25:殿下が女装をしている
フランシスカは、酷く緊張していた。
なぜなら例の一件以降、初めてゲオルクに会う休日を迎えているからである。
時間を置けばだいぶ冷静になれるかと思ったが、刻一刻とゲオルクと顔を合わせる時間が近づくたびに緊張は増していて、廊下を歩いている今はほぼピークと言っていいのではないだろうかという状態だった。
相手に恋をしていると自覚するだけで、こんなにも緊張するのか。加えて『ママになりたい』発言も完全に受け止めきれているわけではないのだ。いや、だが、あまり身構えていてはゲオルクを不安にさせてしまうかもしれない。今まで通りにしよう、と思っても、そう思うことで余計にぎこちなくなっている気さえしていた。
この期に及んでも心の準備ができないまま、廊下は無慈悲にもフランシスカを宮殿の奥へ導いていく。
前を歩くのは使用人ではなく、ゲオルクの従者だった。今日はなぜだか彼が案内として現れたのだ。だが、その違和感に構う余裕も今のフランシスカにはない。
ようやく、あれ、と思えたのは、見慣れない扉を目の前にしたときだった。
今まで通されていた客間の扉とは違う。深い、赤みがかった茶色は国内随一と名高いナミー地方の塗りの技術である。
初めてゲオルクに会う日に通された、オスカーの部屋の扉もこの色だった。王族の私室である証なのだろう。だがオスカーの部屋とは彫刻が違う。繊細な技術で施されているのは藤の花の彫刻だ。そして、ここに案内したのはゲオルクの従者だった。それが意味することは。
従者が扉を叩いて「殿下、お連れしました」と呼びかける。すぐに「入れてくれ」と返ってきた声で確信をした。
ここは、ゲオルクの私室だ。
いっそうの緊張が襲う前に、従者の手がゆっくりと扉を開いた。
「やあ、フランシスカ嬢」
――バタン。
と、思わず従者の手ごと取っ手を握って扉を閉めた。
「……そうなさりたいお気持ちはわかりますが、どうか、中へ」
そう言われ、彼の顔を見上げる。あくまで表情を崩さず冷静な様子だ。
どうしてそんなに冷静でいられるのか? と信じられない心地で見つめるうちに彼の手に重なっていた手をそっと外された。
それでも従者から視線を離せないでいるフランシスカに、彼は「開けてもよろしいでしょうか」と問いかけてくる。フランシスカは天を仰ぎ、大きく呼吸をし、唇を噛みしめ、たっぷり間をおいてようやく、なんとか、「はい……」と答えることができた。
そうして再度、従者の手がゆっくりと扉を開く。
「やあ、フランシスカ嬢」
何事もなかったかのように同じ言葉が繰り返される。フランシスカは遠くを見つめたくなるのを必死にこらえながら、礼をして部屋に入った。
「財務室がとても忙しくしていたことは聞いているよ、さぞ疲れただろう、今日は君をいっぱい労わろうと思ってとっておきのものを用意したんだ」
ゲオルクが「さあ」と促す先には湯気の立つティーカップと、スイーツの乗った皿の置かれた机。向かい合った椅子は背もたれに明るい緑の布がかけられていて、飾り気のない椅子を特別なものにしていた。
椅子に腰かけると、机の上に広がる初夏の庭が出迎える。
食器は縁が草花模様で彩られ、苺のトルテが皿の中で実をつけていた。庭に華やかさを添えるのは何匹もの小さな蝶がとまっているような白い花びら。濃い緑色をした丸く、縮れた葉のそれは、夏になると町中の窓を彩る花だ。
勧められ、苺のトルテを口にした。出始めの甘酸っぱい苺。それにまとわりつく濃厚なカスタードと一緒にシナモンティーで流し込む。
おいしい。とてもおいしいのだが、今のフランシスカには味を堪能する余裕はなかった。気持ちを落ち着けるはずのシナモンの香りも今だけは効果が半減している。ほっと息をつけそうにはなかった。目の前ではその元凶がにこにこと笑みを浮かべているのだから、なおさらである。
「ゼラニウムの香りがシナモンティーの香りを邪魔してはいけないと思ってね、造花にしてみたんだ、でもよくできてるだろう? ウナ地方で最近作られ始めたものなんだ」
布にろうを染みこませて作るのだという造花の説明を始めるゲオルクの顔を、じっと見つめた。何度見てもその姿は変わらない。白昼夢や幻ではないのだ。
ついに現実にしっかりと目を向けたフランシスカは「あの……」と口を開いた。ゲオルクが「ん?」と首を傾げる。
「そ、その恰好は……」
意を決して、その疑問を口にした。
ゲオルクはお茶目に人差し指を唇に当ててみせると
「ママになりたいは、こういうことも含むんだよ」
と、慈愛の女神と見紛う笑みで答えた。
従者が扉を開いた途端に見えたもの。
それは、金木犀を思わせる長い金髪を結い上げ、落ち着いた菫色のドレスに身を包んだ、とても美しい姿をしたゲオルクの姿だったのだ。
……つまり、ゲオルクが、女装をしていた。
「そ、そうでしたか……」
フランシスカはそんな言葉しか返せなかった。
あまりぎこちなくしていてはゲオルクを不安にさせてしまうかもしれない。そう思ってはいても、とりつくろう余裕もないほどに目の前の光景は衝撃なのだ。
いつか本人が言っていた通り、どうして似合わないと言えるのかというほどの出来だ。だいぶ、いやとても、いや死ぬほど似合っている。だが似合っているとか似合っていないとかの問題ではない。
状況を飲み込むのに苦心するフランシスカの一方で、ゲオルクは穏やかな表情のままで次の話題に移っていく。
「ところでフランシスカ嬢は、チェルシー女史のことを知っているかな?」
質問から始まった話題にフランシスカは目を瞬かせ、それでもなんとか「はい」と答えた。
「以前に、彼女を紹介する新聞記事を読んだことがあります」
チェルシー・ファンクルは、近頃街の話題をさらっているという女性弁護士だ。
下級貴族の出である彼女は王立大学で法律を学んだのちに弁護士となり、とある大手の事務所で働き始めたのだという。その後、大学に在学中から親しくしていた平民の男性と結婚をしたが、彼女は弁護士の仕事を続けることを選択した。のみならず、出産後も数か月の休職を経て復職を果たし、今でも変わりなく働いている。
そんな彼女は今、サウザン夫人に次いで理想の働く女性像の象徴となっているそうだ。
また、彼女を必要な人材と言い切り、受け入れる体制を整えた事務所。そして彼女の意思を尊重し、支えた夫にも働く女性たちから称賛の声が寄せられているのだという。
「俺も、妻が願うのならその望みを支えたい、そう思うよ」
チェルシー女史の話を引き合いに出し、まだいない自分の妻のことまで口にしたゲオルクの真意はいったい何なのか。考えようとしてもどうにもその恰好のせいでうまく頭が回らない。
ゲオルクが己の胸に手を当てると、袖口のレースがふわりと揺れた。
……そして今気付いたが、胸元がふっくらとしている。
「君に会えない間、ずっと考えていた」
フランシスカが困惑している間も、美しい姿のゲオルクは言葉を続けていく。
「頑張る君を甘やかしたい、それなのに休日にしか会えないなんてもどかしくてたまらない。君のおはようからおやすみに寄り添いたくて仕方がないんだ、いや、おやすみからおはようも決して逃さず見守りたい! だから、フランシスカ嬢!」
「は、はい!?」
だんだんと熱を帯びていく言葉の果てに名前を呼ばれ、思わず肩を跳ねあげた。
爛々と輝く紺碧の瞳がまっすぐこちらを見つめ、ふっくらとした、形のいい唇が大きく息を吸う。
「俺と、結婚しよう!」
フランシスカは瞬きをして、頭の中でゲオルクの言葉を二、三度繰り返した後、
「……は?」
と言った。
けっこん? 血痕? いや、血痕しようはあまりにおかしいだろう。
それじゃあ、もしかして、まさか、あるいは、よもや、ひょっとすると。
……『結婚』だというのか?
「一切不自由はさせないと誓う、君が憂いなく仕事を続けるためなら俺は何だってするよ。俺は、ずっと君の傍にいたいんだ、そのためには、結婚を申し込むしかないと思った」
繰り返された『結婚』の言葉に、フランシスカは大きく息をのんだ。
恋をした人に、結婚しようと言われた。
これほど舞い上がることがあるだろうかという出来事だというのに、なぜかフランシスカの胸は高鳴っていなかった。
いや、不快ではないのだ、決してそんなことはない。それどころか嬉しいと思っている。……たぶん、思っている。
だが理解が追いつかないのだ、どうしても。
「勝手なことを言っているのはわかっているけど、走り出したこの気持ちはもはや止められないんだ! 俺をママと呼んで、甘えてくれ! さあ! ぜひ!」
この言葉と、金木犀を思わせる長い金髪を結い上げ、落ち着いた菫色のドレスに身を包んだという恰好のせいで。
それでも。
なけなしの理性で、自分自身に『本当にこの人に恋をしているのか?』と問いかける。
……答えは、一切の余地なく、恋をしている、だった。
「か……」
どうしようもなくこの人が好きだ。
けれど。
「考えさせてください……!」
フランシスカは胸の前で拳を握り、力強くそう言い切った。
『殿下は夜な夜な女装をしている』
これにて一部完結です。時期は未定ですが、二部の予定があります。
ちょっと作品や書くことに対して自信をなくしているので、だいぶ後の予定になると思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
さばみそに




