06:父の思い
「また……よくわからない間に大変なことになった……」
宮殿から帰ってきたフランシスカは、また自室の机の前で頭を抱えた。
しかし頭の中は以前よりも情報が行儀よく並んでいて、フランシスカは冷静に状況を整理しはじめた。
ゲオルクは、オスカーやフランシスカの父が考えていることを見抜いている。
その上で、今後もフランシスカと会うことを約束した。
「……な、情けなさすぎる……」
整理した情報に、やはり頭を抱えた。
フランシスカはゲオルクにその魂胆を見破られた上に、逆に彼に利用されてしまったのだ。
あの後迎えに来た父に連れられ、オスカーの部屋でゲオルクとの顛末を報告した。オスカーも父も、フランシスカを叱ることはしなかった。それどころかこの展開をある程度予測していたと言い、今後も会う約束を取り付けたことを褒められてしまったのだ。
それは、フランシスカが自身の力で成し遂げたことではないというのに。
落ち込んだ拍子に扉を叩く音が聞こえてフランシスカは顔を上げる。返事をすると、扉を開いて入ってきたのは父だった。
「フランシスカ、さっそくゲオルク殿下からお手紙が届いたぞ」
立ちあがって出迎えたフランシスカに、父は持っていた手紙を差し出す。
だが、この目に見える成果は決して自分の力で成したものではない。そう思えばフランシスカは手を伸ばすことができなかった。
「どうした、フランシスカ」
「……私のしたことは、正しかったのでしょうか」
思わず弱音をもらす。その瞬間に父の表情が少し動いたのを、フランシスカは目の端に捉えていた。
「先ほども言ったが、私とて殿下がこちらの思惑に気が付かれないなどと楽観視するはずがない。それでも殿下は、今後もお前と会うことを決められた。お前は殿下に、今後も会おうと思わせた時点で、きちんと自分に与えられた仕事をこなしたことになるんだよ」
「けれど、殿下はオスカー殿下の追及の手を緩めるためにそうされただけです。私にまた会おうと思わせる魅力があったのではありません」
父も本当は失望しているのではないか。ただゲオルクの言いなりになっただけの娘を。
「フランシスカ」
しかしフランシスカの耳に聞こえたのは、父の諭すような、優しい声だった。
「何はどうあれ、お前は機会を掴んだのだよ。落ち込んだままで、それを無駄にする気かい?」
父の言葉にはっと息をのんだ。父の表情は決して険しくはない。しかし有無を言わせぬ力強さが確かにある。これは、父がフランシスカの間違いを正すときの顔だ。
「フランシスカ、私はお前に、殿下のあれをどうしてもやめさせてほしいというわけではない。ただ、殿下のお心に寄り添って差し上げてほしいんだ」
「寄り添う……ですか?」
「殿下は、周囲に振り回されてきたお方だ。まだオスカー殿下のお体が弱かったころ、殿下に順番が回ってくるのではないかと近寄る人間が多くいた。しかしオスカー殿下が丈夫になられると彼らはいとも簡単に手のひらを返す。そういう人間に、殿下は酷く傷つけられた」
それはフランシスカも父に聞かされて知っている事実だった。オスカーの体が弱かったころというのは彼が幼いときで、ゲオルクはそれ以上に幼かった。
「その経験は今の殿下に多大な影響を与えている。人当りはよくふるまわれているが、その実本心を明かそうとはされず、他人を簡単に受け入れようとはしない。私も真摯に向き合っているつもりだが……私では、だめらしい」
思えば父は、ゲオルクの女装をやめさせろとは言わなかった。オスカーと王のために、ゲオルクに近づけ、と言っただけだ。
父がゲオルクを思う気持ちは本物なのだろう。しかしベックマン家の当主としてオスカーに仕える父はどうしても、オスカーと王のためにことを為す意識が強くなってしまう。
人の裏に聡いゲオルクは、それを見抜いているのだ。だから父は、自分ではだめだと言う。それも、悲しげな顔で。
「フランシスカはいつも目の前のことにまっすぐ向き合っている、その姿勢がきっと、殿下のお心を動かすはずだよ」
ゲオルクの心を動かす。それは、父ができなかったことだ。
――はたして、私にできるでしょうか。
フランシスカはその弱音をのみこんだ。できるかできないかではない、やるのだ。不安になっていて、与えられた機会を無駄にしてはいけない。父の期待に応えるためにも、そして何より、ゲオルクのために。
父が再度、手紙をフランシスカへ差し出す。フランシスカは今度こそためらいなく手を伸ばし、それを受け取るのだった。
父が出ていき、一人になった部屋で机に向かい、ゲオルクからの手紙を開く。
手紙の内容はチェスの相手を務めてくれたことへの感謝の言葉から始まった。次に、今後の休日の予定を聞く言葉が続く。文体は親しげだがどこか固さは残している、まさしく親しくなり始めた友人に向けるものだ。あくまでチェス仲間として好意を寄せているように見えるだろう。
(いったい、何をお考えなのだろう)
文面に目を落としながらフランシスカはゲオルクのことを考えた。
頭に浮かぶのは、兄への不平交じりに女装は『ただの趣味』だと言い切った姿だ。あのとき、彼は本当のことを言っていただろうか? いや、フランシスカが自分の兄から差し向けられた刺客だとわかっていて本当のことを言うとは考えられない。
そう考えて、はたと気付く。
今の自分は、ゲオルクが幼いころにすり寄られた人間と変わらないということに。
チェス仲間などと笑顔で近づいて、腹では女装趣味に諌言するための算段を立てている。
……いや、女装趣味は諌言してしかるべきなのではとも思うが。いやいや、それにしてもやり方である。真正面から言わないことこそ不実なのだ。
――フランシスカはいつも目の前のことにまっすぐ向き合っている、その姿勢がきっと、殿下のお心を動かすはずだよ。
父の言葉を思い出して、ああと思う。父は指針を与えてくれていたのだ。
ゲオルクにまっすぐ向き合う。きっとそれが唯一の方法で、自分にできることだった。
それがわかればフランシスカは少し考えて、いくつかのことを決めた。
次は、そのための準備だ。
フランシスカは立ち上がり、真っ直ぐ扉に向かうと部屋を出た。目指す先は書庫だ。とにかく必要な知識を詰め込む。そして理解のための地盤を作る。
それこそが唯一の道だと信じて、今日も夜通しそうする決意をした。