08:女装の理由
二度目の機会は間もなくやってきた。
前回の手紙にフランシスカが休日の予定を書いて返事をしたところ、すぐに直近の休日に会おうという答えが返ってきたのだ。
前回と同じ宮殿の客間で、この日もゲオルクの言葉によってチェスが始まった。
結果は、フランシスカの負けだ。前回から全戦全敗になる。
手加減をしたわけではなかった。本気で挑んで、負けたのだ。しかしこう負けが続けば手加減をしていると思われてしまうだろうか。あれから改めてチェスの戦術書を読み、腕を磨いたというのに。
「手応えのない対戦相手ですみません」
「いやだな、俺はルバ朝の暴君じゃないんだ、チェスが弱いからと処刑するような真似はしない。ただ君と対戦しているだけで楽しいんだよ、だからそんなに気負わないでくれ」
「……恐れ入ります」
――人当りはよくふるまっているが、本心は明かさない。
笑顔のゲオルクを前にしても、父の言葉がフランシスカを不安にした。笑って言う言葉は本心だろうか、と。一方で、疑わず、誠実でいなければと思う心がどうしてもフランシスカの言葉をぎこちなくさせた。
「でもそうだなあ、君が俺のために強くなりたいと思ってくれているのなら、ひとつ助言をしようか」
「はい、ぜひ」
「君の手はたぶん、教本や戦術書に忠実すぎるんだろう。だから次の手が容易に読めてしまうんだよ。まあ、もちろん手を読むのが容易だからといって勝つのも容易というわけではないけれど。でも、やっぱり多少遊びがないとね、これは、チェスに限った話ではないんじゃないかな?」
ゲオルクがすっと細めた瞳でフランシスカを見据える。それはこちらの出方をうかがっているようにも見えた。
チェスに限った話ではない。そう問いかけた意味は、つまり。
「……殿下の、女装も、その”遊び”のひとつであるということですか?」
フランシスカがそう返すと、ゲオルクはにこりと笑った。
「まあ、そういうことになるのかな? つまり趣味というのは遊びということだからね」
チェスに限らず、物事には多少の遊びが必要だ。だからその遊びである女装は必要なことで、やめるつもりはない。ゲオルクはそう知らしめるためにチェスに限った話ではないのではないかと問いかけてきたのだ。
それは、これ以上こちら側に踏み込んでくるなという警告だったかもしれない。
けれどフランシスカはその警告に従うわけにはいかなかった。
「……あの、お聞きしても、よろしいでしょうか」
フランシスカが控えめに切り出せば、ゲオルクは笑みを浮かべたままで「うん、何?」と言う。
「殿下はなぜ、……女装をされるのですか?」
ゲオルクの目がわずかに驚いたように見開かれる。
フランシスカがゲオルクの手紙を貰った日に決めたことは、ふたつある。ひとつは『女装』という言葉をはっきり言うこと。アレとかソレとかいった言葉で濁すのは、真摯に向き合う態度ではないと考えたのだ。
そしてもうひとつは、ゲオルクにこの問いをすることだ。
女装趣味に干渉するなら、真正面から。そう考えたフランシスカは女装をする理由さえも真正面から聞くことにした。
書物にはヒントはあるが、答えはない。答えがあるのは唯一、ゲオルクの中だ。真正面から向き合うなら、そこへ踏み込まなければいけない。
ゲオルクは数度瞬きをしたあと、また笑みを浮かべた。
「言っただろう、趣味だって。女装を趣味で楽しむのに、理由なんか必要かい?」
女装は趣味。会話の流れから考えてそう返されることは予測できた。繰り返されるそれは本当なのかもしれない。
「けれど、やはりなにか理由があるのではと思うのです。ある日突発的に女装をしようと思いついたわけではないでしょう? 私は、女装をやめていただくよう説得するつもりではありません、ただ、理由を知りたいのです」
食い下がると、ゲオルクは意外そうな顔をした。いや、しつこいフランシスカを不快に思ったのだろう。笑みは浮かべず、口に手を当てて考え込む仕草をする。
「そうだな、参考までに、君はどう思っているのか聞いてみたいな。君は、どうして俺が女装しているんだと思う?」
ゲオルクはそう問い返してきた。フランシスカは少し戸惑うが、すぐに頭の中で言葉を組み立てて、答えを返した。
「……母君であられる王妃様の面影を、ご自分の女装した姿に見ているのかと」
ゲオルクは平坦な声で「ふうん」と言った。
「そう思う根拠は?」
問いを続けられて、フランシスカも答えを続ける。
「私は、殿下が女装をされる理由がわからず、書物に頼りました。女装をする男性が出てくる小説や演劇を調べたのです。変装の他に女装をする彼らは、主に心的要因から女装をすることで安らぎを得ているのだという結論に至りました」
「なるほど、それで俺の心的要因といえば、母のことだと考えたわけだ」
返された『なるほど』は、随分と客観的な響きを伴って聞こえた。
「まあ、男として欠陥があると断じられるよりはそう思われたほうが気分はいいよね。兄上にそう言えば納得してくれるかな、いや、でもそれはそれでいつまでも引きずるなと叱られてしまうだけか」
ゲオルクはそう言うと、急に笑みをなくしてフランシスカを見据えた。
「それで? もしそうだったとして、君はどうするつもりだ?」
冷ややかな声。真夏の青空を思わせるはずの紺碧の目は、深く冷たい海を思わせるものに変わっている。
「知ってどうする? やめるよう説得する気がないと言いながら、理由を知って、それを解決すれば女装をやめさせることができると思っているんじゃないのか?」
そんなことはない。自分は本当にゲオルクを思って寄り添おうとしている。そのために理由を知りたいのだ。そんなことは言えなかった。
それはまるで、幼いゲオルクを傷つけた人間が言う言葉であると気が付いてしまったからだ。
違う。自分が言うべきなのはそんなことではない。どくどくと響く心臓の音が気持ちをはやらせ、不安をあおる。けれどフランシスカは必死で考え、声を出した。
「……父から、殿下が女装している事実を聞き、殿下に近づけと言われたとき、女装をやめていただくように説得しろと言われたのだと思いました」
ゲオルクは『そらみろ』などと罵倒することもなく、ただ黙っていた。
「けれど、前回殿下にお会いした後、父は私にこう言ったんです。殿下の女装をどうしてもやめさせてほしいのではない、ただ、殿下に寄り添って差し上げてほしい、と」
幼いころ周囲の人間に傷つけられた殿下を思う気持ち。けれどそういう人間と自分は変わらないから、自分では殿下に寄り添うことができないという思い。フランシスカは父の言葉を全て告げた。ゲオルクはやはり、黙ったままだ。
「私は、殿下のお心を知りたいと思っています。それは父に言われたからだろうと指摘をされてしまえば、返す言葉はありません。おっしゃるとおり、お心を知って、女装をやめていただくよう説得できるのではないかということも、まったく考えていないとも言い切れないでしょう」
フランシスカは、深く冷たい海のような目をじっと見据えた。自分の言葉が少しでも、真実だと伝わるように思いを込めて。
「けれど、殿下に対して偽りなくありたいと思う心は真実だと、私は思っています」
紺碧の目はじいっとこちらを見返して、そして「ぷっ」という声が聞こえたのと同時に三日月の形に細められた。