03:不安になるのは
はっと意識が浮上した。
フランシスカは慌てて周囲を見回し、カーテンの隙間から日が差していることに気が付く。と、同時に扉の外から呼びかける声がした。もうそんな時間なのかと焦りつつ返事を返す。
小間使いのアンネが入ってくると、彼女はベッドの縁に腰掛けた状態のフランシスカを見て驚いた顔をした。
「お嬢様ったら、朝まで読まれていたんですか?」
「本当はそうしたかったのだけど、途中で眠ってしまったみたい。ああ……ここにあるだけの本は読み終えてしまいたかったのに」
フランシスカは落胆した瞳で脇に積まれた数十冊もの本を見下ろした。
昨日は書庫で小説を読みふけっていたところをこのアンネに見つかったのだ。就寝の準備に訪れた部屋にフランシスカがいないものだから、慌てて探しにきたらしい。彼女に『読むならお部屋で!』と言われ、連れ戻された部屋でベッドの縁に座ってランプの灯りを頼りに小説の続きを読んでいたのだが、知らぬ間に眠ってしまったようだ。夜が明けるまでには持ち込んだ全ての本を読んで、なにかひとつ、答えを出せるようにしておきたかったというのに。
しかしアンネが来てしまったからにはもう遅い。身支度を整えて、出勤しなければ。フランシスカは未練がましく本の表紙を撫でてから立ち上がった。
鏡台の前に座ると、鏡越しに呆れたような顔をしたアンネと目が合う。
「結局お休みになったのならよろしゅうございますが、そんな睡眠では疲れは取れません、むしろ余計に疲れてしまいます。本をお読みになるならきちんと時間をお決めになって、ゆっくりお休みくださいませ。そうでないと一晩中私が見張っていることになりかねませんよ」
アンネは小言を言いながらフランシスカの髪を整えた。と言っても凡庸な茶色の、肩に付かないほどの短い髪は結いあげる必要もなく、ブラシで撫でるぐらいしか工程はないのだが、その少ない工程をアンネは丁寧にこなしていく。
フランシスカが七つのときから一緒にいる彼女はすっかり口うるさい世話焼き屋に成長してしまった。とはいえ彼女をそうしたのは自分の行いが原因だという自覚があればこそ、フランシスカはその小言を甘んじて受け入れるのだ。――ただし聞き入れるかどうかは別である――
「……まあ、恐らくお聞き入れにはならないでしょうが。ええ、ええ、アンネは構いませんよ。それならばそれでこちらには十分すぎるほどの手がございますからね。たとえば朝は日の光をしっかり浴びていただくよう仕向けるとか、朝食には必ずホットミルクを召し上がっていただくとか、あらゆる安眠効果の情報を仕入れてはこっそりと試しておりますゆえ……あら、少し喋りすぎましたかしら」
それに口うるさいというのは主を思う気持ちの発露である。口うるさいほど思ってくれているということなのだから、なんとも頼もしいではないか。……うん、頼もしい。頼もしいのだ。
鏡の中の彼女から必死に目をそらすフランシスカは決して恐ろしいとか、そういうことは思っていない。……本当に。……断じて。
開いた扉の先にはまだ誰もいない。今日も一番乗りだ。わずかに安堵しつつ、フランシスカは財務室に足を踏み入れた。
王家の財務を管理するこの部署にはフランシスカを含めて五名の文官が在籍している。三年目の今年、ここに配属されたその日から、フランシスカは毎日誰よりも早く出勤していた。
かつて――ほんの六十年ほど前のことだが――王城に女性官僚というものは存在しなかった。
それが変わったのは先の王弟夫人であるサウザン夫人の功績と言えるだろう。
高位貴族の家に生まれた彼女は幼いころから男児と並ぶほどの賢さを見せていた。加えて勤勉な性格であったから成長しても勉学の才は失われず、その頭のよさを先の王弟に見初められてサウザン家に嫁いだのである。
先の王は兄弟ともども勤勉で知られた王であった。何よりも学問を重んじ、それは王立大学の門戸を高い身分を持たない人間にも開くという功績を成し遂げたほどである。しかし、そこに女性は含まれなかった。
王立大学の門戸を女性へも開く。王がついにそれを成し遂げた際の立役者こそがサウザン夫人である。
彼女は何人かの女性と一緒に、女性として初めての王立大学の卒業生となったのだ。それのみならず文官として王城に勤め、外務卿であった夫の元で活躍することとなる。やがて母となっても働く姿は、まさに新しい女性像の象徴であった。
それに触発されるように王立大学に入学する女性が増えた。やがて卒業した彼女たちは弁護士やホテルマンなど、従来男性のみが就く職業を選んで働き始め、女性弁護士や女性ホテルマンという存在が誕生したのだ。
それでも男性に比べた女性の割合は著しく低い。そのため、そうした職場は未だ男性社会の意識が根強い。
この王城でもそれは例外ではなかった。
扉が開いて、一人の文官が入ってくる。
「おはようございます」
フランシスカは立ち上がって挨拶をしたが、返事はない。それどころか一瞥さえしないまま、彼は自分の席へついた。フランシスカは落胆した顔もせず、静かに腰を下ろす。その後続々と集まる文官にもフランシスカは挨拶を続けたが、彼らは誰一人挨拶を返さず、そのくせ他の男性の文官には挨拶をして自分の席へつくのだった。
こんなのは今に始まったことではない。返事をもらえないとわかっていて挨拶をしたのだ。それに、返事が欲しいわけでもなかった。挨拶を続けているのは、たぶん、ただの意地だ。
王立大学で教える教授は、学ぶ意欲のある者に差はないという考えを持つ人間ばかりだった。王城で働くのはそんな教授らのもとで学んだ人間のはずなのだが、長らく男性社会に染まりきった性根は簡単には変わらないのだろう。
表向きは差別などないようにふるまっていても、男性優位の考えは意識しないまま彼らの根底に潜んでいる。
男性と同等、あるいはそれ以上の学問をおさめても男性と同等の能力とは認められず、ただ女であるだけで侮られる。目の前の状況のように露骨に無視をされるのは当たり前のことだった。
そうして関心がないようにふるまっていると思えば、女性服で出勤した女性官僚に対して、職場にふさわしい服装ではないと糾弾する。ではこれならば文句はないだろう、と男装して出勤すれば女が恰好だけ男をまねても中身は変わらないと揶揄する。更には少しでも化粧を施して出勤しようものなら、そんなものに気を遣う暇があるなら男に追いつくようもっと努力すべきではないかと陰口を叩く。
これらは女性官僚が誕生し始めたころにあったと言われる事例だ。だからフランシスカは男装をして、化粧もせず、髪は肩に付かないくらいに短く切っている。
少ないがフランシスカの他にも女性官僚はいて、皆同じ格好だ。とはいえフランシスカは彼女たちと口をきいたことはない。女性同士で結託をすれば「女はすぐに徒党を組みたがる」と揶揄されることはわかりきっているからだ。わざわざ隙を見せるようなことはしてはいけない。稀に偶然顔を合わせることはあるが、彼女たちも同じことを思っているのだろう、皆目も合わせようとしなかった。
ただしそんな中でも、救いはある。
扉が開く音がして、全員が立ち上がった。
入ってきたのは黒のローブをまとった壮齢の男性だ。頭を下げるフランシスカたちに片手をあげて挨拶をしながら、彼は部屋の奥にある最も上等な机へ向かう。そうして椅子へ腰を下ろす前に、全員を見渡した。
「みな、おはよう。それでは今日もよろしく頼むよ」
そう言い放ったのは、この財務室を統括するディルク・ジャンベール財務卿である。彼は全員に平等に笑いかける。フランシスカにも、だ。
女性への風当たりが強いこの職場で、ジャンベールという人間がいたことはフランシスカにとって大変な幸運だった。彼はフランシスカが女性であるからと不当に扱ったりせず、相応の仕事を与えてくれる。
文官になった当初は明らかに仕事量での差別をされることがあった。若かった――と言っても二年前だが――フランシスカは反発したが、相手は聞き入れず状況はまるで改善しなかった。
それを助けてくれたのがジャンベールだ。フランシスカが不服を訴えているところに偶然通りがかったジャンベールが、冷静に相手の非を指摘して言い伏せたのだ。その後状況はすっかり改善したとまでは言えないが、以前より変わったことは確かである。
彼がいなければ、フランシスカはすでに心が折れていたかもしれない。それほどまでの恩人だ。今年、満を持して財務室へ配属された。今まで手を抜いていたわけではないが、フランシスカは今まで以上に気を引き締めていた。
「これを頼むよ」
「はい、ジャンベール様」
聞こえてきた会話に少し顔を上げた。ジャンベールが一人の文官に一冊の冊子を手渡している。受け取っているのはフランシスカと同じく、今年財務室に配属になった男性だ。
ふとしたとき、こういう光景に不安を感じてしまう。
やっぱり、自分と男性では扱いに差があるのでは、と。フランシスカとて鉄の心を持つわけではない。露骨に無視をされ、認められなくて、平気でいられるはずはなかった。
――不安になるのは、努力が足りないせいだ。
己の未熟な心を叱咤するように言い聞かせる。そんなことを思っている暇があるならば成果を出す。努力もせずに認めてもらいたいとだけ思うのは傲慢だ。かつて誰かが言った言葉が脳裏をかすめる。
するとゲオルクの件も思って、それも同じことだと考えた。女装と殿下が結びつかないなどと泣き言を思っている暇があったら、とにかく情報を自分の中に取り入れて理解できる地盤を作ればいい。それだけのことだ。
いつだって、そうして道を切り開いてきた。
今日こそは全ての本を読んでしまおう。そして、なにかひとつ答えをだす。それまで絶対に眠ってはいけない。
頭の中で『お嬢様ったら!』と叱るアンネの言葉は聞かないふりをした。ついでに『でも朝のホットミルクが効いてくるはず……』とほくそえむアンネの姿も、全力で見ないふりをした。