05:ゲオルク殿下
足元の絨毯には緑と赤の糸で細かな模様が刺繍されている。イチゴ畑をモチーフにした柄は、ウナ地方の伝統的な模様だ。手仕事によってのみ描かれることを許されたその模様は、この絨毯が職人の手による逸品であることを表している。
そんな逸品で彩られたこの部屋は、宮殿内に数ある客間のうちの一つだった。フランシスカはここでゲオルクを待つよう言われたのだ。
窓際にはチェス盤の乗った机があって、それを挟んで向かい合う形で椅子が二脚置かれている。
父とオスカーが共謀して用意した建前は、フランシスカをチェスの対戦相手として紹介することだった。ゲオルクはチェスを趣味としており、仕事の休憩時間によく同僚や自分の従者と対戦をしているらしい。近頃は決まった相手とばかり対戦することに飽きていて、新たな対戦相手を探していたのだとか。フランシスカは教養のひとつとしてチェスもたしなんでいる。だからチェスの新しい対戦相手というのはうってつけの建前だった。
チェス盤の傍へ寄ると、窓に自分の姿が映るのが見えた。
アンネによって施された化粧。頬は淡く紅に染まっている。凡庸な茶色の髪は側面が編み込まれ、鮮やかな黄色のリボンが彩りを添えていた。
それからなんとなく胸元に手をやる。劣等感を抱いているわけではないが、男性は一般的にふくよかな胸の女性が好みだろうか。詰め物をするべきだったか? いや、今更考えても遅いか。
顔に視線を戻して、にっと口角を上げる。笑顔の練習だ。滑稽さが増した気がしたが、気付かないふりをして練習を続けた。
そうしているうち御影石の廊下を硬い靴底が鳴らす音が聞こえて、フランシスカは慌てて振り返った。それから扉の傍に戻り、足音の主を待ち受けるために姿勢を正す。
開いたままの扉からその人物が入ってくると、フランシスカは礼をした。練習した笑顔を浮かべて、顔を上げる。
「ご無沙汰しております、殿下」
「やあ久しぶり、フランシスカ嬢。王立大学の卒業パーティー以来かな」
紺碧の目が細められ、フランシスカを捉えた。ふっくらとした形の良い唇から放たれた言葉の通り、王立大学の卒業パーティーで互いに来賓と主席卒業者として顔を合わせた以来の変わらぬ姿がそこにあった。
金木犀を思わせる金髪を後ろでひとつに結んだその人は、まさしく第二王子ゲオルク・キンバーだ。後ろには同じ年頃の従者を一人連れている。
「覚えていていただけて、光栄です」
「ベックマン家の人間を忘れるわけはないさ。今は父や兄と同じように文官として城で働いているんだったね」
「はい、ジャンベール外務卿の元で働いております」
「ジャンベールか、彼の元ならいろいろと学ぶことが多いだろう」
「日々勉強をさせていただいております」
言葉を返しつつ、フランシスカはゲオルクの様子を観察していた。
親しげな様子でフランシスカに言葉をかけるゲオルクは休日の為軍服ではないが、生成色のシャツに濃緑のベストとズボンという衣装に身を包んでいる。それは確かに男性用の服装だ。軍属のためか少々日に焼けた肌と合わせて、ドレスを着た姿など想像もできないような――いやそもそも想像したくないのだが――男らしい姿である。
「と……仕事の話をするのはよそうか、今日は休日なんだからね。俺のチェスの相手をしてくれるんだろう? さっそく始めようじゃないか」
あいさつ代わりの会話が終わると、ゲオルクがそう言ってチェス盤の用意された窓際へ促した。彼が歩けば金木犀を思わせる色の髪が左右に揺れる。甘い香りこそ感じないものの、たったそれだけの仕草で見る人間を魅了する美貌はフランシスカにも理解できた。
「君はそちらに座ってくれ、俺はこっちだ」
ゲオルクがそう言ってフランシスカを手で促したのは、白の駒側の椅子だった。チェスは白の駒が先手と決まっている。つまりゲオルクは先手を譲ると言っているのだ。フランシスカは「ありがとうございます」と返すと、ゲオルクが座るのを待ってから自分も座った。
互いに礼をして、ゲームが始まる。フランシスカが白の駒をひとつ手に取り、動かした。
「ふむ、君の一手目はそれか」
そうつぶやいて、ゲオルクが黒の駒を動かす。その動きからフランシスカはゲオルクの手を読んでいく。
父から、ゲオルクがチェスの対戦相手に求めているのは真剣さだと聞いていた。完膚なきまでに打ちのめされるよりも、気を遣って手加減をされるほうが嫌いなのだという。だからフランシスカは改めてチェスの戦術書を読み、そして今は勝つことだけに集中をしていた。
しばらくの間、駒が盤を鳴らす音だけが客間を満たす。
やがて局面が終盤に差し掛かったころ。静寂を打ち破るようにゲオルクの声がした。
「強いな、まるで戦術書のように的確な手だ」
「……恐縮です」
「けれど、チェスを楽しんでいるようには感じられない」
ゲオルクの言葉にフランシスカはえっと顔を上げる。ゲオルクは笑みを浮かべていて、フランシスカをじっと見ていた。
「君の父か、俺の兄上か、いや両方だろうな。彼らに頼まれたんだろう? 俺に取り入って、女装をやめさせろと」
フランシスカは息をのんだ。自分の思惑が見抜かれていたこともそうだったし、ゲオルクがはっきりと『女装』と口にしたことも衝撃だった。それから扉の傍に立つゲオルクの従者に視線を向ける。
「ああ、エリオットなら大丈夫だよ、彼は俺が女装を楽しんでいる事実を知っている。というか、俺の協力者だ」
フランシスカの意図を察したらしいゲオルクがそう言った。彼の言う通り、エリオットと呼ばれた従者は動揺した様子もなく小さく頷く。
改めてゲオルクに視線を戻すと、こちらを見る目と視線が合った。紺碧の瞳は、全てを見抜かれているようである。
彼は手加減をされることを嫌う性格だ。ごまかすよりも正直に打ち明ける方が心証はいいに違いない。フランシスカは膝の上で拳をぎゅっと握り、頭を下げた。
「……大変、失礼なことをしました」
「いや、いいんだ、君を責めているわけじゃない」
次いで「だから顔を上げてくれ」と言われて、フランシスカは下げた頭をゆっくりと上げる。ゲオルクは頭を下げる前と同じ笑みを浮かべていた。
「むしろ君には同情しているよ、俺と兄上の兄弟喧嘩に巻き込まれてしまったわけだからな」
そう言うとゲオルクは困ったように眉を下げ、ふうとため息をついた。
「まったく兄上ときたら、俺がいくら趣味だと言っても聞く耳持たず、男として何か欠陥があるに違いないなんて自分に都合のいいように決めつけて、娼館の女性にも興味を示さないとみるやこうして君という女性まで送り込んでくるんだから、困ったものだな」
「それについては、本当に申し訳なく思っています」
「いや、君はいいんだよ、問題なのは兄上だ。だいたい、俺の女装はこのチェスと同じでただの趣味だ。女装をして仕事もしていなければ、女装趣味のために仕事をないがしろにもしていない。たしかにドレスを仕立てるための金は税金かもしれないが、それでも俺が軍人として働いた給金だし、むやみやたらに高いドレスをいくつも注文して散財しているわけでもない。兄上に叱られる道理はないじゃないか。兄上が勝手に俺のプライベートな空間に飛び込んできて、勝手に腹を立てているだけだろ」
ゲオルクがまくしたてた不平には一理ある。しかし、だからといって言いくるめられてしまうわけにはいかない。
「恐れながら、オスカー殿下はただ個人的な感情だけで腹を立てているわけではないのではありませんか。もしも、その、この事情が外部に漏れてしまったら、王家の評判が落ちてしまうということをお考えなのでしょう」
「評判、ね。女装趣味は評判が落ちるか」
冷ややかに言われ、フランシスカは慌てて「失礼しました」と謝罪する。
「いや、いいんだ。そんなの醜聞に違いないだろうからね、だから俺だってエリオットにも協力してもらってこっそり楽しんでいたんだから。それもわかってはいるが、俺は女装をやめるつもりはないよ」
反論も空しく、きっぱりと言い切られてしまう。フランシスカは次の言葉をくり出すことができなかった。
けれど、しかし、と言いたいことはある。だがそれを言ったところでゲオルクの意見は変わりそうにないことを察してしまったのだ。紺碧の目はそれほどまでに強い意志を宿していた。あるいはあれは、拒絶の意志だ。
それに引き替え、自分は覚悟が甘かった。あっという間に真意を見抜かれたあげく、女装をやめるよう強く説得することもできない。自分の無力さを思い知らされ、フランシスカは奥歯を噛みしめる。
「けれど、何らかの成果がなければ君が叱られてしまうんだろう? さすがにそれは心苦しい。だからこうしないか?」
思いがけない言葉に思わずえっと声をあげる。ゲオルクは変わらず笑みを浮かべていた。
「俺たちはチェス仲間として、これからも定期的に会おう。例えば君と俺の休日が合ったときとか、仕事終わりに少し時間があるときとかにね。俺はチェス仲間を得られるし、君はもしかすると俺を虜にして、女装をやめさせることができるかもしれない。俺だって、今のところは女装をやめるつもりはないだけだからね。それに、ひとまず君を受け入れておけば兄上も少しは大人しくなってくれるだろうし」
恐らく、最後の一言が本音なのだろうと察することができた。ゲオルクはフランシスカを利用する気でいる。だからといってゲオルクの提案を跳ねのけて、それなら今後一切会わないと言われてしまえばフランシスカは父とオスカーの期待に応えることができない。彼はきっと、フランシスカがこの提案を受け入れざるを得ないこともわかっているのだ。
それでも受け入れていいものかと、フランシスカはためらう。
するとゲオルクが盤上に視線を落としたのが見えて、その視線の先を追った。ゲオルクの長い指が黒の駒を掴んで持ち上げる。カツ、と音を立てて置かれた駒は、白のキングを狙っていた。
チェックだ。そうされたならこちらは必ずキングを守る手を考えなければいけない。勝負を挑まれて、逃げることは許されないのだ。
この状況に、フランシスカはあっと思う。
――どんな手を使っても構わない。
それからオスカーの言葉がよみがえった。そうだ、どんなに情けなくとも、惨めでも、このチャンスにすがらなくてはいけない。そう理解すれば、フランシスカに葛藤の余地はなかった。
最後に残っていた駒を動かしてキングを守る。顔を上げれば、ゲオルクはフランシスカの言葉を待っているようだった。
「……殿下のご提案を、受け入れようと思います」
ゲオルクはにこりと笑って、また駒を動かした。黒の駒が白のキングを守る駒を蹴散らす。フランシスカは次の手でキングを逃がすが、またすぐに追い詰められてしまう。
チェックだ。今度こそ、キングを守るすべはなかった。
フランシスカは盤上に手を伸ばし、ぱたり、とキングの駒を倒す。
目の前に手が差し出された。試合終了の握手だ。
「これからよろしく、フランシスカ嬢」
真夏の青空を思わせる色の目が、ゆるやかな、美しい弧を描く。
あるいはこの握手は、取引が成立した証であるかもしれない。
「……はい」
ゲオルクの手を握り返してそう答えたフランシスカは、練習した笑顔をもう一度浮かべる余裕はなかった。