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「ティンキー……」
小さな声だった。もう少し離れていたら気付かない程。でも、確かに私の名前を呼んだ人がいる。
聞かなかった事にして、逃げてしまおう。
勝手口から少し行くと小さな小川があり。ミナはその川縁で、いつも休憩してた。男の声を聞いたのは、座ってすぐ。
振り返らず、とまり樹へ戻るフリをして、建物の角まで行くと、一気に走り出した。
誰だろう。でも、私の名前を知ってた…
裏通りを走り抜け、町外れまで来た時には、すでに息が上がり肩を上下に動かしてこれ以上、走る事は出来ない。
無人の家の壁に凭れかかり、ズルズルと尻が地面に着いて、呼吸を整える。
はぁ。
膝に顔を乗せ、この先、どうすれば良いかを考えるが、何も考えられなかった。
しばらくその場に留まったが、誰も来ない事に安堵し、ゆるゆると立ち上がり。とまり樹へ帰ろうと、角を出たところ。
「逃げるほど……やはり嫌われているんだな」
今にも泣き出しそうな顔で、綺麗な金色の髪は艶が無くなり、切れ長で金色の瞳の下は隈があり。一瞬、誰か分からなかった。
「もしかして、アストラ様?」
早く逃げなければ!そう思い、踵を返したが、
「ティンキー!!お願いだ。一度だけ話を聞いてくれ」
その声が、あまりにも悲しげに聞こえ。私は立ち止まり、彼を振り返る。
「私を捕まえに来たんじゃ無いの?利用しようとして、逃げ出したバケモノを殺しに来たの?」
足が震えて、あの閉じ込められた日々の恐怖が、私の脳裏に甦る。もうイヤだ。あそこに戻りたくない!
「すまない。謝って許してくれなど言わない。だから、少しだけ。俺の話を聞いてくれ」
頭を下げたアストラ様は、とても弱々しく見えてしまい、一度、とまり樹へ戻ってから、話を聞くと約束する。
「ミナちゃん!何かあったの!?」
ハンナさんが、心配して私を見つけると駆け寄ってくれた。私は知り合いに偶然会って、後でその人と話すと伝えると、ハンナさんが一緒に行こうか?と申し出てくれた。
「大丈夫です。ありがとうございます。夕食の支度が終わってから、少し出かけますね」
分かった。と、ハンナさんは夕食の支度後では、遅くなるから今から行っておいでと、送り出してくれた。
「ずいぶん早いけど、ムリさせてしまったか?」
待ち合わせ場所。少し高級なホテルのラウンジで、アストラ様が待っていた。
「遅くなると危ないからと、女将さんから言われて。アストラ様、お話とは何でしょうか?」
話すと決めたけど、やはり足は震えている。簡素なワンピースを着た私は、この場では浮いている。
来るんじゃなかった。俯いてワンピースを握りしめ、唇を噛む。
「ここでは話せない。嫌だろうが、個室がある場所で何か食べてから話そう」
アストラ様が、私へ近付いた。思わず一歩後退り、はっとアストラ様を見れば、悲しそうな顔をして、背を向け歩き出す。
黙ってあとを付いて行くと、この町では有名な高級料理店。入るのを躊躇っていると、アストラ様は黙って私が入るのを待っていた。
覚悟を決めて、店へ入ると個室に案内され料理はすでに頼んでいたようだ。
「ティンキー。無事で良かった」
アストラ様から、最初に出た言葉に私はビックリして顔を上げた。
「許されるとは思っていない。でも、俺はどうしてもティンキーの傍に居たかったんだ」
いつも『私』と言っていたアストラ様が、『俺』と使う事に違和感を感じた。
「私の傍に?だって、祖父母の家ではじめて私たち会ったのですよ?」
まるで昔から知ってたような口振りに戸惑う。
「君は忘れてしまったんだよ。あの夏の日々。俺の手を引いて一緒に湖へ行った事も」
テーブルの上に置いた握りしめた手を見ながら話すアストラ様。あの男の子がアストラ様?
「失礼します」
運んできた料理がテーブルに並ぶ。店員が退室すると、アストラ様から、食べよう。と言われ食べはじめるが。味は分からない。
「とても豪華な食事ね。でも、今の私には味が分からないわ。
貴方の屋敷で食べた食事を思い出してしまうの。あの閉じ込められた日々を」
ほとんど手を付けてない料理。カラトリーをテーブルへ置くと、アストラ様の手も止まった。
「すまない。少し考えれば分かる事なのに」
「いえ、私のワガママだわ。申し訳ございません」
この人が、ここまで感情を露にするところを、私は初めて見た。例え、悲しそうな顔でも。
「料理は下げてもらう。でも、話を……話だけでも聞いてくれないか?」
「分かったわ」
しばらくして、料理を全て下げてもらい。アストラ様と向かいあったまま、話すまで私は待っていた。
「あの夏の日々。俺はティンキーと初めて会ったんだ」
二人で森の中を走り回った事。私がアストラ様の手を引いていた事。そして、湖へ一緒に行った事。
「子どもだったんだ。違う、それは言い訳だな。あの時、恥ずかしかったんだ。
好きな女の子の顔が近付いて、そして、思わず突き飛ばして、前を見ず走り出してしまった。
そして、俺は湖に落ち。ティンキー、君に助けらた」
「私が助けたの?」
「そう、君は私を助ける為。湖へ飛び込み、でも水に濡れた子ども二人が自力で上がる事は出来ない。
その時、『みんな、彼を助けて』君の声に反応した蔦が、君と俺を助けた。
それなのに……俺は…君にバケモノと…叫んで逃げ出した」
最後は泣きながら話したアストラ様。あれは夢では、なかったのね。