表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/25

07:ジャンベール財務卿

 こみあげるあくびを、頬の内側を噛んでおさえつける。思いきり噛めば痛みで頭が冴える気がした。一挙両得とはこのことだ。ぎりぎりと頬の内側を噛みしめながら、フランシスカは財務室で書類に向かっていた。

 昨日の夜は決意した通り、一睡もしなかった。アンネには少し眠ってから出勤するよう言われたがそれには従わず、家を出たのはいつも通りの時間だ。そうしなければ、これまで続けてきた一番に財務室に入るという習慣が途切れてしまう。

 そんなわけにはいかないのだ。こつこつと積み上げた石が崩れるのは一瞬である。崩れたならば、それは大きな隙になってしまう。



「酷い顔色だな」



 ちょうど財務室から人が出払ったタイミングで声がする。ほかでもない、フランシスカにかけられた声だ。顔色を指摘したそれは気遣いの言葉ではない。なぜなら一瞥した彼の顔には侮蔑の笑みが浮かぶからである。



「頑張ってますなんてアピールか? さすが、女のやり方は姑息なことだ。顔色が悪いふりをしておけば同情を買えるとでも思っているんだろうが、残念ながら醜いだけだぞ」



 慣れるものではないが、またか、という思いはあった。それに今回は顔色が悪いことに目をつけられたのだから、寝不足という隙があった自分の落ち度もある。

 こちらを見下ろす彼は、フランシスカと同じく今年財務室に配属された男性だ。名前はニコラス・ラフーケ。

 ほとんどの場合、女性を対等な存在として見ない男性はフランシスカを無視する。だが、ときどき彼のように面と向かって悪意を向けてくる男性もいた。陰口を叩くのも、噂話を囁くのも、たいてい彼らのような人間だ。そういう人間は王立大学のときにもいて、ラフーケはまさしく彼らと等しい存在だった。

 他に人がいないタイミングを狙ってくるのも同じだ。人前で堂々とやったなら自分の価値を貶める行為だとわかっているのだ。そのくせ、さも自分は正しいというような言い方をする。

 こういうとき、フランシスカは黙ってやりすごす。言い返せば助長するだけだ。それに、黙っていれば誰かが戻ってきたとき彼が一人でべらべらと喋っていることになる。そうすれば注意をされるのは彼だ。……まあ、迷惑そうな視線を向けられるのはこちらなのだが。



「どうせ昨日の夜も例の男にちやほやされたのだろうに、それだけじゃ足りなくなったってわけか。まあ仕方がない、女は周囲にちやほやされてこそ生きがいを感じる生き物だからな」



 だから彼が根も葉もない噂話をさも事実であるように言っても、フランシスカは黙っていた。

 近頃、フランシスカが売れない画家にひどく入れ込んでいる、という噂が流行っているらしい。今では尾ひれがついて、その画家に金品を貢いでいるというものになっているようだ。なんでも、カタブツのお嬢様は甘い言葉を囁く画家に癒しを求め、心のよりどころを欲しているのだとか。だから画家の求めるままになんでも与えるのだという。

 なんとも荒唐無稽な噂である。カタブツのお嬢様は癒しを求めることも、よりどころを求めることも、自分に許すはずはないというのに。

 とはいえ蔓延するそれを払拭できないのは己の未熟さのせいなのだろう。こうして悪意を向けられるのも侮られているからだ。侮られるのは、つまり自分に隙があるということだった。そう思えば感じるのは腹立たしさよりも、己が未熟であることへの悔しさと情けなさである。



「おい、黙ってるなよ。それとも、反論の言葉がないからそうしているのか? 俺の言ったことが事実だと認めるんだな」



 黙ってやり過ごそうとしていたが、そう言われてしまうとさすがにそうしているわけにはいかなくなってしまった。



「……いいえ、そんな事実はありません」

「ふん、そうして慌てて否定する態度こそ怪しいじゃないか、人間は図星を指されると怒るものだからな」

「沈黙を肯定と取られては困りますので、否定したまでです。それ以上の意味はありません」



 フランシスカが反論の言葉を言いきったとき、


「うるさいぞ、私語は慎め」


 と第三者の声が私語を咎めた。開けっ放しの扉から文官が一人戻ってきたのだ。彼の迷惑だといった視線は、フランシスカのほうにだけ向けられた。

 フランシスカが「すみません」と謝った一方で、ラフーケは何も言わず仕事に戻ろうとする。それを咎める声はない。代わりに聞こえるのは「これだから女がいると面倒なんだ」と呟く声だ。



「なぜ面倒なんだ?」



 聞こえた声に、全員が扉のほうを見た。そこには立つのはジャンベールだ。彼はそのまま財務室に入ってくると、私語を咎めた文官の名を呼んだ。



「なぜ、ベックマンがいると面倒だというんだ?」

「それは」



 問いただされた文官は言葉につまる。気まずげにさまよった視線はやがてフランシスカに向けられた。



「……彼女がいるから、ラフーケがバカなことをするのだと」

「それは、ベックマンが悪いのか?」



 苦し紛れに言った言葉も容赦なく追及され、彼はついに項垂れて「すみません」と言った。

 一方で黙っていられないのは分が悪くなったラフーケだ。



「ま、待ってくださいよおじさん、俺は……そう、こいつが話しかけてくるから、私語はやめろと咎めていただけです、指図をするなと言い返してくるから、言い合っていただけで」



 ジャンベールはそんな主張をする彼を一瞥して、すぐに先ほどの文官に視線を戻した。



「そういう状況だったと、君には見えたか?」

「……いえ、明らかにラフーケから彼女に話しかけていました。沈黙を肯定と取られては困ると言っていたので、ベックマンは仕方なく反論したのでしょう」



 聞かれた文官はきっぱりと証言した。そもそもバカなことをすると評しているのだから、彼にはラフーケを庇う義理はないのだろう。

 言葉を失うラフーケにジャンベールが厳しい目を向ける。



「ラフーケ、人を侮る行為はもとより、自分の価値を貶めることをするんじゃない。それに、職場ではそう呼ぶなと言っただろう」

「……す、すみません、ジャンベール様」



 叱られ、ラフーケは目を伏せる。ジャンベールの言葉を理解しているようではないが、今はそう言うよりほかはないのだろう。

 それからジャンベールが「さあ、仕事に戻りなさい」と言い、財務室はようやく静寂を取り戻した。










 鐘の音が聞こえる。昼時を知らせるそれが鳴ると、一人、また一人と席を立った。皆、これを合図に昼食をとるために財務室を出て行くのだ。

 ジャンベールが席を立ったのを見て、フランシスカはその背中を追った。そうして扉を出たところで「ジャンベール様」と呼び止める。



「先ほどは、すみません」

「いや、あれは彼らに落ち度がある、君が謝ることではないよ」



 頭を下げるフランシスカにジャンベールは笑顔を返した。だからといってそれに甘えてはいけない。



「けれど、そもそもは私の未熟さが招いたことです。私に隙があるから、あのように侮られるのだと思っています」



 そう反省の意を告げれば、ジャンベールは少し黙ったあとにこんなことを言った。



「ベックマン、悔しいかね?」



 突然の問いにフランシスカは目を丸くする。ジャンベールはすぐに言葉を続けた。



「君は決して自分を甘やかさず、理不尽な悪意も自分の未熟さのせいだと考えるほどの真面目な人だ。それなのに、女だからというだけで君自身も、君の努力も、正当に評価されていない。そのくせ男は、男だからというだけで何の憂いもなく評価される。この事実が、悔しいと思うか?」



 ジャンベールの表情には険しさがあった。フランシスカの境遇を気にかけて、心を痛めてくれているのだ。本当に自分は幸運だ。大学では差別意識のない教授に恵まれ、職場ではこんな素晴らしい上司に巡り合えた。その人を前に、ただ男への恨み言を言おうと思うはずはなかった。



「……はい、認められないことは、悔しいと思っています」

「そうだね、悔しいに決まっている」

「ですから、いっそうの努力を続けます。何もせずに認めてもらいたいとだけ言うわけにはいきません」



 フランシスカの答えに、ジャンベールは少し驚いたような顔をした。それから柔らかく微笑む。



「若いとは、素晴らしいことだね。……それと、君の努力が正当に評価されていないと言ってしまったが、少なくとも私は君の努力を認めているよ」

「あ、ありがとうございます」



 ジャンベールは「それでは、午後もよろしく頼むよ」と言って背を向ける。フランシスカは頭を下げて、去っていくジャンベールの背中を見送った。

 ――いっそうの努力を続ける。

 これは仕事のこともそうだし、ゲオルクのこともそうだ。期待に応えるために、そして何よりその人のために。

 そのためには、休んでいる暇なんてない。

 昨日眠らなかったのは、本当によかった。時間を無駄にしないで済んだのだから。今日もなるべく眠ってしまわないようにしよう。


 ――頭の中で叱るアンネの姿は、今日も見ないふりをした。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ