり冷めてしまいましたわ」
あんな風に他人を巻き込んで、自分達の世界に入り浸るのが『真実の愛』ならば、それはとてもはた迷惑極まりないものに過ぎないのではないか。トラウマになったと語る彼女は従兄の相槌がないのも構わずに話し続けた。
「婚約中に浮気をされるのは願い下げですけれど、愛がなければ嫌だと仰るのならば、他所で隠れて愛人を作ればいいのです。代わりにわたくしを妻として扱い、家の為に子を儲け、仕事を放棄されない方でしたら、」
『真実の愛』に溺れないでいられる男性であれば、
「正式な手続きを踏んだ上で、婚姻を結びたいと考えていますわ」
「……流石に基準が低すぎないか?」
ようやく口を開いた従兄は眉を寄せて言ってくる。
「自暴自棄になりすぎだ。そんなんだと、また変な男が寄ってくるぞ」
「ですが、そんな考えでなければ『婚約者』と会うことすら億劫で仕方がないのです」
先日、父に呼び出された彼女は、『四人目の婚約者を見つけた』と言われたばかりだった。三人目の元婚約者と婚約解消したのが、せいぜい数ヶ月にも満たない程度。無論、彼女自身、貴族の娘として結婚は避けられるものではないと考えている。しかし、不名誉な噂が付き纏う彼女に、まともな縁談が来るとは考えにくい。結果、今日屋敷に訪れていた従兄を捕まえて、愚痴を溢していたのである。
「近々会う予定があるそうなのですが。お従兄様、わたくしの四人目の婚約者について何かご存知?」
「……は?」
何故、そんなことを聞くのだろうか。そんな声が聞かずとも窺える顔をしている従兄に、彼女は居心地が悪そうな様子だった。
「何も聞かされていないのか?」
「いえ、その。お母様や家庭教師には叱られるとは思うのですが、」
四人目の婚約者について、父親から聞いたものの、殆ど耳に入ってこなかったらしい。
「今更、こんなことを尋ねるのもどうかは思いまして」
「言うに言えなかったと」
「その通りですわ」
「成る程な……」
重症だなと誰に言うでもなく呟くと、従兄はしばらくの間黙り込んでいた。と言っても、数分にも満たない時間だった。それでも、今の彼女を困惑させるには十分過ぎた。
「あの、お従兄様。無理を言ってしまい、もうしわけ……」
「……だ」
「え?」
申し訳ありませんと謝ろうとした彼女は、従兄を見た。
「だから、四人目の婚約者は目の前にいると言っているんだ」
「……え?」
彼女の目の前にいるのは、赤い顔をした従兄だった。
「……お従兄様?」
「……」
「お従兄様がわたくしの四人目の婚約者?」
「……そうなるな」
彼女から目を逸らしたまま、従兄は頷いた。
「え、ですが、お従兄様、婚約者の方がいらっしゃるのでは?」
「いない。……三男だし、婿養子に取りたがる家もいなかったからな。自由にさせてもらっている」
今回、従兄が屋敷に訪れたのは彼女の四人目の婚約者として、形式的な挨拶に向かう為だった。年齢的に釣り合いも取れる上、婚約者もおらず、素性や人柄も把握済みで、彼女との関係も悪くないことから、縁談が舞い込んできたらしい。
「まさか知らないとは思わなかったが」
若干気まずそうな従兄に、彼女は『お従兄様』と呼んだ。
「『自由にさせてもらっていた』と仰っていましたけれど、」
ティーカップに触れる手が震えた。
「それはつまり、『真実の愛』を貫いていたと言うことでは、」
「違う」
従兄は即座に断言した。
「自由にと言ったところで、好き勝手にしていたわけじゃない」
三男とはいえ、貴族としての立ち居振舞いは分かっているつもりだ。やるべきこともそれなりにあった。
「あくまで『貴族にしては』が付くんだ。他所で女を作る暇なんかあるわけないだろ」
「ですが、わたくしの元婚約者達は」
「あれは立ち回り方が上手かっただけだ。あそこまで器用なタチでもない」
なりたいとも思わないけどなと、肩をすくめる従兄に、彼女は何と返せばいいかと悩んだ。そんな彼女の姿を見て、従兄は言った。
「……急に信じろなんて言わないからな」
「お従兄様?」
「必要なら、『四人目の婚約者』の素性や経歴、人柄を調べてもらえ。あ、気付かれないように頼む。勘付かれたら厄介だからな」
「お、お従兄様?」
四人目の婚約者が何故か自分の素性調査を勧めてくる状況に、彼女は混乱した。
「そんなことをしなくとも、お従兄様の人柄は知っているつもりです」
「けど、知らないことも結構多いだろ?」
「それは、」
従兄妹同士とはいえ、疎遠になっていた時期もあるぐらいだ。知らない部分も多い。
「……面と向かって、信頼関係を構築するのも悪くないけどな」
彼女の考えを見透かした様子で、従兄が口を開いた。
「『婚約者』に対する不信感が強いままだったら、不安が付き纏って仕方がないだろ」
そんな状態では信頼関係を築くのも一苦労だと、従兄は言ってのけた。
「本人から聞いた事実よりも、第三者が調べ上げた情報の方が安心感を与えることだってあるんだ。……信頼関係を築くのは、その後だっていいだろ」
「お従兄様……」
あまりにも不器用な優しさに、また涙が溢れそうになる。それをぐっとこらえた。
「……分かりました。早速、調べさせて頂きますわ」
「ああ、頼む」
「ですが、お従兄様は不快ではありませんこと?」
「自分で言い出したんだから、その辺は心配しなくていい。それに、慣れてる」
「? あの、慣れているとは一体……?」
「ああ。家に居ようが外に出ようが、一日中従者が何人も張り付いていて、その日の動向を家に報告しているからな」
三男であっても、何かあれば家に影響が出かねない為、監視と護衛、世話役も兼ねて従者が従っているらしい。
「厳格な叔父様らしいですわ」
「ああ、そうだな。だから、気にしなくていい」
「……ありがとうございます、お従兄様」
「礼を言われるようなことは何も言っていない」
「ふふ」
どこまでも不器用な従兄に、思わず微笑んでしまう。紅茶に口をつけようとした際、空になっているのに気が付いた。呼び鈴を鳴らし、使用人に紅茶の代わりを持ってくるよう命じた。
「ああ、そうだ」
タイミングを見計らったかのように、従兄は言葉を発した。
「今度、屋敷の外に行ってみないか?」
「え、外に?」
「ああ。最近暖かくなってきたし、散歩するにも丁度いいところを知っているんだが。どうする? 行くか?」
「……」
ここしばらくの間、屋敷の外に出ていない。理由は三人の婚約者との間にあった出来事、社交界に流れている不名誉な噂が原因で、すっかり茶会やパーティーに出席しなくなり、外に出るのも控えるようになっていた。従兄も当然気付いているのだろう。
従兄の気遣いを嬉しく思う。思うのだが、
「……」
「やっぱり嫌か?」
「いえ、お従兄様のお誘いが嫌と言うわけではないのです。ですが、まだわたくしは『当て馬令嬢』などと世間で言われているかと思うと……」
気が重くなってしまい、彼女は俯いた。
「ああ、そのことだが」
すると、従兄は彼女に言った。
「例の元婚約者達、妻と一緒に住まいを移すらしいぞ」
「え?」
思わず顔を上げると、従兄と目が合った。
曰く、社交界に馴染めない妻を案じた元婚約者達は、当主に願い出た末、妻共々、王都を離れ、別の新居に身を置き、領主とその妻として日々を営むようになるらしい。
「当然、社交界には出入りしなくなる」
そうなれば、貴族達の興味は他に変わっていくのも決して遠くない筈だ。
「そうだったのですね」
正直、どんな反応をしていいやら困ってしまう。
「平民が貴族社会に馴染めないのは理解していたつもりですけれど、」
誰からも祝福される程、努力を重ねていたと言う話を聞いていただけに、
「なんだか拍子抜けしてしまいましたわ」
幼少期から貴族として育った者と、そうでない者を比べるのもおかしな話かもしれないけれど。
「ああ、そうだな」
相槌を打ちながら、従兄は考えを巡らせる。
誰からも納得された上で結婚なんて、土台無理な話だ。確かに貴賤結婚に対して柔軟な考えを持つ者もいるものの、貴族の中には典型的な血統主義、選民思想を抱いている者までいる。加えて、爵位による身分制度が存在している。血が尊かったとしても、爵位がなければ小馬鹿にする者までいるくらいだ。その全員を納得させた上で、祝福を受けるなんて天地がひっくり返ってもできる気がしない。貴族社会に馴染もうとするだけ、立ち居振舞いを変えるだけでは駄目なのだ。
元婚約者達が結婚できたのは、愛の力によるものではなく、単純に家が彼らに見切りを付けただけの話。彼らは高位貴族の娘との婚約を蔑ろにしたのだ。これは両家の名誉に泥を塗ったも同然の行為である。そんな人間をいつまでも置いておく程、貴族社会は甘くはない。見切りを付けたことを納得したと言い換えた上で、貴賤結婚をさせて、頃合いを見計らって、追い出したのではないか。美談にしたのは、これ以上の醜聞沙汰で家名に傷を付けさせない為だと考えられる。
もしくは、本当に貴族社会に馴染めずにいた妻を心配した元婚約者が自ら家を出た可能性もある。
彼らが言うところの『真実の愛』が本物だったらの話だが。
「――お従兄様?」
従兄がハッとした様子で、彼女を見た。
「……ああ、悪い。考えごとをしてた」
「もう、またですの?」
使用人が淹れてくれた紅茶に口を付けた後、彼女はため息を漏らした。従兄は考えごとを始めると、周囲が見えなくなる癖があった。その証拠に、使用人が紅茶を淹れたことにすら気が付いていない様子だった。
「何を考えていたのか知りませんけれど、わたくしの話を聞いて下さいな」
「ああ、分かった。……で、何の話だ?」
「ですから!」
スッと手を差し出した。
「……散歩に連れて行って下さるのでしょう?」
「え、ああ」
先程の誘いを思い出したのか、従兄は瞬きをした。
「もうお忘れになりましたの?」
「行ってくれるのか?」
「お従兄様がこの手を取って下さるのでしたら」
意図を察した従兄が彼女の前に跪き、その手を取った。
「好きだよな、こういうの」
からかいまじりの声に、彼女は努めてすまし顔をしていた。
「日取りはいつにする?」
「……お従兄様とわたくしの予定のすり合わせをした後でよろしいのではなくて?」
「ああ。そういえば、そうだな」
従兄は椅子に腰掛けて、彼女と向き合う。
「予定を教えてくれるか?」
「そうですわね……」
話し合いながら、彼女は久しぶりに気分が上向いていることに気が付いた。
「お従兄様」
「?」
「エスコートはお任せいたしますわ」
きょとんとした後に、すぐに頷いてくれる。
「ああ、分かった」
四人目の婚約者となった従兄の姿があった。